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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第68回 宮崎駿と判官びいきのやり過ぎ

 『ルパン三世 カリオストロの城』公開の段階で、宮崎駿の知名度は低いものだった。勿論、東映長編時代からのアニメーションファンや、業界に近いところにいる人は彼の事をよく知っていただろうが、若いアニメファンの多くはその名を意識していなかったはずだ。当時、アニメ好きな中学生であった僕もその1人だ。
 理由はある。宮崎駿はそれまでに監督的に参加した作品があっても、監督としてクレジットされた事がなかった。シリーズ途中から高畑勲と共に監督を務めた『旧ルパン』にしても「演出/Aプロダクション演出グループ」と表示されているだけで、彼の名はない。『未来少年コナン』でのクレジットは監督ではなく「演出」だ。『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』での役職はレイアウトや画面設定であって、当時のファンには、その仕事の凄さが分かっていなかっただろう。東映長編時代の作品も同様だ。『未来少年コナン』や『カリ城』に関して「宮崎駿の作品」ではなく、「大塚康生の作品」として認識していたファンも少なくなかった。当時の若いファンの間では、大塚康生の名前の方がより知られていたのだ。
 僕のアニメ史観では、宮崎駿の名前がファンの間に浸透していったのは、1980年から1983年の間だ。つまり『カリ城』公開から『風の谷のナウシカ』公開までの事だ。その時期に新作を次々を発表したわけではない。むしろ逆だ。その数年間で、彼の作品で陽の目を浴びたのは、1980年にペンネームで手がけた『新ルパン』の145話と最終話の2本だけだ。『新ルパン』の後、彼は東京ムービー新社の劇場作品『NEMO』や、イタリアとの合作『名探偵ホームズ』等に参加。『NEMO』はプロジェクトの初期段階で降板、『名探偵ホームズ』は途中で制作が中断。他にも企画はあったようだが、いずれも実現はしていない。宮崎駿にとっては不遇の時期だったが、その頃に彼の人気は高まっていった。

 宮崎駿の名前をアニメファンに広めるのに、多大な貢献をしたのが雑誌「アニメージュ」だ。この雑誌は、それ以前も東映長編系のスタッフに肩入れをしている節はあった。最初の大特集が1981年8月号の巻頭大特集「宮崎駿 冒険とロマンの世界」だ。大ボリュームの記事で、彼の作品へのとりくみ方、過去の作品がみっちりと語られている。アニメ誌の歴史に残る充実した記事だ。『機動戦士ガンダム』や『銀河鉄道999』の新作劇場版が公開される時期に、有名でない作家の特集を巻頭でやってしまったところに、アニメージュの意気込みが感じられる。事実、この号の売れ行きはひどいもので、山ほど返品が戻ってきたそうだ。
 「宮崎駿 冒険とロマンの世界」以降も、アニメージュは積極的に宮崎駿を取り上げ続ける。彼に漫画「風の谷のナウシカ」を連載させ、『名探偵ホームズ』を何度も記事にした。『名探偵ホームズ』は読者がいつ観られるか分からない海外との合作であるのに、アニメージュは取り上げた。しかも、制作が中断してしまってからも、何ページも使ってフィルムストーリーを掲載している。他にも『未来少年コナン』1話の文庫サイズ絵コンテ本、『太陽の王子ホルスの大冒険』や『パンダコパンダ』の本編の画像を使ったポスターを付録につけた事もある。他にも力の入った記事がいくつもあった。
 さっき言った「1980年から1983年の間」とは少し時期が後にズレるが、わかりやすいのがアニメージュ文庫だ。当時のアニメージュ文庫は小説、読み物、フィルムコミックなど様々な内容のものを刊行していた。タイトルを並べてみると宮崎駿関係のものが、いや、東映長編関係のものがいかに多いかが分かる。森やすじの著作は「アニメーターの自伝 もぐらの歌」、大塚康生は「作画汗まみれ」、高畑勲は「ホルスの映像表現」「話の話」、宮崎駿は「風の谷のナウシカ 絵コンテ」「シュナの旅」。「シュナの旅」は公開中の映画『ゲド戦記』で原案として使われている。『名探偵ホームズ』は宮崎駿が関わった全6話がそれぞれ一冊ずつフィルムコミックになっている。他にも『長靴をはいた猫』『未来少年コナン』『カリ城』『セロ弾きのゴーシュ』のフィルムを使った本もある。余談めくが「島本須美 これからの私」は声優・島本須美の本だが、その後半が彼女と宮崎駿の対談だ。表紙や背表紙には「相談相手/宮崎駿」と表記されており、彼が島本須美の人生相談に乗るというコンセプトだったようだ。微笑ましい珍本である。
 アニメージュ文庫は、そんなにも宮崎駿関係、東映長編系スタッフの本を出しているのに、虫プロ関係のスタッフのものは富野喜幸の「だから僕は…」のみ。出崎統の本も、りんたろうの本も出ていないのだ。『太陽の王子ホルスの大冒険』や『長靴をはいた猫』の文庫は出ているのに、虫プロの『千夜一夜物語』や『哀しみのベラドンナ』の本も出ていない。
 勿論、アニメージュの誌面の大半は最新の記事が埋めていたし、ロマンアルバムのシリーズでは富野監督や出崎監督の作品もムックになっていった。それでも、宮崎駿関係、東映長編系スタッフの人や作品にアニメージュが力を入れていたのは間違いない。以前に雑誌「ユリイカ」での鈴木敏夫さんへの取材記事でも話題にしたが、当時のアニメージュ読者が『太陽の王子ホルスの大冒険』や『長靴をはいた猫』のメイキングについて詳しいのに、『千夜一夜物語』や『哀しみのベラドンナ』についてほとんど知らないのは、アニメージュの記事の偏りによるものだ。

