アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その113 仲人は宮崎駿さん

 東京を去ることを決めた私はアニメ界と縁を切ろうと持っていた資料のほとんどを処分してしまいました。精神的にどうかしていなければできなかったと思います。以前書いた、高校の頃、毎日、図書館に通って新聞の縮刷版から手で書き写した記事を貼った何冊ものスクラップブックもアニメの感想やリストを記した手帳も、各地のサークルの機関誌や上映会のパンフもみんな。でも手書きの頃から精魂込めて育て上げてきた「1/24」はどうしても捨てられませんでした。「1/18」は生々しくて持っていられませんでしたが。貸本屋を回って集めた古い手塚マンガもこの当時できたてのまんだらけに売ってしまいました。多分、店長自らが買い取りに出向いてくれたはずです。
 心身ともボロボロになって田舎に帰った私に両親は「アニメの会はどうしたんだ?」と訊きましたが、何も答えられない私に二度とその話をすることはありませんでした。田舎の家にはまだ弟・富沢雅彦がいて、食事時には一緒にTVを見ました。ちょうど『宇宙刑事』シリーズを放映していた頃で、斬新なギャバンの変身(蒸着)に2人して驚嘆したものです。私が「1/24」を手放してもまだ大丈夫だったのは、弟の作る「PUFF」があったおかげです。そこには私がなくした全てが輝いていました。
 そうしてしばらくしたある日、東京から懐かしい声の電話がありました。S君、H君、Hさんたちからで、一度会えませんかというものでした。とても嬉しいと同時に様々なことが甦って、上京の前日に急性胃炎を起こしてしまい受診、服薬しながら上野駅の近くの喫茶室で会いました。胃の痛みをこらえながらだったので満足な会話もできませんでしたが、とても嬉しいひと時でした。様々なことが溶けていくようで、この日のことがなかったら、私がアニメ界に戻ることはなかったと思います。今も深く感謝しています。つい最近になって知ったのですが、彼らは私の後を継いで手書きの「1/18」を復活させてくれたりもしていたのでした。ありがたいことです。また彼らのグループの発案による、ふくやまけいこさんの個人誌「ふくやまジックヴック」の発行は、よくぞやってくれたと思います。
 心が軽くなり、紆余曲折を経て、帰郷後も何かと気遣ってくれた五味くんとの結婚も決まりました。グループえびせんの上映会に招かれて出かけたりもし、青春を取り戻したような日々でした。結婚の仲人は宮崎駿・朱美ご夫妻にお願いすることにしました。仲人といえば親も同然という訳の分からない理屈で、直接お頼みにうかがいました。この辺が若さの恐いもの知らずなところですが、要は宮崎さんとのご縁だけは失いたくなかったのです。宮崎さんは最寄り駅まで私の憧れのシトロエン2CVで出迎えにきてくださいました。『コナン』本の取材等でもうかがっていますが、宮崎さん自らが設計されたご自宅の書斎は、窓際に大きな作りつけの机があり、壁に本棚が並び、とても居心地がよく、初めて入った時から、ずっとそこに慣れ親しんでいたような不思議に懐かしい感覚のする場所でした。単刀直入にお願いすると宮崎さんは笑いながら「ぼくらも通ってきた道だから、順番が回ってきたということですね」と快諾してくださいました。実は駅で2人並んで立っている姿を見ただけで、何の用件か分かっていたそうです。馴れ初めを訊かれて「『カリオストロ』を観に行った時……」と話している間、宮崎さんの目が輝いていました。今まさに頭の中でその場面がアニメ映画の1シーンになって動き出しているのが見えるようでした。そして、ご自分も東映動画の労働争議の中でスクラムを組んだ朱美さんの腕がか細くて守ってやりたいと思ったという話をしてくださいました。
 結納は5月の連休中で、宮崎さんは群馬の私の家にシトロエン2CVで現れました。田舎の風習で富沢本家のおじが2人立ち会ってくれ、滞りなくすんだ後、遠来の客のもてなしに近くの群馬の森公園にある県立博物館と古墳を見物に回りました。この当時の宮崎さんはまだ知る人ぞ知る存在でしたが、後にアカデミー賞を受賞するなど国際的な有名人となり、おじたちは「自分たちはあの宮崎先生をご案内した」と随分誇りに思ってくれたようです。私も思わぬ親戚孝行ができ、面目を施しました。
 婚約中は何かと理由をつけては宮崎さんのお家におじゃまして、ずっと話をしていました。「あいつらはいつ帰るんだろう」と言われるくらい長く。宮崎さんにとってはちょうど仕事の切れ目に当たる時期でした。アニメの話ばかりでなく、2人の息子さんが小さい頃、仕事で擦れ違いの生活の中で大きな船のプラモデルを毎日互いに少しずつ組み立て合って交流を図ったことや、お弁当のゆで卵を食紅で染めて持たせた話、朱美さんと摘んだ茶葉を手揉みしてお茶を手作りした話など、暮らしの話も多かったです。当時、日曜の昼間に放送中だった『超時空要塞マクロス』を一緒に見たこともあります。機械や飛行シーンにかけては一家言ある宮崎さんのことですから余りお気に召さないようでしたが、TVアニメは意外と見ているご様子でした。この時期たまたまかもしれませんが。
 挙式は12月5日、東中野の日本閣でした。ウエディングブーケは郷里の染色布花教室に通って自分で作りました。アニメを離れても、こういう美術に関連した手先の細々とした作業が好きでした。披露宴の後、宮崎さんは渡米の際に見たというフレデリック・バック作の短編『クラック!』について熱く語ってくださいました。ぼくらのセルアニメでは絶対にできない作品だと。『NEMO』の準備期間中の出来事だったようです。挙式直後の花嫁と仲人の会話ではないなと頭のどこかで思いながら、熱心に聞き入る私でした。披露宴でも二次会でも、かつての仲間たちが大勢で祝ってくれて幸せでした。ずっとアニドウの活動を続けていたら結婚しようなどとは思わなかったでしょうから、人間万事塞翁が馬ということでしょうか。

