アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その65 1974年のアニメ

 この1974年という年はアニメ史的に色々と興味深い年です。ひとつの節目の年と言ってもいいでしょう。

 4月には東映動画の『ゲッターロボ』が放送開始しています。これは3台のゲットマシンが合体変形して巨大ロボになるという合体ロボットアニメの先駆け的作品で、その後、合体ものブームの中でおびただしい数の追随作品が生まれました。またゲットマシンの組み合わせによって3体のタイプの違う巨大ロボに変形するコンセプトは、時を経て東映の実写特撮番組の戦隊ヒーローものや近年の仮面ライダーにその系譜が受け継がれています。
 この『ゲッターロボ』のキャラクターデザインはオープロの小松原一男さん。正統派ヒーローのリョウ、クールなハヤト、やや太目な熱血漢ムサシの3人の描き分けが絶妙で、紅一点となる博士の娘、早乙女ミチルを加え、後続作品のモデルケースともなっています。
 オープロでは小松原さんを各話作監として丸1本のローテーション参加の他、オープニング、エンディングも担当していますが、オープニングの動画はスケジュールの関係もあって東映班以外のオープロ社内の動画マンほぼ全員が参加し、私も少し描いています。ゲッターの変形はよく言えばアニメマジック、正直無茶苦茶無理のあるもので、メカといえば硬い金属と思っていた我々は「小松っちゃん、これでいいんでしょうか?」ととまどいながらの作画でした。今でもあのオープニングの自分の担当分は冷や汗ものです。
 『ゲッター』は初期の勝間田具治さんの手堅い演出と小松原さんのカッコいい作画に、中・後期を支える生頼昭憲さんの豪快な演出と野田卓雄さん率いるスタジオNo.1のシャープな作画が両輪となって、『マジンガーZ』の頃はまだマンガっぽかったメカものを、アニメならではの視覚的快感のあるものへと洗練進化させていき、好評のうちに次シリーズ『ゲッターロボG』へとつないでいます。

 少女ものではこれもエポックメイキングな作品『魔女っ子メグちゃん』が同じ4月から放送開始しています。荒木伸吾さんのキャラクターデザインに美術の土田勇さん、演出の代表格は芹川有吾さん、音楽は渡辺岳夫さんというエース級が並んだスタッフラインナップを見ただけで、その完成度は想像がつくと思います。無国籍風に設計されたオシャレな街を舞台に、ミニスカートでパンチラ多々のコケティッシュなおてんば魔女メグと、大人っぽいクールビューティーなノンの対照的な2人が魔女界の次期女王候補のライバルとして人間界で過ごす設定は魔力の見せどころとしての幅も広がり、本来の視聴ターゲットである女児層から大きなお兄さんまで圧倒的な人気を得ました。
 『メグ』の世界を端的に表わしたオープニングとエンディングは、前川陽子さんのダイナミックかつ情感あふれる歌唱と相まってアニメ史に輝く素晴らしいセンスのものとなっています。

 9月からは『マジンガーZ』の後を受けて、より戦闘的になった『グレートマジンガー』が始まっていますが、これについては、この夏の東映まんがまつりの1本『マジンガーZ対暗黒大将軍』を前提にしなければなりません。この作品については説明不要ではないかと思うほど、ある世代にとって強烈な衝撃を残しています。私の実弟、故・富沢雅彦などは、本作を究極のロボットものと絶賛しているほどです。前年の『マジンガーZ対デビルマン』での2大ヒーローのTV局の枠を越えた共闘もインパクト大でしたが、本作ではTV放送に先立ち主役ロボの壮絶な交替劇を劇場の大スクリーンでやってのけてしまった、それも、それまで鉄壁の強さを誇ったマジンガーZが新たな敵軍団に完膚なきまでにやられ、そこへ颯爽と現れる次期主役ロボ、グレートマジンガーが文字どおりグレートに神がかった強さを見せつけるのですから、もうスパロボ好きには堪らない一篇となっています。最後のとどめにマジンガーZに花を持たせるのもまたよく、最高のカタルシス、カッコいいとはこういうことさを地でいく本作は、今もロボットアニメ史上に燦然と輝く星なのです。
 これは映画版のプロデューサー旗野義文さんの、ロボットもののマンネリを打破するとの思いから生まれた展開といいますが、このヒーロー交替劇はそのままTVの『マジンガーZ』最終回においても再現され、実は私はこちらの方も相当に好きなのです。

 映画といえば、7月に公開された杉井ギサブロー監督、グループ・タック製作のミュージカル長編『ジャックと豆の木』は異色の作品でした。
 これはオープロでも動画の手伝いをしましたが、班を組んでではなく、来たカットをその時できる人がという形でした。1時間38分の上映時間で作画枚数4万6千枚のフルアニメというのが宣伝の売りでしたが、当時はもう3コマ作画が完全に主流で、ディズニー調のフルアニメを描ける人はほとんどいない状況でした。しかもキャラクターごとに特定のアニメーターが担当する珍しい試みがされていました。
 私が手がけたカットは劇場用の大判用紙にフルサイズで小さくキャラクターが描かれているものがほとんどで、単価は通常よりも高めでしたが、動画の中枚数も多く、とても描きにくく苦労しました。線もきれいで丁寧な線でないと通らず、誰でもできるという動画ではありませんでした。でも、キャラクター担当制も含め、これらの作画的試みが功を奏していたのかどうか、完成作を映画館で見ながら疑問に思った不思議な作品でした。

 そして1974年といえば忘れてはならないのが、10月から放送開始された『宇宙戦艦ヤマト』でしょう。現在に続くすべてがここから始まったと言える作品です。これを見てこの道に入ったという人も多く、現在のアニメ関連業界では『ヤマト』を評価せぬ者に居場所はないような雰囲気を感じます。
 私たちは「あんばらや」に集まって『ヤマト』の第1話を見ました。『ヤマト』だけでなく、同時に放送が始まったTBS系の特撮番組『猿の軍団』(当時は『猿の惑星』が大ブームだったのです)も、放送中の『ハイジ』も一緒に。つまりひとつの部屋に3台のTVを持ち込んで同時に見たのです。
 『猿の軍団』はその週限りで見るのを止め、『ヤマト』は2〜3週で誰かが途中で「もう消さない?」と言ってそれきりになりました。『ヤマト』を語る時に必ず言われる『ハイジ』の裏番組だったために視聴率が伸び悩み……という正にそのとおりのことが起こっていたのです。
 当時『ハイジ』はフランクフルトから再びアルムへ舞台を戻し、ストーリー的にもクララが歩けるようになるか否かの佳境を迎えており、人間を見つめる高畑演出も冴えていました。
 一方で『ヤマト』は、目を見張るカットもありながら、全体に粗が見える雑な作りが目立ちました。この時点ではっきり『ヤマト』は『ハイジ』に負けていたのです。年末に『ハイジ』は最終回を迎えましたが、翌週からは『フランダースの犬』が始まり、根づいていた視聴習慣と原作の知名度はやはり強く、『ヤマト』は結局26話で終了の運命を辿ったのでした。しかしこの事実上の打ち切りは強い火種となり、西崎義展プロデューサーという強力な仕掛人の手によって煽られた火は大きく燃え上がり、アニメの歴史を動かしていくことになるのでした。

その66へ続く

(09.09.18)