アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その89 「FILM1/24」活字化へ

 並木さんが「ファントーシュ」の編集を抜けることになってしばらくした頃、こんな提案がなされました。私が手書きで続けてきたアニドウの機関誌「FILM1/24」を活字化しないかというのです。並木さんにしてみれば「FANTOCHE」のリベンジという気持ちだったでしょうし、私にとってもこの提案は渡りに舟でした。活字はともかくとして、コピーではないきれいな印刷で写真やカットを誌面に載せたいというのは長年の夢だったからです。もちろん、「FANTOCHE」という場を失ってしまった並木さんを支援したいという気持ちもありました。
 現在の、パソコンがあれば何でもできてしまう環境を当然としている方々には伝わりにくい事柄かもしれませんが、当時の簡易オフセットでは、スチルがあってもそれをコピーして版下用紙に貼りつけた状態でないと印刷には出せなかったのです。これでは折角のスチルの濃淡や細部が潰れてしまいます。
 こうして第7号までは全面手書きの簡易オフセット印刷だった「FILM1/24」は唐突に活字化本格印刷の道へと踏み切ったのです。自分でもどんなものになるのか分からなかったので、第7号までの読者には次号からちょっとした実験をします的なお知らせをしました。
 活字化には写植(写真植字)を使いました。「FANTOCHE」での並木さんの経験に従い、写植は専門の会社に打ってもらい、経費を抑えるためにそれを全て自分たちで版下用紙に貼り込んでいくことになりました。この版下作業は私には初めてで大変ではありましたが、手を使って細々と根気よく進めていく工程は私の性に合っていて、とても楽しんで行うことができました。写植による版下作業の実際については今では知る人も少ないかと思いますので、また別の機会に書いておこうと思います。

 第8号は昭和51年(1976年)5月1日発行。手書き最後の号になった第7号が4月の発行でしたから、約1ヶ月ほどの編集期間しかなかったことになります。
 表紙はオレンジ色の地にフライシャー兄弟の傑作短編『ベティの白雪姫』のフィルムから直接撮影した3コマ分が左側に載っています。サウンドトラックが端にそのまま入っていたり、1コマ作画が見てとれたりと楽しいものです。右側には目次を兼ねた内容紹介が並んでいます。裏表紙には同じ『ベティの白雪姫』からベティ・ブープのミドルショットが1コマとアニドウ上映会のお知らせが載っています。2色カラーからのささやかなスタートで、経費の関係もあってこの2色カラーは「1/24」のスタンダードとして以後長く続くことになります。表紙は並木さんが決めたもので、私はこのオレンジ色の表紙が今も大好きです。どことなく中央線を思わせる気もします。
 巻頭記事はピンスクリーン技法で知られるアレクサンドル・アレクセイエフについて。並木さん好みの黒ベタ地にモノクロ写真と白抜き文字の構成で、これは期せずしてアレクセイエフの特異な世界を一目で伝えているように思えるのは編者としての欲目でしょうか。内容は3月上映会の後記で『禿山の一夜』等4本の作品の解説と感想が中心です。「悪魔の指先」と題した私(富沢洋子)の感想も載っていますが、タイトルのアレクセイエフとすべきところがアレセイエフになっており、大きい文字ほど誤植を見逃しやすいという校正の法則が早くも発揮(?)されています。
 続いて大塚康生さんのお話「ルパン三世を中心に」。これは並木さんが当時大塚さんがいらした東京ムービーでインタビューしてきたものです。フィアットに乗った大塚さん自身のカットも嬉しい8ページ仕立ての記事で、当時まだ外部に出回るのは珍しかったルパンのキャラ表からのカットが各ページにあしらわれています。
 そして手書き時代からのおつきあいになる、おかだえみこさんのコラム。見開きページにトルンカ作品のスチル3枚が、おかださんの名文をさらに引き立てるように載っています。この、スチルの掲載。私はこれがやりたかったのです。
 次は杉本五郎さんによるシリーズ「映画フィルムはなぜ?」。これは「FANTOCHE」で並木さんの企画で始まった連載の「1/24」版です。奇特な杉本さんは同誌の分裂に際し、ありがたいことにこちらでも同趣の連載を引き受けてくださり、スチル6枚も提供してくださったのです。表紙のベティのスチルも杉本さんの提供によるもので、映画関連機材やカメラに目のない杉本さんが当時新たに入手したカメラを使用して撮影されています。これはカメラのレンズ前にフィルムを挟む部分があり、シャッターを切ると映画フィルムがそのままカメラのフィルムに写る仕組みになっていました。これはとても面白く色々と試させていただいたものです。杉本さんは新しいカメラを手に入れるとすぐにアニドウ集会の喫茶店でお披露目してくださるのが常で、にこにこと嬉しそうに撮影をしていた姿が今も懐かしく浮かびます。杉本さんなくしてアニドウの上映会も、この「1/24」の誌面も立ちゆかなかったことは言うまでもありません。
 その後に読者の感想文やニュースが続き、最後を締めるのは「見よ!日本まんぐわ・えいぐわの伝統を!!」第0回。これは日本アニメ史の年表を個々のエピソードで並べる企画で、「日本アニメーション映画史」の著者の1人である山口且訓さんの資料協力を得て、若き日の見目麗しい政岡憲三さんはじめ当時の制作風景等の貴重な写真が見開きで並んでいます。もしも「FANTOCHE」がああいう事にならなかったら、その誌面で展開されたはずの企画で、並木さんのライフワークとなったことでしょう。
 終盤の読者のお便りページは私の手書き文字です。これは、いきなり全ページが活字になってしまうことへの戸惑いから、私のわがままで手書きページを残したものです。当時は活字というものが立派すぎるように思えて、手書きの血の通った暖かみを誌面から失いたくなかったのです。