 私が去った後の「1/24」は1980年11月に第30号が出た後、1981年4月に企画・構成を片山雅博さんが担当した鈴木伸一特集を中心とする第31号が出ました。これも前号に続き表紙・裏表紙共オールカラー、中には『ナーザ』のスチルや『カリオストロ』のボードもオールカラーで載っている豪華な作りでした。読者参加の「耳鳴りの底から」はなくなり、素人臭さを極力排した、書店で扱っても違和感のない立派な作りです。並木さんがやりたかったのはこういうものだったのかと思いました。私がいたら「耳鳴り」をなくすことやマンガ家たちの座談会企画、その後のブームに乗ってアニメーターたちにマンガを描かせた「月刊ベティ」の発刊(1982年8月)等には難色を示したでしょうから。
 第31号には郵便振替口座開設と3号分の新規定期購読料3000円のお知らせが載っています。が、次の第32号が出たのは3年後の1984年7月。読み込めば内容豊富なのですが、表紙・裏表紙共モノクロ、紙質も悪く、文字も写植でなくタイプのベタ打ちという体裁。そしてこの号を最後に「1/24」は沈黙してしまいます。以降の予約金はどうなったのか、迷惑を被った人はいないのか、「1/24」の名を傷つけることになったのではないかと気がかりでなりません。
 第31号には第30号に続く私宛の私信を元にした宮崎さんの「ファンタスティック・プラネットに思う」、第32号には、ふくやまけいこさんのマンガ「しんいちくんとようこさん」が載っています。私はあの日のことを誰にも言いませんでしたので「1/24」を通しただけの読者にとっては私が緩やかにフェードアウトして行き、やがて寿退会という風に見えたでしょう。それはそれで「1/24」の名誉を守る波風の立たない道だったとは思います。

その114へつづく

(11.08.05)