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アニメの作画を語ろう
animator interview
板野一郎(1)


 『伝説巨神 イデオン』や『超時空要塞 マクロス』での板野一郎の仕事は、実に斬新なものだった。かつてないほどにシャープであり、リアル。しかも、アニメならではの映像の快楽がそこにあった。彼のハイスピード&アクロバティックなアクションを、ファンは“板野サーカス”と呼んだ。彼は、メカアニメの歴史を語るうえで決して忘れてはいけない存在だ。
 このインタビューは、彼の主催するD.A.S.Tで行われた。板野さんが描くメカアクションは勿論かっこいいのだが、ご自身の仕事ぶりや人柄も、それに負けないくらいパワフルだ。取材時のトークも、熱のこもったもので、インタビュアーの小黒もちょっと圧倒されてしまった。話題は“板野サーカス”を生んだアニメーター時代と、「ULTRAMAN」「ウルトラマンネクサス」等の3DCGについてが中心である。


2004年10月4日
取材場所/東京 D.A.S.T
取材・構成/小黒祐一郎
PROFILE

板野一郎(ITANO ICHIROH)

1959年3月11日生まれ。神奈川県横浜市出身。B型。高校3年の時に、動画マンとして活動を始める。スタジオムサシ、スタジオコクピットなどを経て『機動戦士 ガンダム』に原画として参加。次いで湖川友謙が主催するビーボォーで『伝説巨神 イデオン』のメカシーンの作画を担当。早くもその仕事ぶりが注目を集める。『超時空要塞 マクロス』ではメカ作画監督を担当し、常識を越えたそのアクションはファンの間で“板野サーカス”と呼ばれるようになった。OVA『メガゾーン23』から演出を手がけるようになり、劇場『メガゾーン23 PARTII 秘密く・だ・さ・い』で初監督を務める。その後の監督作品にOVA『真魔神伝 バトルロイヤルハイスクール』、OVA『Angel Cop』等がある。現在は3DCGの仕事が多く、劇場特撮「ULTRAMAN」ではフライングシーケンスディレクターを、特撮TV「ウルトラマンネクサス」ではCGIモーションディレクターの役職で腕を振るっている。『マクロス』シリーズにはなくてはならないクリエイターであり、劇場『超時空要塞 マクロス 愛・おぼえていますか』、OVA『MACROSS PLUS』、OVA『MACROSS ZERO』に、特技監督などの役職で参加している。1986年にD.A.S.Tを立ち上げ、現在に至る。

【主要作品リスト】

小黒 何度かお話になってると思うんですけど、アニメーターになったきっかけから、聞かせてもらえますか。
板野 高校時代に、ある事件をきっかけに停学になってまして。その頃に、上野駅で落ちてた新聞を拾ったのがアニメの仕事を始めるきっかけだったんですよ。僕は横浜に住んでたんですけど、たまたま上野の中古バイク屋にバイクを見に行って。行っていた高校は、バイク乗ったら退学なんですけれども、「関係ねえや」って乗ってた。その時は小型か中型のトレールバイクが欲しくて、中古を探してたんですよ。それで、バイク屋に行く途中で落ちてた新聞を拾ったら、「西荻窪 スタジオムサシ アニメーター(TVマンガの絵描き)募集」という募集広告があったんです。上野から西荻窪まで、電車でそんなにかからないので、せっかく東京に出てきたんだから──当時、ちょうど親が両方とも入院してまして、親に停学になった事を話してなかったんで、バレるまでは学校に行ってるふりしようと思って――夜まで時間をつぶそうとしていたんです。
小黒 ちょっとドラマチックですね。