 表紙以下、私が担当した手書きのお便り部分を除いた全てのページのレイアウトを並木さんが手がけ、写植文字の書体や級数の指定等も全て並木さんが行いました。写植発注の元になる原稿ですが、当時はパソコンはもちろんワープロもなく皆普通に400字詰め原稿用紙を使って原稿を書いていました。執筆をお願いした原稿は遠方の方は郵便で送ってくださり、近くの方からは直接手渡しで頂きました。大阪の渡辺泰さんをはじめ貴重な写真を快く貸してくださる方も多かったのですが、原稿料はおろか郵送費も出さずじまいでした。未知の世界へ乗り出した私たちに力を貸してくださった多くの方々には今も感謝の思いと申し訳なさを抱いています。
 写植と印刷は、並木さんが探してきた荻窪近くのコロニー印刷という会社に発注しました。ここは障碍者の方も働いている作業所で、多少安い値段でできました。といっても手書きの簡易オフセットとは比べものにならない費用ですから、完成した第8号は1冊200円として、アニドウの上映会や集会での頒布はもちろん、雑誌の読者欄に投稿して購読者を募ったり、マスコミに取り上げてもらったりして広報に努め、当時から始まっていた同人誌即売会にも出品しました。ごく初期のコミックマーケットにも参加しています。こういう時には最年少の学生で小回りのきく篠くんがよく働いてくれました。
 その頃のアニドウは、住み慣れた西荻の「あんばらや」が解散して事務所的な場所を失っており、並木さんは一時浦和の自宅に引き上げていました。第8号の発行所が浦和の当時の並木さんの住所になっているのはそういうわけです。私は相変わらず東大泉の狭いアパートに住んでいましたので実作業の場所がなく、動画の仕事が一段落したオープロで、皆が帰ってから動画机の上におもむろに版下用紙を広げて並木さんと2人で編集作業に勤しんだりしたものです。今思うと余計な光熱費を使っていたことになるのですが、若い頃はそうした事柄に全く気が及ばないもので、今にして村田社長や幹部連には申し訳ないことをしたとの思いで一杯です。ただ当時のオープロには仕事以外でも社員のやる気を認め応援してくれる懐の広さがあったのも事実です。私も並木さんもこの一連の編集作業に没頭していました。後に編集部としての事務所を構える前のこの時期、並木さんと2人で遥かな目標を見定め同じ方向を向いて頑張っていた日々が一番幸せな頃だったのだと思います。並木さんの中には「FANTOCHE」を失った経緯への反省もあったのか、とても作業に熱心で、私のことも「姫」と呼んで大事にしてくれました。ある時など、赤信号に変わりそうな横断歩道を走って渡っている途中で足を捻挫して動けなくなってしまった私をおぶってくれたこともあります。そこまでの親切を受けたのは後にも先にも並木さんだけで、今も感謝しています。編集作業は当然深夜に及びますので、一介のアニメーターとしては夜食は近所のよろず屋でカップラーメンを買ってすませることが多く、当時発売されていたカップ麺類はほぼ全て食べているような気がします。若かったからこそできた、毎日が輝くような充実の日々でした。

その90へつづく

(10.08.27)