アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その109 「PUFF」そして富沢雅彦

 当時の「1/24」誌上にはしばしば「PUFF(パフ)」のことが載っています。「PUFF」は怪獣同人誌の草分けのひとつで、1973年に結成された怪獣ファンサークル宙(おおぞら)の会誌です。初代会長はO・H氏。現在、斯界の歴史が中島紳介さんの手により「PUFFと怪獣倶楽部の時代 特撮ファンジン風雲録」として「まんだらけZENBU」第50号から連載されていますので細かい経緯はそちらにお任せするとして、「PUFF」という誌名はピーター・ポール&マリーの曲名が元になっており、パフは魔法のドラゴンの名です。
 O・H氏が抜けた宙と「PUFF」を私の実弟・富沢雅彦と中島紳介さんが受け継いだのは1976年4月発行の第7号からのこと。2人は群馬県高崎市の出身同士でした。それから「PUFF」の快進撃が始まります。ガリ版刷りのワラ半紙をホチキスで綴じたものながら総ページ数200近い号もあり、簡易オフセットに移行してからもほとんど全てのページがちまちまとした手書き文字で埋め尽くされ、ページを繰ると火を噴くような熱気と楽しさに満ちみちています。バックナンバーは今も我が家にありますが、実は「PUFF」を開くのは危険なことでもあります。余りの面白さに読み耽ってしまって何も進まなくなるからです。

 1986年に急逝した富沢雅彦の短過ぎる人生とその文章についての論考は浅羽通明さんの「天使の王国」(1991年、JICC出版局刊)所収の「富沢雅彦の生涯—ラディカルな逃避者の蹉跌」(初出=「別冊宝島104 おたくの本」所収「おたくに死す—殉教者・富沢雅彦へのレクイエム」)に明らかです。また二見書房刊「不滅のスーパーロボット大全」に代表作と言える「花月舞論のためのガ・キーン論」が再録されており、最近では、まんだらけマニア館主催の資料性博覧会02(2010年5月開催)のパンフレットに「キン肉マン is the champion!」(初出=ラポート刊「アニメック」1985年8月号)が再録されています。このパンフレットの作成は資料性博覧会02準備会名義となっており、無記名原稿「再録にあたって」で熱いリスペクトがなされています。さらにすごいのは、巻末に付属する富沢雅彦の生涯と文章を時系列にまとめたリストで、幾重にも折り畳まれたそれを広げるとゆうに1mを越える仕様は圧巻。没後四半世紀を経てなおこのようなフォロワーが存在してくださることに心から感謝を捧げてやみません。論者としての富沢雅彦についてはこれらの資料、あるいはリストを参考に初出商業誌にあたっていただければ幸いです。
 それにしても今手近にあるこの『キン肉マン』論を読むにつけ、何と熱い文章なのだろうと圧倒されざるを得ません。今もビビッドでエモーショナルで刺激に満ち、生死を超越して脈動する魂が立ち上ってくるかのようです。水が流れるように呼吸がそのまま文字になるように自然で流麗で、膨大な知識からなる無限の引用と諧謔を散りばめ、ある時は熱くある時は一転して軽く猫の目のように変わる眩惑的な文体。鋭敏な感性を備えた華麗な言霊遣い、それが文章家としての富沢雅彦であり、その文章は社会の既成概念に対する戦いの軌跡でした。