板野 ええ(苦笑)。その前に、先生に「お前なんかロクな人間になれねえよ」と言われて殴られて、「ふざけんな!」って思って、就職内定してたのも自分で蹴って、どうせロクな人間じゃあないんだからって、とりあえず自分から、自分が引いてきた路線から外れてしまった。そもそも「これからはコンピュータの時代だ」と思って、工業高校の電気科でそういった勉強をしてたんですよ。……2年ぐらいで挫折したのかな。昔のコンピュータなんて、コーディングシートに計算式を書いて、計算が合ってないとコンピュータに「エラーだ」って弾かれて、「計算が間違ってるからやりなおせ」って言われた。コンピュータ様は夏も冬も、室温20℃の快適な暮らしをしていて、自分は網が張られた牢獄みたいな暑い部屋で(苦笑)。なんでコンピュータのリテイクを人間様が直してんだ、っていう。当時、コンピュータに対して妬みと憎悪を持ってまして。それで落ちこぼれて、機械科の自動車部とか、あまり勉強しないで自由に遊んでるような人達と仲よくなっていって、その時に「ああ、俺もオートバイ欲しいな」って思った。で、それでバイク見たついでに西荻窪に行ったんです。
 そしたら「試験受けに来たの?」と言われて、一応「はい」って答えて、試験させてもらって。大体1時間ぐらい画を描かされて――画っていうか(原画を)クリンナップさせられて。分かんないんですよ。トレス台も分かんないし、タップも分かんないし。なんで机にガラスが入ってて、中で蛍光灯が光ってて、「目が悪くなるのに危ないなあ」とか思って。「この机でクリンナップして」って言われて、「クリンナッ」ってなんですか」「……いや、綺麗に描くんだよ」「ああ、そうなんですか」。で、なんで紙にこんな穴が開いてるんだろうと思って、「すいません」と言って画鋲を借りたんです。それで、紙に刺したら穴が開いちゃうんで、タップの穴のところに画鋲を通して引っかけて、原画を机の前に貼って、こうやって一所懸命見ながら描いてた(笑)。「うわあ。この人、上手いけど、俺は全然ダメだなあ」とか。
小黒 あ、上からなぞらないで、模写しちゃったんですね(笑)。
板野 そう、模写しちゃったんです。そしたら隣の人に「あんた、何やってんの」って言われて。「この画を見て描いてるんです」「いや、模写じゃなくて」。模写って言葉もまだ知らなかったんですよ。僕は工業高校だったので、電気製図とか機械製図とか(の授業)はあったんですけど、美術はなかったんですよ。美術っぽい画とかは別に好きじゃなくて、パラパラマンガが好きだったり。パースも、製図を描くからパースを教え込まれたりしてたんです。
 で、「えっ、じゃあどうやって?」って言ったら、「これをタップって言うんだけど、ここにはめて。これはトレス台って言うんだけど、光を点けて。そうすると透けて見えるでしょ、それをなぞればいいんだよ」って。「ああ、画を描くんじゃなくてなぞるんですね!」「……まあ、それをクリンナップって言うの」とか言われて。「ああ、ありがとうございます」「まあ、今日は貸してあげるから」。そんな風にずっとやってて。1時間ぐらい経って、「じゃあ、面接、君の番だから来てください」と言われて。で、「どうしてウチに来たの?」「いやあ、その……ちっちゃい頃から、アニメーションを見てて、どういう仕事かなあ、と思って。『自分にも務まるのかなあ』みたいな、そういう気持ちで横浜から来ました」「ああ、横浜から来たんだ。大変だね。履歴書は?」「いや、持ってません」「履歴書持たないで、どうして?」「すいません、新聞を読んだら載ってたんで、履歴書とか持たないで、咄嗟で来ちゃったんです。見学だけさせてもらえればいいかな、と思ったら、試験させてもらえるという事だったので、受けました」。で、まあ、いろんな事を訊かれて。こっちはせっかく来たんで、夕方帰っても何もする事がないんで。「すいません、自分は全然こういう画を描いた事がなかったんです。納得できないんで、もうちょっと描かせてもらえませんか」って言ったら「うん、じゃあ、納得するまで描いてっていいよ」と言われて、夜まで描いてた。
