第494回 『太陽の王子 ホルスの大冒険』は“アニメ”だった
今までも「テレビまんが」と「アニメ」について何度か書いているが、おさらいをしておきたい。1970代末にアニメブームが始まった。それ以前、アニメーションは「テレビまんが」「まんが映画」等と呼ばれており、子どものためのものと考えられていた。それが、アニメブームをきっかけにして、若者のための娯楽と認知され、「アニメ」と呼ばれるようになったのだ。
これは時代の話であり、世代の話であり、ひょっとしたら、極めて個人的な話であるのかもしれないけれど、アニメブームの初期から中盤までは、僕は「テレビまんが」や「まんが映画」と、「アニメ」を分けて考えていた。古くさい作品や、子供向けの作品は「テレビまんが」や「まんが映画」であり、今風の作品や、自分達のために作られたような作品を「アニメ」と呼んでいた。昔の作品や、子供向けの作品でも、自分達が気に入るようなポイントがあると「これはアニメだ!」と認定した。
たとえば、『超電磁マシーン ボルテスV』は作品の大筋としては「テレビまんが」であるが、悲劇の美形キャラであるプリンス・ハイネルのドラマはティーン向けのものであり、その点に注目すると「アニメ」である。友達と「あれはアニメだ」「これもアニメだ」等と言い合っていたのを覚えてる。今になってみれば、色々な作品の中から「アニメ的な部分」を探していたような気がする。
勿論、そんな妙な差別的な意識をもって作品を分けていたのは、ブームの中の、さらに一時期だけの事であり、しばらくして、子供向きだろうが古くさい作品だろうが「アニメ」と呼ぶようになった。何が言いたいのかというと、ほんの短い期間ではあったが「アニメである事」が意味のある時代があったという事だ。少なくとも僕にとっては、そんな時期があった。
前置きが長くなってしまったが、そんな時期に『太陽の王子 ホルスの大冒険』に出逢った。そして、前回で触れたように「これはアニメだ!」と感じたわけだ。『ホルスの大冒険』の前後に作られた東映長編と比べると、アニメブーム当時の僕が慣れ親しんでいた作品群に、遙かに近い内容だった。そして、慣れ親しんでいた作品に近しいうえに、それを越えている部分が多々あった。先輩のアニメファンに『ホルスの大冒険』を支持する方が多いのは知っていたし、それも頷ける事だと思った。
具体的に言えば、まず、『ホルスの大冒険』は内容が大人びており、ティーン以上の観客の視聴に耐える映画であった。大人びていたのはテーマの部分だけでなく、ドラマのタッチ、登場人物の性格描写についても言える事だ。そして、表現的にはリアルタッチであり、全体にダイナミックなところがあった。端的に言えば、アニメーションとしてかっこよかった。刺激的だったと言い換えてもいい。若者のための娯楽には「刺激的である事」が重要だった。
本作の舞台がどこであるのかは曖昧であるが、北欧を思わせる。そんな世界で、仲間を求める少年ホルス、岩男のモーグ、氷のマンモスといったキャラクター達が活躍。太陽の剣や迷いの森といった、意味深長なモチーフもあり、全体にロマンの香りもあった。「ロマン」も、ブーム時にはアニメファンにとって重要なポイントだった。
そして、何よりも可憐な少女ヒルダ。二面性があり、葛藤を抱えているという点も、ドラマチックであったし(さらに言えば、制作された時期を考えれば、彼女の人格造形と描写は、非常に先進的である)、その硬い雰囲気も魅力的であった。
自分自身の思い入れで言えば、二面性や葛藤よりも、彼女が村の生活に馴染めないところ、あるいは彼女が孤独な存在である点にシンパシーを感じた。主人公のホルスにしても、仲間を求めてやってはきたが、村の人々からすれば余所者であり、映画後半には、彼が村人から追われる展開もある。『ホルスの大冒険』は団結する事の大切さを描いた映画ではあるが、そのテーマをかたちにするために、一方で、共同体に馴染めない少年と少女を描いており、それが思春期の自分にとってストライクだった。僕も社会や大人に対して、不満を感じているごく当たり前の学生だった。
初見時には、この映画を全肯定できた。感動して「さすがは名作だ」と思ったのだけれど、何度か観直したり、考えたりしているうちに、ちょっと気になるところも出てきた。それについては次回で触れたい。
第495回へつづく
太陽の王子 ホルスの大冒険
カラー/82分/ニュープリント・コンポーネントマスター/モノラル/片面2層/16:9 LB(シネスコ)
価格/4725円(税込)
発売元/東映ビデオ
販売元/東映ビデオ
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(11.03.30)