アニメ様365日[小黒祐一郎]

第77回 1981年前後の東京ムービー新社

 1981年前後の東京ムービー新社は大変な勢いだった。監督で言うと、長浜忠夫、出崎統、高畑勲、宮崎駿という日本のアニメ界を代表する巨匠が、この時期に東京ムービー新社で作品を残している。タイトルを挙げれば、出崎統は劇場版『エースをねらえ!』、『ベルサイユのばら(後半)』、『あしたのジョー2』。高畑勲は『じゃりン子チエ』。宮崎駿は監督作品としては『ルパン三世 カリオストロの城』がある。彼に関しては、TVシリーズ各話の仕事であるが『ルパン三世[新]』の「死の翼アルバトロス」「さらば愛しきルパンよ」も忘れがたい。いずれも彼らの代表作だ。長浜忠夫は1980年に亡くなっており、『ベルサイユのばら(前半)』の後に、この会社の『宇宙伝説ユリシーズ31』に参加。逝去したのは、その制作中だった。
 また、彼の代表作とは言い難いかもしれないが、芝山努もこの頃から監督として活動するようになっており、東京ムービー新社で『がんばれ!!タブチくん!!』シリーズ、『新・ど根性ガエル』を手がけている。また、前述の監督達のような強烈な個性の持ち主ではないが、今沢哲男も『新・鉄人』、『六神合体ゴッドマーズ』等、しっかりした作りのアクションものを連発。
 作画スタジオとして見れば、なんと言っても、宮崎駿や大塚康生達が所属していたテレコム・アニメーション、出崎統&杉野昭夫のあんなぷる(マッドハウスから独立したスタジオ)の存在が大きい。長編時代の東映動画の伝統を受け継いだテレコム、虫プロダクションの系譜に連なるあんなぷるが、同じ会社の作品を作っているだけでも凄いのだが、それに加えて、最先端アクション作画のスタジオNo.1とスタジオZ5も『六神合体ゴッドマーズ』等の作品で、東京ムービー新社作品に参加。荒木伸吾が主宰する荒木プロの存在も忘れてはいけない。スタッフを気にしながら作品を観るアニメマニアとしては、この時期の東京ムービー新社は、本当に美味しい会社だった。これだけ優秀な作り手が集まったのは、社長であった藤岡豊の力が大きいのだろう。
 いずれこの連載で詳しく話題にする事になると思うが、1970年代から東京ムービー新社(東京ムービー)は、東映動画系スタッフと虫プロ系スタッフの、才能と個性がぶつかり合う場だった。1970年代にはAプロダクションとマッドハウスが、今回話題にしている1981年前後には、テレコムとあんなぷる(マッドハウス)が腕を競い合っていた(ちなみに大塚康生、高畑勲、宮崎駿は、かつてAプロに所属し、日本アニメーション経由で、テレコムに来ている)。
 当時の関係者に話を聞くと、1970年代には、両プロダクションのスタッフは、相当に互いを意識していたようだ。1981年前後に、スタッフ達がどれくらい互いを意識していたのかは分からないが、やはりライバル関係だったのだろうと思う。ライバルでなくても、東京ムービー新社を走らせる両輪であった事は間違いない。やり手であった藤岡社長が、意識して競わせていたのかもしれない、とも思っている。
 この後、東京ムービー新社は、海外向け作品の制作に力を入れるようになり、国内作品は次第に減少。テレコムも、あんなぶるも、海外向け作品の仕事が中心となる。そもそもテレコムは、海外に通用するアニメーターを育成するために設立された会社であり、海外向けが中心になるのは当然の事だったが、国内で彼らの作品が観られなくなったのは、ファンとしては残念でたまらなかった。

第78回へつづく

(09.03.03)