 なんとなくみんなピリピリしてて──当時はそこは動画スタジオで、動画チェックと動画と原画が何人かいたんだ。当時はそんな事分かんなかったんだけど、今、考えると下請けスタジオなんで、サンライズとか東映とか、いろんな会社の仕事をやっていた。当時だと『(アローエンブレム)グランプリの鷹』とか、『(惑星ロボ)ダンガードA』とか、『(無敵鋼人)ダイターン3』とか、あの辺をやってる頃だった。東映のカット袋とかあって。で、やってるうちに、休憩と言われて、「ちょっとお茶を呑みなさい」と。それで、(他の人の描いたものを)見せてもらって、「ああ、皆さん、凄いですねー。この画とこの画の真ん中の画なんて、同じ大きさで描けませんよ」「いや、これは見て描くんじゃなくて」って(笑)。「線と線の間を割っていくと描けるんですよ。それをタップ割りっていうんです」って。「もし、アニメーションの仕事が好きだったら、タップっていうこの道具を買われたらどうですか。大泉の東映動画で売ってますから、そこだと普通の人も買えるんで」って言われて。それで休憩も終わって一所懸命やって、そろそろ8時ぐらいだから、横浜に帰るにもちょうどいいかな、部活やって帰ったふりもできるし、と思って。「ありがとうございました。自分が画が下手だって事が分かりました」。見学もできたし、画も見せてもらって、TVマンガってこんなふうに作ってるんだ。大変だなあ、俺にはできないな、って実感して。
 そうしたら、1週間ぐらい経ってから連絡があって、「試験の日に夕方に来て、夜遅くまでずーっと同じ画を描いてた人はいなかった。下手だけど一所懸命だった。研修やってみますか?」と言われて。無期停学だったんで、こりゃ、いいやと(笑)。
 高校は卒業したんです。レポートを出せば卒業証書あげるよ、と言われて。で、レポートを出して卒業証書をもらって、親のところに持って行って見せた。で、お袋には「就職蹴った。TVマンガの仕事をやっている」と。「お父さんには言わない方がいいよ。何されるか分かんないから」と言われて(笑)。
小黒 最初にスタジオに行った日に、ご両親が入院されていたという事でしたが、たまたま、その時だけ病院に入られていたんですか。
板野 いや、両親とも入院したり通院したりで、大変な時期だったんですよ。自分の停学の事なんかで心配かけたくないじゃないですか。後にアニメーターとして、ある程度、名前が出るようになってから(卒業した高校から)「卒業生として講演に来てください」と言われたんです。「ふざけんな、この野郎。お前はロクな人間じゃないって言ったろう!」と思いましたよ(笑)。
小黒 なるほど。
板野 その後、動画の仕事をやるようになって。最初は(収入が)月5000円ぐらいですかね。2日に1回徹夜して。お金がないから家に帰れないんで、椅子を並べて寝たりして。最初の動画は『ダンガードA』のドップラーのアップでした。確か最終回近くで、ドップラーの目の玉が色トレスのカットだったと思う。それから『グランプリの鷹』とか『(SF西遊記)スタージンガー』の仕事が来て。で、「これ、終わったら帰っていいからね。明日まで!」と言われて、次々とカットが積まれていって全然帰れない(笑)。ひとつの仕事のアップが3日ずつぐらいで、サンライズも東映もダブっていた。同期で受かったのは森山ゆうじで、同じように学ラン着て、研修に通ってて。あいつは大人しくて真面目なんだけど、こっちは「画を描く人っておとなしいなー」とか思ってた。(自分は)とりあえずマンガもアニメも好きだし、アルバイトみたいな気持ちで、やれるとこまでやってみようかな、と。あの当時の人達はみんなそうだったけど、旧『ルパン』とか『宇宙戦艦ヤマト』が好きだったんです。
 そんなつもりでずっとやってたら、2ヶ月めに『さらば宇宙戦艦ヤマト』の動画の話が来た。スタジオの社長が「『宇宙戦艦ヤマト』の動画を、うちのスタジオで手伝う事になりました。うちは出来高で、これは大変な仕事なんだけど、それでもやりたい人は手を挙げて」と言ったら、僕と森山ゆうじだけが手を挙げて。あとはみんな、「あんな大変なの、誰がやるんだよ!」「1枚200円もらったって、1日1枚かかるでしょ」と。
小黒 『宇宙戦艦ヤマト』は線が多いですからね。
板野 そのスタジオは年功序列で、動画のキャリアが長い人は、止めと口パクだけのカットとか、サイズのちっちゃい走りとか、おいしいところを全部取ってって、モブとか間違った原画とかは残ってて。「新人で、どうせ稼げないんだから、練習がてらモブをやんなさい」と言われて、野球場いっぱいのモブを描いたり、そんな事ばっかりやらされてた。当時1枚100円だったんで、1日やって100円とか。