 私と富沢雅彦とは3歳違いの姉弟。群馬県高崎市で生まれ育ちました。家は両親と祖父祖母の6人暮らし。東映まんがまつりと東宝チャンピオンまつりで育ち、アニメと怪獣、SFが大好きで、最初の愛読書は「少年」。私は『鉄腕アトム』、弟は『鉄人28号』の大ファン。そのまま長じて私はアニメファン、弟は特撮怪獣ファンになりました。とても仲がよく、きょうだいは結婚できないんだよと友だちに言われるほどでした。
 やがて私は進学して家を離れ東京に住み、アニ同に入り、アニメーターとなり、「FILM1/24」の編集を始めます。弟は高校時代に前述の怪獣ファンサークル宙に入会、中島紳介さんと共に「PUFF」を作り始めます。私と弟は互いの作るものを交換して読んでいました。帰省の折に新しい「PUFF」を受け取り、帰りの高崎線の中で読むのは至福のひと時でした。「PUFF」は号を重ねるに連れどんどん厚みを増し、内容も濃くバラエティに富み、アニメ・特撮・怪獣・プロレス等、興味の趣くまま広がっていきました。最初期の開田裕治さんによるスタイリッシュなカラーの表紙、後期の小林晋一郎さんのイラストによるアイディアの利いた表紙も素晴らしく「PUFF THE MAGIC MAGAZIN」という謳い文句がぴったりでした。
 「PUFF」は執筆者も豪華で、富沢・中島コンビを両輪に、今も一貫してアニメと特撮の味方であり続ける氷川竜介さん、アニメ・特撮関連のサントラに博識な腹巻猫さん、傑作「ゴジラ対ビオランテ」の原案者であり歯学博士である小林晋一郎さん、小説家に転進されアニメ化された作品も持つ鳴海丈さん、特撮監督であり特殊メイクの第一人者である原口智生さん、「アニメージュ」編集部のベテラン徳木吉春さん、熱い語り口では右に出る者のない池田憲章さん、様々な分野に渡って活躍する金田益実さんをはじめ多彩な書き手が(当時は本名で)参集していました。怪獣界の梁山泊とも言えるでしょう。
 私は「PUFF」の新刊を預かって上映会で売ったり「1/24」誌上で取り上げたりしましたので、当時の読者はこの両方を読んでいた人もいたはずです。反発を恐れずに言うなら、一時期はアニメ・特撮両同人誌界の最先端を私たち富沢きょうだいが担っているとの自負さえありました。
 弟がビデオを操っているのを見たことがあります。自室の小型テレビで番組を見ながら右手にビデオのリモコンを握り録画ボタンを押す。しばらくして日常芝居の段取り部分になるやビデオを巻き戻して再生し必要カットの終わりで止め、特撮シーンになるや再び録画を始める。この繰り返しでリアルタイムで番組を視聴しながら1本の編集テープを作ってしまう。しかもストーリーやキャラクターのスペック、スタッフ、キャストは完璧に記憶しているのです。神業に見えました。
 弟は学生時代から商業誌で執筆活動を始めました。商業誌デビューは「OUT」1976年11月号の東京12チャンネル特集。「快傑ズバット」の紹介記事で、今読んでも完成された見事な文章です。不本意な進学先だったかもしれない立教大学は結局中退してしまいました。「PUFF」というホームグラウンドを守るためには、田舎から通学するタイムロスが惜しかったのもあるでしょう。もし私のように強引に上京して無理矢理にでも生活力をつけていけたなら、その後は違っていたかもしれませんが、「PUFF」の発行と商業誌への執筆を続けながら高崎市内のデパートのレコードショップで働く道を選びました。世間体が重視される田舎で、その生活は苦しいものだったと思います。ふゅーじょんぷろだくとの編集部とのつながりができ、新しい友人も得た弟は、レコードショップの閉店を機に東京・池袋に居を求めましたが、日常的な生活力に欠け、なかなか新生活へ足を踏み出せずにいました。世間体を気にする母親から半ば追い立てられるように上京しますが、世はロリコンブームの只中。来る仕事は必ずしも意に添うものではなかったろうと思いますが、独自の視点で編んだ単行本「美少女症候群」シリーズの後書きや「COMIC BOX」誌上のエロアニメ紹介ページの文章さえも、富沢雅彦らしさは全くぶれてはいません。構成から手掛けた内田善美論や『とんがり帽子のメモル』『北斗の拳』特集等の優れた仕事も残しています。しかしほとんど孤立無援のように見えた誌上での読者との応酬や慣れない日常生活の些事に神経を磨耗していたようで、向精神薬を常用しているとの記述が見られるのはこの頃です。最後に会ったのは私が結婚して埼玉県戸田市に住んでいた頃で、晩に振舞った鳥鍋を普段ろくに食べていないのではと心配になるような食べぶりでした。
