アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その4 月岡貞夫さん

 1963年1月にフジテレビ系で始まった『鉄腕アトム』は高視聴率を上げ続け、TV各局は『アトム』に続けとばかりにアニメ番組を求め、複数の会社がTV放送用のアニメ(TVアニメ)製作を始めました。最初のアニメブームの到来です。
 10月にはフジテレビ系でTCJ(当時)制作の『鉄人28号』、11月にはTBS系でTCJ別班制作の『エイトマン』、NET系で東映動画(当時)制作の『狼少年ケン』が始まりました。12月からはフジテレビ系で日本初の連続TV人形アニメ『シスコン王子』が放送されたのも特筆されます。
 しかし、『アトム』が先鞭をつけてしまった、実際の必要額の半分にも満たない低い制作費と、毎週放送に合わせた短い製作期間は各局、各作品に引き継がれ、ブームの中身はお寒いものでした。
 作品として決して上出来とは言えない、あるいは当時の子供の目で見ても原作マンガとは違いすぎる絵の回も続出していたのですが、そんな中で生まれた快作、それが『狼少年ケン』です。今見てもモダンな味わいを感じさせる独特なラインのキャラクター。この、東映動画オリジナルの作品『狼少年ケン』の原案、キャラクターデザイン、主題歌の作詞を手がけ、実質的な生みの親と言えるのが月岡貞夫さんです。月岡さんは初期の『狼少年ケン』では脚本、演出、原画、動画と、1人で丸々1本を作り上げてしまったほどの才人です。
 『狼少年ケン』の中でも、若き日の高畑勲さんが演出を手がけた第14話「ジャングル最大の作戦」などは、その快調なテンポとギャグのセンスに彩られた傑作ですが、今回は少し趣向を変えて、アニメ作家としての月岡貞夫さんについて記してみたいと思います。私の著書『アニメーションの宝箱』に収録するつもりだったのですが、最終的にカットしてしまったもので、その分の思いも込めまして。

 月岡さんのアニメ人生の始まりは東映動画です。同社が長編の1本として、手塚治虫氏のマンガ「ぼくのそんごくう」を原作とした『西遊記』(1960年)を作るにあたって、手塚氏は構成と、東映動画の薮下泰司、白川大作両氏との共同演出を担当。当時アシスタントをしていた月岡さんを連れて東映動画に通ったのです。実家が劇場を経営していて早くからディズニーのアニメーション等に親しんでいた月岡さんはそのままアニメーターとして東映動画に入社、すぐさま腕を発揮していますが、その才能を手塚氏は「アニメーションのために生まれて来た天才」と称えています。
 1963年の『わんぱく王子の大蛇退治』で、月岡さんは大塚康生さんと絶妙のコンビネーションを組んでクライマックスのオロチ退治のシーンの原画を担当し、アニメ史上に残る迫力の名場面に仕上げています。また脚本、演出を白川大作さんと共同、作画も手がけた短編『ねずみのよめいり』(1961年)の洒落た感覚も印象的です。
 TVアニメが本格的にスタートしてからは、前述のように東映動画のTV参入第1作である『狼少年ケン』を生み出し、抜群のクオリティとセンスに満ちた作品として送り出しています。しかし、放映途中で月岡さんは東映動画を退社、手塚氏の虫プロ等を経て、より自分を生かせる個人作家の道に転じています。1965年には草月アニメーション・フェスティバルに『タバコと灰』で参加、以来、個人の作品制作と共に、才気あふれる数々のCMを手がけ、CGのなかった時代、優れたアニメCMを見たら月岡さんのものと思えと言われるほどの成果をおさめています。また、NHK『みんなのうた』では、季節の風物詩となった「北風小僧の寒太郎」、軽妙な「サラマンドラ」等の秀作を多く残しています。
 作家としての代表作に、ここでは1970年の短編『新・天地創造』をあげましょう。白鳩が温めていた卵から悪魔の子が孵るという1分ほどの超短編。白鳩は愛と平和の象徴。悪魔が象徴するものは戦争、暴力、悪徳といったものでしょうか。山椒は小粒で……の言葉どおり、わずかな時間の中に過不足なくテーマを盛り込み、なおかつ絶妙なアニメートのセンスで描き出した、このシニカルな作品は、ポーランドのクラコフ国際短編映画祭でグランプリを獲得しています。

 現在は後進の育成に意欲的な月岡さんですが、月岡さんと同じく、初期の東映動画作品にアニメーターとして関わりながら、個人作家の道を選んだ人に、ひこねのりお(彦根範夫)さん、林静一さん、永沢詢(まこと)さん等がいます。集団の一員としてのアニメーターと、個性を重んじる作家の道。どちらが自分を生かす道かという問題でしょうが、アニメーターのあり方を考えさせられもするのです。

その5へ続く

(07.03.23)