その106 『未来少年コナン』特集本
その表紙の色から黒本とも呼ばれるアニドウの『未来少年コナン』の特集本が発行になったのは1979年の末のことでした。奥付には12月1日初版第1刷とあります。A4変型判、本文328ページ、厚さ約2.5センチの、ずっしりと持ち重りのする本です。現在ではこの程度のボリュームのものは取り立てて珍しくもないでしょうが、当時はかなりの衝撃をもって迎えられたものです。
発行の告知から完成までには1年間の編集期間を要しました。企画当初からアニドウ史上前例のない経費が予想されたため、通常の「1/24」の購読料とは会計を別にし、事前に予約金を預かる方法を採りました。「1/24」の定期購読者、アニドウ会員はもちろん、あらゆる方面で予約者を募りましたが、編集に1年もかかるとは予想外のことでした。アニドウとしては、採算を度外視した、編集期間も行き当たりばったりというのはいつものことではあるのですが、それにしても『コナン』本はそのアニドウの常識からしても並外れたものでした。
ここまでの大冊になったのにはひとつのきっかけがあります。『コナン』本に先立って大阪で発行された同人誌「太陽塔」がそれです。「1/24」の購読者でもあった浦谷真人・千恵兄妹とその友人たちの手になる「太陽塔」はB5判、本文38ページの仕様でしたが、宮崎駿さんのインタビューと作品論を中心としたその内容の濃さ確かさは、当時たくさん作られた『コナン』同人誌の中でも群を抜いていました。しかも硬い記事ばかりではなく、小野田裕子さん(千恵さんのペンネーム)作のパロディマンガ「未来少年ハナン」の無類の楽しさといったらありませんでした。これは負けられない。編集心が燃え上がったのはひとえにこの「太陽塔」の存在ゆえです。
『コナン』の特集をやろうというのはNHKで第1話の試写を見た時から漠然とありましたが、設定を見、絵コンテを読み、レイアウトを見、原画とその修正画や参考ラフを見、動画を描き、TV放送が回を重ねるうちに、それは確信になっていました。全てのものからあふれてくる宮崎さんの熱い思いに触れると同時に、今までずっと好きだった『ホルス』や『長靴をはいた猫』や『どうぶつ宝島』、面白さに夢中になって見た『[旧]ルパン』や『赤胴鈴之助』、その世界そのものに憧れた『パンダコパンダ』と『雨ふりサーカス』、場面設計やレイアウトの見事さに驚嘆した『ハイジ』『三千里』『赤毛のアン』等々で小出しにされていた宮崎駿という才能の点と線が、『コナン』によってひとつに繋がったのです。『コナン』はその時点での宮崎さんの集大成であり、マグマのように溜まりに溜まっていた創作エネルギーの大爆発でした。こんなにも素晴らしいのに『コナン』の視聴率は低く、宮崎駿という天才の存在も、世間はもちろんアニメファンの大多数にも充分に知られてはいませんでした。そんな状況が歯がゆくてならず、何とか『コナン』のすごさを、宮崎さんの才能を広く知らしめたい、永久に残しておきたいというのが『コナン』本発行の原動力でした。
だから編集方針として、設定紹介や各話解説のようないわゆる作品特集として必要な情報はもちろんとして、各パートのスタッフの方々にその仕事について語っていただくことで、『コナン』と宮崎さんを立体的に浮き彫りにするという構成にしました。「1/24」第10号の『わんぱく王子の大蛇退治』特集で大塚康生さんにお力添えいただいた時のように、意味のある、単なる裏話や苦労話の集成ではないアニメ界に働く人々の生の声を伝えられたらと思いました。結果的にインタビューは、『コナン』に限らず広くその人のアニメ界との関わりや現状への思い等を聞き出す内容となりました。
特集全体はTVアニメの構成になぞらえてOPENING、A PART、B PART、ENDINGと4つに分かれています。OPENINGは資料篇として各話のあらすじとカラー4ページつきの宮崎さんのイメージ・ボード集。このOPENINGだけで50ページを費やしています。各話のあらすじは私が担当しましたが、「太陽塔」との差別化を図るため、力を注ぎました。私なりの巻頭言にも当たる「シリーズについて」の項では、『コナン』を讃えつつも、質の高さを保とうとする要求が招いた超過密スケジュールの問題や、スタッフ間の横の連携の少なさといったTVアニメ業界の諸問題にも言及しています。A PARTはスタッフインタビュー篇として270ページを費やして演出の宮崎さん以下、各パートの方々へのインタビューを収録しており、この本の要になっています。B PARTは「コナン派宣言」と題して、浦谷真人、伴野孝司、富沢洋子(私)、半谷的生の諸氏による作品論、男性陣・女性陣に分かれての座談会2本立て、写真入りの市販商品カタログ等を収録。ENDINGは『コナン』百科事典「エンサイクロペディア・コナニカ」20ページと、公開を前にした再編集版映画に対する宮崎さんの声明文「劇場版について」。宮崎さんはここではっきりと「あれは私達のコナンとはまったく別ものです」と宣言しておられます。
