アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その83 愛しのベータマックス

 1970年代後半はアニメファンのライフスタイルに大きな変化が訪れた時期です。私的に一番大きいのは家庭用ビデオデッキの登場でした。それまでTV番組は一度放送されたらそれきり消えてしまうものでした。当時は再放送がしばしばあり、時には放送中のシリーズの中で再放送が行われたりしていましたから、見逃した番組や回も全くカバーできないというものでもありませんでしたが、やはりそれには限界があります。だからこそ、以前に書いたようにTVを何台も並べて同時間帯の番組を同時に視聴しようとするような無謀なことも実行していたわけです。再放送ではエンディングをカットするということも平然と行われていました。特撮やアニメの第1次ファンと呼ばれる昭和30年前後生まれの世代の多くが、番組内容やサブタイトル、スタッフ名等をメモしていた体験を持っているのも、目の前で消えて行ってしまうものを記憶だけでなく、何とかして記録に残そうとした熱意と努力の証です。
 メモの他にもTVや映画の画面を写真に撮る、ビデオデッキよりも一足早く家庭に入っていたカセットデッキで音声だけでも残す、という試みも盛んに行われていました。資料や情報もほとんどない時代にアニメや特撮のファンでいることは相応の努力を要することでもあったのです。その努力の中に、番組の放送時間までには何が何でもTVの前にいなければならないということもありました。そんな中に登場したビデオデッキは、正に夢のスーパーメカだったのです。
 しかしまだ高価だったビデオデッキを先に導入していったのは私たちより前の世代の映画ファン、SFファンの人たちでした。私の周りで言えば、森卓也さんや石上三登志さんたちです。彼らが選んだのがソニー製のベータマックスでした。ビデオデッキにはベータ方式とVHS方式があり、ソニーが採用していたのがベータ方式でした。ベータはビデオカセットもデッキ本体もVHSよりひと回り小型で、後から比べると性能もVHSより上回っていました。後からというのはマニアの間では圧倒的にベータが主勢力でVHSと比較する場面すらなかったからです。
 マニアは独自のネットワークを持っていて、互いに持てるものを融通しあう場合があります。録画したビデオカセットを貸し借りする時にベータとVHSと方式が違っていては意味がないので、誰かが先行してベータを選択すると連鎖的に周囲にベータの輪が広がっていくのです。「ビデオはソニー、ベータマックス」がその頃の私たちの合言葉でした。
 しかし実際問題としてビデオデッキは高価で、一介のアニメーターにはまだまだ高嶺の花、とても手の届く代物ではありませんでした。余談ですがTVアニメJ9シリーズのタイトルの由来は当時30万近くしたベータマックスの主力機、SL-J9が欲しくても買えない悔しさからの命名という噂もあるくらいです。
 それはともかく、こんな時の頼みの綱がオープロの社長、村田氏です。村田氏は鷹揚というか太っ腹というか、オープロで手がけた作品も保存できるし、仕事の参考にもなるからという並木さんと2人がかりの懇願を聞き入れてくれ、オープロのリビングのTVの上に立派なビデオデッキが備えつけられることになったのです。カセットテープの購入費も必要なだけ出してくれました。ありがたいことです。
 会社用の録画とは別に自分個人で録画したいもののために私はテープを別に買って持っていましたが、当時は1本数千円とこれも高価で、録画して見ては上書きして消し、を繰り返していました。現在のような家電量販店も激安店もない頃ですから、買うのはほぼ定価です。
 ベータマックスは立ち上がり等の諸動作が早く、録画始めの画の乱れも少なくてよい機械でしたが、初期のデッキにはタイマーがついていませんでしたので、近所の店で簡単な丸いタイマーを買ってきてつなぎました。会社にいる時には手動で充分だったのですが、夜中に見たい映画がある時などはこれが活躍しました。作動は大体上手くいったのですが、たまに用心のいい人が一番遅くまで残っていて帰る時に全部の電源を切ってしまうことがあって失敗したりもしました。だから、会社のデッキに頼らないですむようにというのはかなり切実な願望でした。
 少し後のことになりますが、私が東大泉から荻窪の外れに引越した時、最初に揃えた家電がソニーのベータマックスでした。SL-J7だったと思います。最初に録画したのは何回目かの『ハイジ』の再放送でした。テープが高いので何とか節約しようとオープニングは録画しないようにしたり、CMになると止めたりと、今思うと涙ぐましい努力をしています。テープの残り時間を計って終わりの5分ほどの隙間にミニ番組やお気に入りのCMを詰め込んだりもしています。
 ビデオデッキは夢の機械でしたが、それでもその登場はアニメの重さをほんの少し削いでしまったような気がしています。一時期は新番組を全部見なくては死んでしまうくらいの勢いでTVアニメを見まくっていたのに、録画すれば大丈夫となるとそうした意気込みもいくらか薄れてしまったのでした。

