その54 アド5からオープロへ
まずは前回の鯨井実さんについて、ご本人と近しい方から、アド5で私がご一緒したアニメーター鯨井さんと、円谷特撮の合成作画等で活躍された鯨井さんは同一人物であるとの情報をいただいたことをご報告しておきます。「ウルトラマンタロウ」のTV放映が1973年4月からですので、そのあたりで転身されたようです。また現在は造型のプロとしても活躍していらっしゃる鯨井さんですが、1970年代から造形にも手を染めていらしたそうです。このような方とほんのわずかでも席を同じくしたことに不思議な縁(えにし)を感じてなりません。いつかどこかでお会いする日もあり得るのでしょうか。
さて、私のアド5での日々は充実したものでしたが長くは続きませんでした。『バビル2世』終了後のある日、東映動画近くの喫茶店で田代和男さんから、岡田敏靖さんが近々アド5を辞めると聞かされたのです。青天の霹靂というか、全く思いがけないことで大変なショックを受け、思わず泣いてしまったほどです。私としては、このままずっと岡田さんの下で動画を教えてもらえるものと思い、またそう願っていたのでした。
田代さんの話では、岡田さんの退社はズイヨーで準備中のTVシリーズ『アルプスの少女ハイジ』に参加するためとのことでした。この時点で私には『ハイジ』に関する情報はゼロでしたが、後で考えると、高畑勳さん、小田部羊一さん、宮崎駿さんら東映動画を辞した方々がメインを務める『ハイジ』のスタッフ固めのために、東映動画出身者をはじめとする旧知の人々、それも腕利きのアニメーターに声をかけて集めていたということだったのでしょう。
当時はそんな裏の事情には全く気が及びませんでしたが、岡田さんの下でずっと動画をやっていきたいと思っていた私にとって、これは大問題でした。他の方々には本当に失礼な言い方になってしまい申し訳ないとは思いますが、岡田さんのいない会社は私にとっては極端な言い方をすればいる意味がないと同様だったのです。
岡田さんの後を追ってズイヨーへ移るまでのことは考えられませんでしたが、せめて岡田さんと同じ仕事をしたいと、そう思いました。すっかり落ち込んでしまった私に田代さんは当時同じズイヨーの作画をしていたオープロダクションを再び勧めてくれました。オープロには1973年の7月から並木さんが勤めていました。私が3月に就職先を探した時には机が一杯だったオープロはその後、空きができ、そこへ並木さんが入っていたのでした。並木さんはそれまで東映動画をはじめ各社の撮影助手のアルバイトを転々としていてアニメーターを目指しているようには思えなかったのですが、やはりアニメ界で就職といえばアニメーターということだったのでしょうか。以前に書いた「あんばらや」の他のメンバーもすでに全員プロのアニメーターになっていましたし。
運のよいことにオープロにはまだ机の空きがありました。当時の村田社長にお願いし、私は出戻りのように正式にオープロの社員となったのです。ある意味、収まるべきところに収まったとも言えるのでしょうが、これが実は人生の大転換期だったのでした。人生の曲がり角はどこに潜んでいるかしれません。
アド5にいたのは結局1年足らずの短い月日でした。退社に際しオープロに移るということは言いませんでしたから、田舎に帰るのだろうとでも思われたことでしょう。後から知ったことですが、アド5の社長の田島実さんも、東映動画の前身である日動映画からの錚々たるキャリアの持ち主で、日動を吸収合併すべく東映の大川博社長が訪ねてきた時のことまでご存知とのことで、今にして思えば本当にもったいないことをしたものと言わざるを得ません。
とにもかくにもこうしてアド5での日々は終わりました。オープロは荻窪にありましたから、大泉学園の奥から通うには少し不便でしたがアパートを替わることまでは考えず、その時々でバスの便のよい石神井公園駅まで一旦出たりしながら通勤することにしました。
当時のオープロは荻窪の天沼にあるマンションの中にありました。白い塀に囲まれて駐輪駐車スペースがあり、その奥の1階部分の約半分と、建て増しした離れの部屋がひとつ、さらに2階の1部屋を幹部会議その他用に借りていました。1階部分は鉄製のドアを開けると大量の靴が散乱する小さな玄関があり、中はみっつの仕事部屋と、ダイニングキッチン。といっても台所としてはほとんど使われず、せいぜいお湯を湧かす程度で、他のスペースにはTVと大きなソファベッドが置かれ、手がけた作品が放映された時等は皆がここに集まってTVを見るのでした。その脇には本当は何だったのか不明な細長い部屋があり、動画用紙の束が置かれ、タップ穴を開ける器具が据えられてあり、一番奥の物入れスペースには毛布や布団等、寝具類が積まれていました。
元々オープロは、永樹凡人さんが設立したハテナプロにいたアニメーターの塩山紀生さん、村田耕一さん、米川功真さん、小松原一男さんの4人が独立して作った作画プロダクションです。設立は1970年5月で、現在の表記はオープロダクションともOH!プロダクションとも書かれていますが、私が入社した頃の表記はOh!プロダクションでした。社名の由来は設立当時に刊行されていた平凡社の男性向け雑誌「Pocket パンチ Oh!」からきているそうで、このあたりにも設立時の若さが感じられます。初代社長は塩山さんでしたが、1年後に退社され、村田さんが後任社長を、米川さんと小松原さんが幹部を務めていました。付記しておくと、塩山さんは後にサンライズの高橋良輔監督とのコンビで『装甲騎兵ボトムズ』をはじめとするキャラクターデザイン、作画監督を数多く手がけ一世を風靡した方です。余談ですが私はこの、幹部という言い方を聞くと反射的に『タイガーマスク』の虎の穴を思い起こしてしまったりします。
村田さんは皆に村田氏と呼ばれていました。3音節の苗字には「氏」を付けて呼ぶ業界の風習はここでも健在です。米川さんは米(よね)ちゃん、小松原さんは小松(こまっ)ちゃんでした。新入社員の私は諸先輩を「ちゃん」づけで呼ぶことはさすがにできませんでしたが、これらの呼び方からもうかがえるようにオープロには自由で親しみやすい雰囲気があふれていたのです。
その55へ続く
(09.04.17)