小黒 それだと電車賃、出ませんね。
板野 出ないでしょ? 帰れないよ(苦笑)。原画でも粗いやつとか間違ってるやつは、「どうせ粗いんだから」と言って勝手に直して。TVシリーズはそうやってた。で、動画チェックからリテイクがきて、「勝手に原画を変えるな」とか言われて。何にも知らないで、よくしようと思ってやったのに(笑)。『ヤマト』でも同じようにやったら、監督からいっぱいリテイクをもらった。確か、金田さん達のZ(スタジオZ)の原画で、第1砲塔が吹っ飛ぶカットで、首を飛ばしたり手を飛ばしたりしてたら……。
小黒 その頃、すでにそういう事をやってたんですね(笑)。
板野 そうそう。そしたら「『ジョーズ』じゃありません。原画通りにやってくれ」と(笑)。で、こっちも逆らって「宇宙船の第1装甲板、第2装甲板が熱で溶けているのに、人が無事なわけないだろう。大体なんでヘルメット被ってないんだ」って質問をしたら、作監の湖川(友謙[当時の表記は滋])さんがヘルメット被せてくれて(笑)、直った原画が返ってきた。「ヘルメットは被せた。じゃあ、熱で溶けるようにしてください。首とか手足は飛ばさないでくれ」って(笑)。そんな小生意気な動画で、「こいつ何やってんだ」という感じで1ヶ月経って。次の1ヶ月ぐらいで追い込みになって、海外出しでキャラクターが全部同じような顔になっている原画がきて。それにキャラ表がついてて、「これが島で、これが古代で、これが真田で、と直してくれ」。それが僕と森山ゆうじに名指しできて。これは動画の仕事だかなんだか分かんない。挙げ句の果ては『ヤマト』のスチル写真が送られてきて、「あっ、この写真くれるのかなあ、ありがたいなあ、嬉しいな」と思ったら、落書きがしてあって、第3艦橋に×がついてて「ここに穴が開いている」とか書いてあった。「(せっかくのスチル写真を)もったいない事するなあ」と思ったら、「このスチルを見ながら、大判の240フレームで、穴があるところに穴を開けて描いてください」と言われて。それは動画(の仕事)じゃないですよね(笑)。
小黒 違いますね。
板野 原画じゃないですか(笑)。『ヤマト』を始めた最初の月が300枚で、その次の月に400枚動画をやったら、演出さんとか作監さんからも、直接「やってくれ」と名指しでくるようになった。当時、ムサシは人が増えたので、それまでのスタジオと別に平屋の一軒家を借りたんですよ。そこは畳があってすぐに横になれますから、泊まりが多い人はやりやすいんです。僕と森山君の2人は、『ヤマト』の追い込みのふた月間は、そこで机を並べてやっていました。その時に、僕は眠くなると自分の顔を平手じゃなくて、グーで殴ったり、自分の腿に鉛筆の先を刺したりしていたんです。顔を殴って鼻血が出たりして。森山君は、それが怖くて、なかなか家に帰れなかったと、後になって言ってましたね(笑)。
小黒 それは凄い(笑)。
板野 『ヤマト』の後にも、名指しで『キャプテン フューチャー』のオープニングの、コメット号が飛んでいくところの動画が回ってきて。それもその一軒家でやりました。で、『ヤマト』が終わってしばらくして、ムサシを辞めたんです。スタジオムサシというのは「考えないでタップ割りしろ」という会社で、中3枚だったらまず真ん中を描いて、それから前後1枚ずつ真ん中を割れ、と。最初の真ん中は下書き使っていいから、丁寧な真ん中を作れ。それが綺麗にできれば、次の1枚は一発描きで描けるようになるから。そうしないと生活が苦しい。「人間としての芝居なんか考えなくていい。それは全部原画が考えたんだから、動画の考える事じゃない」と言うわけ。「出来高なんだから、タップ割りして、1枚でも多くお金がもらえる動画を描いて、生活ができるようにしろ」というのが、そこの方針だった。
小黒 それはそれで、会社の考え方としては間違っていないですよね。