 突然の訃報を聞いたのは1986年の12月。私は転居先の広島にいました。池袋のアパートで、大家さんの立会いのもと、C・B編集部の方が発見してくれました。死亡日は11月の何日か定かでなく、変死として警察の扱いとなり、司法解剖の後、父の立ち会いで荼毘に付され、お骨となっての帰郷でした。死因は肺炎のウイルスによる心臓発作。心身の衰弱も激しかったようです。
 深い悲しみの中で肩まであった髪をこれ以上切れないほどのベリーショートにして臨んだ葬儀を終え、父と2人で訪れた池袋のアパートは、ここで人が死んだとは思えないほど空気は清澄で窓から静かに光が射し込んでいました。愛用の座り机とTV、わずかな本、QUEENのビデオ。通帳にはいくらかの預金が残り、電器釜にはご飯が入ったままだったそうです。内田善美のタペストリーのかかった部屋で、死の瞬間、富沢雅彦は何を思い何を見たでしょう。怪獣倶楽部の旧友・竹内博さんはその死を戦死と表現してくださいました。
 電車の駅もない片田舎の葬儀に参列してくださった友人知己、小林晋一郎さんの真心のこもった弔電、後日、雨の中を弔問に訪れてくださった中谷達也さん。多くの方に支えられながら抜け殻のような日々を過ごし、やがて追悼集を作ろうと思い立ちました。富沢雅彦の存在を残しておきたかったのです。遺品の中にあった会員名簿を頼りに原稿依頼の手紙を出し、作品集を編むために当時出回り始めていたワープロを買い、広島の家で、1歳と3歳の子供が寝静まった真夜中にマニュアルと首っ引きで1文字1文字打ち出していきました。今思えばそれは心の隙間を埋める写経のような作業でした。当時はワープロのドット数も少なく、DTP機能もスキャナもなく、データ消失のトラブルに見舞われながら、ほぼ1年がかりで本として形になったのが1988年3月。寄稿や協力をしてくださった方や縁の方に贈呈し、いくらかを頒布して手元にはほんの数冊しか残っていません。総ページ数378、厚さ2センチ、総文字数は数十万字に及ぶ、かつての『コナン』本にも勝る追悼集をほぼ独力で作り上げたのはひとえに富沢雅彦への思いゆえです。鏡に映った編集中の私の顔は生前似ていると意識したこともない弟の顔にそっくりになっていました。その後、追悼集の反響や未収録分をまとめた続編を発行、これは在庫が少しあり、まんだらけの國澤さんのお力を借りて資料性博覧会に委託出品しましたので、手に取ってくださった方もおいでかもしれません。
 突然の死から四半世紀が過ぎました。ゴジラもライダーもウルトラマンも復活し、また多くの人が逝きました。富沢雅彦は今もエーテルの宇宙の中を飛んでいるのでしょうか。大王星には、フリード星には着けたのでしょうか。新たな映画やTVを見、何かの事件に接する時、一番聞きたい(読みたい)のは富沢雅彦の意見であることに変わりはありません。でも、富沢雅彦がいた当時とは編集やライターのありようはすっかり変わりました。もし生きていたとしても、この業界で生き残っていけただろうかと思ってしまうのです。30になるやならずの早世は悲劇ですが、誰かの心に焼きついているならば、それは永遠の生命と言えるのかもしれないと、今は静かにそう思うのです。
 富沢雅彦の文章も、私の文章も、人からはパワフルで熱いと評されますが、当人同士は至って無口で、胸にたぎる思いは文字にして吐き出さなければ決して鎮まることはない、そんな人種なのです。

その110へつづく

(11.06.10)