その26 東京へ
大学に入って行動範囲も一気に広がりました。群馬県内では地元、高崎市から隣の前橋や伊勢崎、太田、藤岡などにも足を伸ばしました。目的は古本屋さんとレコード屋さん。CDはまだない時代の話です。
古本屋さんでの目当ては手塚治虫さんの古いマンガと、小学館発行の、絵文庫という名の絵本です。小学館の絵文庫シリーズでは、イソップ童話集等と共に、東映動画の長編作品をずらりと絵本化していて、ロビーカードやフィルムのコマそのままの絵を使ったオールカラーのこの絵本は我々マニア垂涎の的でした。ちなみに発行当時の定価は150円。都内ではさすがに見かけなくなっていたこれら絵本も、地方ではまだ手に入ったのです。子供向けの絵本でしたからプレミア等はつかず、捨て値同様の値段で。
レコード屋さんでもやはり探すのは東映長編やアニメ(まだテレビまんがと呼ばれていました)の主題歌など。『ホルス』のレコードを見つけた時の喜びは、その時の店頭の様子まではっきりと覚えているほどです。
一方、コボタンでのアニ同の月曜集会では毎週のように何らかの作品が上映されていました。湯川さんの肝煎りで、各国大使館の映像ライブラリーの貸出用フィルムを借りてきたり、自主作品や個人所有のフィルム等を持ち寄ったりしていました。
それらについてはまた項を改めて書くとして、アニ同の集会、および月例上映会は私に全く新しい世界を開いてくれました。それまで『アニメーション入門』や『アニメと特撮』、あるいは新聞記事等で読むだけだった世界のアニメーションや熱い自主作品が目の前にあるのです。この喜びは何にも喩えようがないほどでした。
しかし、それは同時に私にとって困ったことにもなりました。前にも書きましたが、私は大学で司書の資格を取ろうと思っていたのです。そのために司書講義のある学校を選択したというのに、肝心の司書講義は週に1回、月曜日の一番遅い時限にしか設定されていなかったのです。これは入学後のガイダンスで初めて分かりました。一応受講志望を出し、最初のうちは授業にも出ていました。コボタンでのアニ同の集会に行ったのが、入学後すぐでなかったのはそのためです。でも、結局私は、講義よりもアニ同の集会の方を取ってしまいました。ここでも人生の選択を間違っていますね。
しかも、集会が終わるのは夜の9時頃。当時は高崎線の本数もずっと少なかったので、急いで出ても帰りはかなり遅くなります。次の日はまた6時台の早朝列車に乗らねばなりません。そんなわけで、早い時期に私は高崎線での往復をリタイアしてしまいました。家族と相談の上で、アニ同の集会のある月曜日には、板橋に独りで住んでいる親戚のおばの家に泊めてもらうことにしたのです。が、親戚といってもそれまでほとんど顔を合わせたことのない人の家は何かと居づらく、次第に東京暮らしを考えるようになりました。両親の許可を取りつけ、学生課の紹介で、私は初台の学生用アパートの1室を借りることになりました。夏のことです。
新宿から京王線で1駅といっても、当時の初台は下町めいた閑静な土地で、商店街には食品や雑貨を商う個人商店が軒を連ねていました。銭湯も近くにありました。
私が入ることになったアパートは2階建てで、1階に大家のおばあさん一家が暮らし、2階の、廊下を挟んだ両側に小さな部屋が並ぶ、典型的な学生アパートでした。入居は大家の希望で女子学生だけ。部屋は四畳半に押入れ。玄関は共有。廊下からのドアを開けると、人ひとり立つのがやっとの板の間に小さな流しと1口のガスコンロを置くスペースがありました。トイレは共同、お風呂はなし。電話も、携帯などは夢にもない頃で、個人電話も普及してはおらず、大家のところにある黒のダイヤル式固定電話だけ。外から電話がかかってくると大家が呼びにきてくれ、謝礼に10円払う決まりでした。こちらからかけたい時にはお金を払って電話を使わせてもらうか、外に出て公衆電話からかけるのが普通でした。だから街中にはあちこちに公衆電話ボックスがあったのです。
家から持ち込んだ荷物は布団と座り机と身の回りの物だけ。最初の頃はTVもラジオも、冷蔵庫も扇風機もなし。現在の、最初から部屋にエアコンが標準装備だったり、家具つきだったりの賃貸事情からは想像もつかないのではないかと思います。まるで松本零士さんのマンガ『男おいどん』の世界です。さすがに押入れにキノコは生えずにすみましたが。
そんな環境でも当時はそれが普通。私自身も念願の東京暮らしの始まりに、不満を覚える余地など全くなかったのでした。狭くても不便でも、そこは初めての私だけのお城だったのです。
その27へ続く
(08.03.21)