 それからずっと長い間、ソニーのビデオデッキを使い続けてきました。いつ頃までだったか、カセットテープにはオマケの点数がついていて、集めると様々な景品と交換できたのですが、多分最高位だったと思うガラス扉付きのビデオラックを貰いましたから、ソニーにはずいぶん経済貢献しているはずです。ビデオラックはその後、日本各県の引越しを繰り返しながら今もきちんとした形で家にあります。
 ビデオデッキも何台目かのベータマックスが今もAVラックの一番上に鎮座しています。機種は、Hi-Band Beta hi-fi SL-200D。HDD主体の現在ではさすがに出番もなくなりましたがビデオカセットは今もしっかりしています。中には30年以上前のものもありますが、後に導入したVHSテープより今も画質音質共によく、ホコリが入ったりカビが生えることも少ないです。俗に言うビデオ戦争でベータが勝ってさえいればと思う私もベータ信者の1人なのかも知れません。
 ビデオ戦争でベータ陣営がVHS派に切り崩されていった様子は、具体的な数字等は分かりませんが、目に見えて感じられました。私が広島に住んでいた頃で、周辺にレンタルビデオ店が増えていき、OVAが誕生し、ビデオだけのために名場面や傑作エピソード、予告編等を編集した企画物やアダルトアニメ等も出回り始めていました。販売店にもレンタルショップにも同じ作品のVHS版とベータ版が2種類並べてあって、ビデオカセットの大きさの違いから棚は凸凹して見えました。そのバランスは次第に崩れ、VHSの数が増え始めました。VHSは家電メーカーの大手ナショナルが採用した規格でしたから購入者も多く、ソフトもVHSの方が選ばれるようになって行ったのです。やがてVHSしか置かない店が多くなり、それ自体は広さに限りある店内のことですから当然の判断と思いますが、やはり残念な光景でした。セルビデオもVHSのみの発売が増えていき、世間はVHSに傾いていきました。我が家も必要に迫られて止むなくVHSの導入に踏み切りました。当時、広島に「ベータの館」というベータ専門のレンタルショップがありましたがどうなったでしょう。我が家はその後広島を離れたために知る由もないのですが。
 それでも、保存用の録画は相変わらずベータで録っていました。ベータのデッキを2台並べてダビングして「ウルトラマン80光線技集」や「セーラーウラヌス名場面集」等、自分だけのビデオを作ったりもしたものです。ダビングといえば、レンタルソフトのコピーガードがまだ甘かった頃、VHSでは無理でもベータならば画面の明るさが周期的に変化する程度でダビングが可能という情報が流れたりしました。

 一所懸命録りためたビデオテープも、作品はシリーズ全話がソフトとして発売されるようになりました。価値があるのは作品自体よりも放映時のTV番組としての形そのものだったり、間のCMやプレゼント告知だったり、あるいはソフト化されないニュース映像や特番だったりします。懸命にCMカットしていた努力は何だったのかという気もします。ちなみに家で一番価値があるかと思うのは、池田憲章さんが怪獣博士として出演し怪獣倶楽部の面々が観客席の一画を占めている往年の「日曜特バン」ではないかと思います。
 ベータデッキは2002年に生産終了となり、時代もビデオからLDを経てDVD、Blu-rayへと変わりました。でも、心のどこかでそうしたハードを信じ切れないのは、あのビデオ戦争の軽い後遺症ではないかと思うのです。

その84へつづく

(10.06.04)