第489回 『火垂るの墓』の二人の清太
高畑勲作品においては、たびたび主人公に対する冷静な観察者が登場する。『アルプスの少女ハイジ』でいえばアルムおんじやロッテンマイヤーであり、『赤毛のアン』ならマリラやマシュウがそれにあたる。アルムおんじやマリラが、ハイジやアンの一挙一動に対して、感心したり呆れたりすることで、主人公の言動にどんな価値があるかが語られる。
全ての高畑作品において、冷静な観察者が登場するわけではないし、そういった存在で主人公を描写するのが高畑監督の発明であるわけでもないのだろうが、高畑作品においては冷静な観察者の存在が印象的だ。冷静な観察者の存在は、彼が客観的な視点で作劇することと深く結びついているはずだ。
——といった内容について、以前、片渕須直監督と話したことがあった。そのときに片渕監督が、アルムおんじやマリラといった冷静な観察者の延長線上に、『火垂るの墓』の幽霊の清太がいることを指摘した。それに対して、なるほどと膝を打った。さすがは片渕さん!
映画『火垂るの墓』は死んで幽霊になってしまった清太が、時間を遡り、生前の自分を見つめるという構成になっている。実際には幽霊の清太の出番は多いとはいえないし、幽霊の清太が、生きている清太や節子の言動に対して反応している場面は少ない。だから、必ずしも幽霊の清太がアルムおんじやマリラのようなかたちで、物語の中で機能しているわけではない。また、幽霊の清太の存在は、映画としての大きな狙いとしては、劇中で描かれた戦時中の出来事と現代を繋ぐためのものである。
ではあるけれど、幽霊の清太がいるために、観客がある程度、生前の清太を客観視することになっているのは事実だ。幽霊の清太は、この映画が清太の言動を客観的に描いていることのシンボルにもなっている。本編を念入りに客観的な視点で描き、さらに全体を幽霊の清太が見ているという構成にすることで、より徹底的に「客観性の強い映画」に仕上げている。完全無欠の客観映画だ。
高畑監督は次回作の『おもひでぽろぽろ』も、似た構成で作っている。原作には登場してない27歳のタエ子を創造し、彼女が小学生時代の自分を回想するというかたちにしたのだ。そういった構成にしたことには、他の理由もあったはずだが、僕には客観性を強めるためであったように思えてならない。実はそういったところに高畑監督の作家性があるのだろうと思う。
自分にとって『火垂るの墓』は、高畑監督の凄さを改めて思い知った作品であり、作家高畑勲に出逢った作品でもあった。
第490回へつづく
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(10.11.11)