この本の中心であるインタビューは宮崎駿さんへのインタビュー32ページ(扉、写真等を含む)を筆頭に、作画監督の大塚康生さん、プロデューサーの中島順三さん(日本アニメ)、丹泰彦さん(NHK)、演出補の早川啓二さん、脚本の中野顕彰さん、吉川惣司さん、原画の森やすじさん、河内日出夫さん、篠原征子さん、富沢信雄さん、村田耕一さん、才田俊次さん、友永和秀さん、山内昇寿郎さん、大島秀範さん、北島信幸さん、美術監督の山本二三さん、背景のアトリエロークの川本征平さんと笠原淳二さん、色指定の保田道世さん、音楽の池辺晋一郎さん、撮影監督の三沢勝治さん、録音監督の斯波重治さん、声の出演の小原乃梨子さん、吉田理保子さん、山内雅人さん、家弓家正さん、信沢三重子さん、青木和代さん、永井一郎さんたち総勢31人に及びました。これだけのパートを網羅したのは、当時としては破格のことでした。
インタビューは直接電話でお願いしてアポを取り、手分けをしてスタジオへ出かけ、あるいはどこかで待ち合わせをして行いました。機材はカセットテープレコーダーです。ここで大活躍してくれたのがOさん(本人の希望により匿名)でした。キュートで聡明で人当たりがよく誰からも好かれる彼女はインタビュアーの柱で、誰かとの共同取材を含め31人中22人を担当してくれました。その彼女でも苦心したのが原画の重要スタッフの1人、近藤喜文さんでした。渋る彼を説き伏せてインタビューの約束までは何とか取りつけたのですが、当日どうしても口を開いてもらえず、彼女を泣かせてしまったこともありました。近藤さんが信念の人だということは映産労の活動を通してよく分かっていましたので、残念ですが彼の姿勢を尊重しました。宮崎さんの仕事ぶりを中心に取り上げたいという編集方針に賛同が得られずインタビューを断ってこられた方もいます。監督として自分のやり方を貫徹するのが当時から変わらない宮崎さんの姿勢ですので、当然それに対して反発する方は存在するわけで、ここもその方の意思を尊重することとしました。原画スタッフのインタビューから重要な方々が抜けているのはそうした理由です。
一番協力的で私たちを応援する立場でさえあったのは、長いお付き合いになる大塚康生さんでした。インタビューを快諾してくださった上に、制作当時の落描きも含め大量の貴重な資料を提供してくださり感謝に堪えません。「宮さんはいやがるだろうけれど『宮崎駿の世界』的な感じでやっちゃいましょう」との提案もいただきました。大塚さんご本人にも宮崎さんの才能と漫画映画にかける人一倍の情熱を広く知らしめたいとの意向があったものと理解しています。
当時は作品の一スタッフにまで話を聞くという企画は皆無といってよく、生まれて初めてインタビューを受ける方も多かったようです。商業誌ではまとめの段階でライターの手が入るのが普通ですが、『コナン』本ではご本人にチェックをしていただいた上で、あえて手を加えず生の雰囲気を残すようにしました。今読んでも当時の空気感のようなものが立ち上ってくるような気がします。いわゆる制作スタッフのみならず声優の方々が本当に作品のことを思い、アニメ界全体のことを思い、心を込めて演じていることが分かったのも大きな収穫でした。インタビュー期間は1月の宮崎・大塚両氏を皮切りに半年以上に渡りました。その間、4月には定期購読者大会があり、メイン会場だった本郷館の一室で女性5人の座談会を収録したりもしています。
録音テープからの採録もまた大仕事で、協力を申し出てくれた人たち十数人の総力戦になりました。1人のインタビューの採録に、多い時では4人がかりで当たっています。これは収録の分数に関係なく、誰かが途中までテープを起こした残りをその日居合わせた人ができるところまでやるという風にリレー式で作業した結果です。前述の浦谷真人さんは、大阪から上京したまま当時のアニドウ事務所ベルバラヤに何日も泊まり込んで大半のインタビューテープの採録を黙々と担当してくれました。とにかく来る日も来る日もテープと格闘し、上がったものは原稿用紙に手書きで清書を続ける日々で、仕事以外の全てが『コナン』本の編集漬けの1年でした。『コナン』本の編集の話は次回も続きます。
その107へつづく
(11.04.28)