 当時の宮崎駿の人気の盛り上がりを端的に示すのが『カリ城』である。その頃、名画座や学園祭で頻繁に上映され、徳間書店以外からも出版物が刊行された。一時期、『カリ城』は熱狂的なファンに支持されるカルトムービー的な作品であった。アニメージュでは、1983年6月号で発表された第5回アニメGPで『カリ城』が歴代作品部門で1位を獲得。翌年のアニメGPではヒロインのクラリスが歴代キャラクター部門で女性の1位を獲っている。この様に公開後にジワジワと評価が高まっていった劇場作品も珍しい。
 勿論、宮崎駿の評価が高まったのは、アニメージュの力だけではない。だが、アニメージュの啓蒙活動があったからこそ、短期間に知名度が上がる事になったのだ。当時のアニメージュはそれくらい読者に対して影響力があった。

 「宮崎駿 冒険とロマンの世界」に始まるアニメージュの活動は、宮崎駿に新作映画『風の谷のナウシカ』を作るチャンスを与え、後のスタジオジブリ設立に繋がっている。それ以降、現在までのジブリ作品の隆盛は読者諸君もご存知のとおりで、今では宮崎駿は「アニメ界のマイナー」から最も遠い位置にいる。マイナーとメジャーが逆転しまったのだ。アニメブーム期には「古い」と思われたスタイルも、今では普遍的な魅力のあるものとして認識されている。
 アニメージュが、宮崎駿と東映長編系スタッフを積極的に取り上げたのは、最初は「判官びいき」だったはずだ。こんなに素晴らしい作品を作っている人達が脚光を浴びないでいるのはおかしい。自分達が取り上げよう。盛り立ててやろう。そんな気持ちからスタートした。ところが後押しに力が入りすぎて、アニメ界の地図の形を変えるほどの結果を出してしまった。これが日本のアニメ史の中で、アニメ雑誌が業界に及ぼした、もっとも大きな影響であるのは間違いない。


 

■第69回に続く


(06.08.15)

 
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