板野 うん、間違ってはいない。でも『グランプリの鷹』とかで、地面にカギが、ガチャガチャッて落ちる時、中3枚でピタッと落ちるのもおかしい。だから、2枚にしてその分、リバウンドを作ったりして。そうするとそれが(動画チェックで)返ってきたり。そうやって原画のトレーニングをして。で、3ヶ月経ったところでムサシを辞めて、フリーになって。
小黒 早いですね(笑)。
板野 森山ゆうじと2人で辞めて、一緒にTVの『銀河鉄道999』とかの動画の仕事をとっていたんです。横浜の家で1人でやって、2週間に1回ぐらい東京に出てきて、森山ゆうじと2人で仕事をもらう。2人分の動画をもらって2人で分けて、それぞれ自分の家でやって、一緒に東映に持っていって動検を受けて。そんなやり方を1ヶ月続けてたら、やっぱり枚数も上がらないし、下手になる。「どっか、スタジオ入ろう」と言って、今度はスタジオコクピットというところに入った。コクピットでは『龍の子太郎』とか『(銀河鉄道)999』の劇場とか、とにかく東映の劇場作品の大変なカットがきたんです。例えば、999の下の部分がずーっと(作画の送りで)奥に流れていくカットとか、アルカディア号が(船体の下部を見せながら、作画の送りで)手前に飛んでくるカットとか、大変なのばっかりやって。そういうのが好きだったからよかったんだけど。そのうち、スポ根ものの『新・エースをねらえ!』とか『新巨人の星(II)』とか、あるいは『赤毛のアン』がきて。「あー、このスタジオ、色んなのができるなあ。いい仕事がたくさんできる」と。でも凄くきつくて「1000枚描いたら原画にしてやるよ。だから、1000枚描け」と言われて。その時で大体800枚ぐらい描けてて、なかなか800枚の壁が破れなくて。
小黒 月1000枚という事ですよね。
板野 はい。動画を月1000枚。
小黒 ひと月に800枚描いて、次の月に200枚描いてもダメなんですね。
板野 ダメなんです。「ひと月で1000枚を2ヶ月間続けてやれば、原画をやらしてやるよ」という事だったんです。で、2人ともなかなかそれができなかった。『ピンク・レディー物語(栄光の天使たち)』の仕事もきて。クラプトンとかツェッペリンが好きなのに「なんだこいつら」と思って(笑)。でも「♪ジャンジャンジャン、UFO!」という振り付けのコマ割り写真を参考にして、動画にする仕事で、テープレコーダーで聴きながらそれを描いてくうちにだんだん洗脳されて、「これはこれでいいなあ」と思って。そんな自分が嫌になってきて(笑)。その頃、どうやらNHKで『未来少年コナン』という凄いアニメーションをやっているらしい、という噂を聞いて、それが観たくてしょうがなかった。確か、東京では『コナン』を放送している裏で『ピンク・レディー物語』をやっていたんですよ。それで、会社ではみんな『ピンク・レディー物語』を観ていた。家にはTVがないし、観れなかった。「『コナン』って、どういうのなんだろう」と思って。自分達が好きな『長靴をはいた猫』とか『どうぶつ宝島』を作った凄い人がメインでやっているらしい。「そういうのやりたいよなあ」って愚痴こぼしてて。
 その頃は、動検もやらされてて、アジアに撒かれた動画が戻ってくると、頭が動画合成になっているカットで、頭が空中に残ったまんま、頭から離れて体が歩いたり(笑)、凄いのばっかりで。それでもう「俺、そろそろ辞めちまおうかなー」と思った時に、コクピットの若い作監で、僕達を可愛がってくれてた人から「板野君と森山君、今度ウチに1回遊びにきなさい」と言われて。で、遊びに行ったら、中村雅俊がコマーシャルをやってたマックロードという、当時40万円したビデオデッキがあって。上がガチャンと開いて、チャンネルをガチャガチャとひねるやつで。「これで『未来少年コナン』を録ってるから、観て帰りなさい」と言ってくれて。観たらもう目から鱗で。「こういうのやりたいなあー」って。『コナン』みたいな作品をやりたいけれど、ここにいてもそんな作品はできないし。そのうちに2人ともコクピットを辞める気になった。森山君の方は、東京ムービー系にコネがあって、新しい『ルパン三世』の仕事に誘われてたらしくて。「俺は誘われないなあ。どうしたらいいんだろう」と思ってたら、ムサシにいた時の先輩の浜津(守)さんという人に……。
