その102 W・キンボール来日特集号
さて、「1/24」はまた大きな特集の機会を迎えていました。1978年6月にウォード・キンボールさんが中国旅行の帰途に日本に立ち寄るという大ニュースがあったのです。キンボールさんはナイン・オールド・メンと呼ばれるディズニー・プロの9人の古参アニメーターの1人で、『ピノキオ』のジミニー・クリケットや『不思議の国のアリス』のチェシャ猫のキャラクター、『ダンボ』のピンク・エレファンツの悪夢や『火星とその彼方』のシュールな世界、グラフィカルな『プカドン交響楽』等々を手がけた世界的な天才アニメーターです。
自宅の裏庭に本物の蒸気機関車を設置するほどSL好きのキンボールさんは夫人を伴って来日するや京都梅小路SL館を訪れ、6月16日には東京サンケイ会館で来日公演会「映画と講演の夕べ」がもたれたのでした。出立前のキンボールさんと連絡をとり、会見のお膳立てをしてくれたのはディズニー・フリークで名高い鈴木伸一さんでした。京都では渡辺泰さん、森卓也さんがキンボールさんと対面歓談し、東京のサンケイ会館には全国各地からディズニーファン、アニメファンが集合しました。もちろんアニドウの面々も。当日の会場受付は私が担当しましたが、初めて生で拝見したキンボールさんのお顔は私にはミッキーマウスそっくりに見えました。黒縁の大きな丸メガネと、くるくると悪戯っぽく動く瞳は一体となってミッキーの目のように見えましたし、大きな耳とふっくらとした頬の輪郭はミッキーそのものでした。今の紳士然としたミッキーマウスではなく、もっと悪戯っ子な時代のミッキーに。中国帰りのキンボールさんは本場の青い人民服(文化大革命時代の国民服)の上下に人民帽、布製の靴と完璧ないでたちで現れましたが、これは鈴木さんのお勧めだったそうです。
講演会はアニメーションに造詣深い才媛アン・ヘリングさんの軽妙な同時通訳で進行し、会場全体に熱気が立ち込めていました。森卓也さんの代表質問に答える形でディズニー・プロでのベティ夫人との馴れ初めや、キンボールさんの見たウォルト・ディズニー像が語られるたびに場内はヒートアップして行きました。傑作『丘の風車』の演出がそれまでの通説だったディヴィッド・ハンドではなくウィルフレッド・ジャクソンであることがキンボールさんの口から明かされたのは、アニメの歴史が覆った瞬間でもありました。ひとつひとつの質問にジョークを交えつつ誠実に向き合ってくれるキンボールさんは人民服も手伝ってか中国で言う大人(たいじん)の風格がありました。代表質問の後のフリー質問タイムでは、並木さんが先ほど私がキンボールさんのお顔がミッキーそっくりに見えると言ったことを取り上げてくれました。キンボールさんはそう言われるのは初めてではなく、そうした時、黒い耳はホテルに置いてきたと答えるのだそうです。熱心に聞き入っていた会場がざわめき立ったのはキンボールさんが突然チョークを手に傍らの黒板にミッキーマウスの耳の秘密についての絵解きを始めた時でした。キンボールさんの横に付き添っていた鈴木さんは猛然と席を立ち8ミリを回し始めました。目の前で、書物で見るのと同じ柔らかく滑らかな描線でミッキーの顔が描かれていく興奮。どの角度から見てもミッキーの耳は重なることなく真ん丸なまま頭の周りを移動しているという一種のごまかし画法を説明した後、キンボールさんはさっさとその絵を黒板消しで消してしまったのです。これには会場騒然。キンボールさんはそこに「WARD KINBALL DREW HERE!」(「ウォード・キンボールここに描けり!」。墓碑銘「ここに眠る」のパロディ)と書きつけ澄まし顔。どよめきはしばらく止むことがありませんでした。そして講演会の最後はキンボールさんによる遠ざかる蒸気機関車の汽笛の口真似で幕を閉じたのです。その後は赤坂の中華レストラン芝・留園に場を移し、手塚治虫さん、久里洋二さんらを交えた晩餐会が行われました。
当時の「1/24」がこの歴史的出来事を見逃すわけがありません。一部始終は第25&26合併号に収められました。ミッキーの耳の絵解き写真ももちろん載っています。発行は大分遅れて12月末でしたが全56ページ。表紙はアニメーター出身の写真家・南正時さん撮影のキンボールさんの近影。裏表紙はキンボールさんがバンドリーダーを務める本格的ディキシーランド・ジャズ・バンドFIREHOUSE FIVE PLUS TWOの写真。表紙は黒地に黄色を乗せてあり、この色の取り合わせを実は私は1993年にキンボールさんが広島アニメーション・フェスティバルの国際名誉会長として再来日された際に自作した同人誌『みんなで語ろうHIROSHIMA4』でいただいているのです。「1/24」の内容は、サンケイ会館の講演採録に、いずれ劣らぬディズニー・フリークの面々、渡辺泰、森卓也、おかだ・えみこ、鈴木伸一の各氏積年の熱い思いがたっぷりこもった原稿が中心で、写真・図版も渡辺、鈴木、南正時さんたちから多数提供していただきました。
また今号と同時発行にして定期購読者に送った「FILM 1/18」復刊9号のQ&Aに当時の「1/24」の概要について書かれていますので参考までに抜き書きしておきます。定期購読者数800〜1000人、部数は1000〜2000部、コミケでの販売数30〜100冊(内容によって激しく上下)、編集期間最短は第15号の3週間弱、最長はこの第23&24号の半年。これはこの間にオープロが『未来少年コナン』の作画に携わっていて編集時間が全く取れなかったからなのです。いかに『コナン』が過酷なスケジュールだったかが窺えます。費用は印刷代だけで30〜120万円。他に郵送費、材料費、封筒代、写真代が10万弱必要とあります。
なお、本誌の編集後記の並木さんの文に「スタジオZの金田氏、長崎氏、荻窪両関(筆者注・行きつけの居酒屋)に来る。友永和秀氏と共に奢られ朝までグジャメジャに飲む」の記述があるのも今となっては感慨深いことです。
その103へつづく
(11.03.04)