小黒 後に、演出になられる浜津さんですよね。
板野 はい、そうです。当時、ムサシでは動検だったんですよ。で、僕達の事を見てたらしくて。他の人とは考え方も違うし、割り切って仕事してなかったから、と。「自分はサンライズで『ガンダム』っていう、今までのロボットものと違うものに参加するんだけど。主人公はマザコンでいじけちゃうし、かっこよくなくて、脱走までするダメな奴なんだ」。戦争の中で子ども達が生き残るために戦わなきゃいけないという、凄くシリアスな路線で、今までのサンライズ系の主人公がバカで活発で、髪の毛が短くてやんちゃでわんぱくで、ライバルがロン毛でクールでという、そういうパターンじゃないんだ、みたいな。「板野君は考えすぎるから、こういう作品がいいんじゃないか。動画手伝いに来ない?」と言われて。さっそく「じゃあ、行きます」と。で、「まだサンライズの1スタジオに空き机がないんで、机ができるまでは外注として家で動画をやってもらって、机が空いたら中に入ってやってほしい」と言われて。それで、僕はサンライズに、森山君はムービー系に分かれていった。
 で、5話ぐらいから動画を手伝い始めて、12話ぐらいで1スタジオに席が空いて、安彦(良和)さんがいたり、富野(由悠季)さんがいたりして。そこで動画やってるうちに、安彦さんに「板野君、このレイアウトを元に第二原画を描いてください」と言われて。最初と最後の原画と、最初と最後だけ書いてあって間の番号がつけてないシートを渡されて。「それを板野君が原画に起こしてみてください」と。最初は、起こして見せると(安彦さんが)みんな、直してくれて。で、だんだん、直しが少なくなっていく。「板野君はメカならそこそこいけるから」というんで「ランバ・ラル特攻!」(19話)あたりから、レイアウトをもらって二原を描くようになって、シャアが帰ってくるあたり(26話「復活のシャア」)ではもう原画になってますね。……その後ぐらいから原画で(クレジットに)名前が出始めて。
小黒 そうですね。29話からお名前が出てます。で、すいません。凄い勢いで話が進んで、突っ込みが入れられませんでした(笑)。今までの話で、聞きたいところがあるんですが、『さらば宇宙戦艦ヤマト』で、ちぎれ飛ぶ体を描いたっていうのは、原画には全くなくて、動画で描いちゃったんですか。
板野 はい。原画では黒くシルエットになって溶けていっちゃうんです。
小黒 なるほど。
板野 最初はヘルメットも被ってなかったんですよ。それも文句を垂れたら、作監の湖川さんが、「ああ……確かにそう言われてみれば」みたいな(笑)。
小黒 で、『さらヤマ』の後半は、原画に近い仕事をしてた。
板野 そうですね。動いてる原画じゃなくて……。
小黒 止め画とか。
板野 はい。それから、これは凄く恥ずかしいんだけど、山本の敬礼は僕が動画をやったんです。それが、そのまんま端が出ちゃったりとか。
小黒 あっ、そうなんですか!? あのキャノピーから手が出ちゃうやつですよね。
板野 はい。コクピットの中で敬礼するのに(動きを作るために、画面に出ない部分の)手も描いて、色鉛筆で組み線を描いて、「仕上げの時にここは描かないでください」と書いておいたのに、結局は(セルで)描かれてしまって。試写会に呼ばれて行って観て、青くなって、制作に泣きついて「すいません、直しますから返してください」と言ったら、「動検がいて直すから、大丈夫ですよ」と言われて。今度は前売りを買って劇場へ行ったら、まだ手が飛び出てた。
小黒 (笑)。今のバージョンでも、飛び出てますよね。
板野 そこで僕はずーっと、当時のメカの動画チェッカーを恨んでて、その人と後にアートランドで会う事になるんですけど(笑)。

●「animator interview 板野一郎(2)」へ続く

(05.01.15)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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