その99 政岡憲三特集号など
再び通常号に戻った「1/24」第22号は1978年3月発行。編集後記にもぼつぼつ「スター・ウォーズ」の話題が載り始めたのが時代を感じさせます。
今号の表紙は岡本忠成さんの『虹に向って』をメインに放映前の『未来少年コナン』の番宣スチルも1枚。内容は、話題のアニメーション大紹介としてリチャード・ウィリアムスの長編『アンとアンディーの大冒険』や、ジム・ダンフォースが特撮を担当した「フレッシュ・ゴードン」、ランキン&バス・プロダクションとトップクラフトの日米合作長編『ホビットの冒険』等を掲載。
中で注目は新番組『未来少年コナン』を紹介した4ページの記事です。『コナン』は放映に先立ってNHKのマスコミ向け試写に並木さんと共に呼んでいただき、宣材としてスチルも提供していただきました。実はこのスチルを初めて見た時の印象は、今だから言えることですがあまり芳しいものではありませんでした。見ただけではどんな作品かも分からず、どこか泥臭く見えてしまったのです。ところがNHKで第1話の試写を見せてもらって愕然。とにかくものすごいのです。動いてこそのアニメという至極当たり前の真理をこれほど体現した作品に初めて出会ったような気さえしました。試写後の質問タイムで私は真っ先に手を挙げて「本当にこれを半年続けてもらえるのでしょうか!?」と興奮冷めやらぬままに発言してしまったほどの感動でした。直後にオープロは『コナン』の原動画に参加、私も動画として日も夜もないほど働くことになるのですが、この第1話は日本アニメーションの社内班、それも近藤喜文さんを筆頭とするベストメンバーが先行して作ったもので度肝を抜くに充分な出来だったのです。後の『コナン』本へと続くアニドウの『コナン』リスペクトはこの瞬間から始まったのでした。
実はこの号は並木さんから「やってみない?」と言われて一部を除き誌面のレイアウトから私自身が手がけたものです。表紙のグリーンの色も私の好みです。特に訊き返しもしなかったので私に任せた並木さんの真意は不明ですし、奥付のレイアウトも並木さんの名のままです。ただ私がレイアウトしたことで、全体として昔のごちゃごちゃとした同人誌的な雰囲気にはなってしまっていると思います。
次はまたも合併号で第23&24号。1978年10月の発行です。政岡憲三さんの特集で全96ページ。特集に先立つ巻頭には三つ折り変型判で「アメリカにおけるアニメーションのルーツ」の連載が綴じ込みになっている異色の構成です。
政岡さん特集の扉ページは黒地に、和服に学帽を被り唇を真一文字に結んだ凛々しい美少年、若き日の政岡さんの写真です。政岡さんは芸事を修め自ら役者や女形を務めたこともある異色の経歴の持ち主で、その経験は映像詩とも言えるその作品に生かされています。
特集の構成はまず政岡憲三制作年表。これは私が政岡さん自作の記録を元に、有文社の「日本アニメーション映画史」等を参考に作成したのですが、なにぶん当時の資料であり充分なものではありません。最新の資料に基づくより正確な研究成果の発表が望まれます。政岡さんの自選ベスト5『難船ス物語・猿ケ島』『べんけい対ウシワカ』『桜』『すて猫トラちゃん』『くもとちゅうりっぷ』は政岡さんの談話と作品スチルを併せて紹介。並木さんによるインタビューは「アニメーションには哲学がなくてはならない」との政岡さんの信念で締め括られるもので、2ページという短さが惜しく思えます。
さらに、藪下泰次、森やすじ、杉本五郎さんたちの寄稿、小松沢甫さんの論考、「映画評論」昭和18年(1943年)5月号掲載の「日本漫画映画の興隆」と題する座談会(政岡さんの他に瀬尾光世、新井和五郎、今村太平、野口久光さんら7人の豪華メンバーによるもの)の再録と続き、全40ページの特集になっています。どのページにも政岡さんのアルバムから拝借した、政岡映画美術研究所や新日本動画社等々の会社や大藤信郎さんたち歴史的な作家の写真が多数掲載され、貴重な記録となっています。
この特集のために当時の政岡さんのお住まいには足繁く通わせていただきました。政岡さんのご自宅については杉本さんの文章に的確な描写がされていますので引用させてもらいますと「あの有名な先生が何と二階の四畳半ほどの部屋でそれこそ本やらアルバムやら複写台やら冷蔵庫からクーラーまで、まるでオモチャ箱をひっくりかえしたように雑然と置かれた中で、これが当然と言うような顔で、泰然と生活して居られた事で、大きな庭にフカフカした椅子のある応接室を想像していた私には意外であった。……やがて、こうした生活が先生にとって最も合理的なのだと言う事が解った」。これは全くそのとおりで、私たちがうかがった時も政岡さんの終生の夢であった『人魚姫』の参考資料である週刊誌の女性グラビア等が所狭しと置かれてありました。実は私は政岡さんから『人魚姫』の参考のためにモデルをしてくれないかという申し出をいただいたことがあります。政岡さんのスケッチを拝見すると目の大きい髪の長い人魚姫の顔は、その頃の私に似ていなくもないかと今にして思ったりします。もったいないほどのお申し出でしたが、なにしろ人魚姫はあのスタイルですので、丁重にご辞退申し上げたのでした。政岡さんといえば、杉本さんも書いておられますが、ご自宅に猫が沢山いて、私はその子猫の1匹を貰い受けてしばらくオープロで飼ったりもしました。
政岡さんには関連する上映会や全国総会にもおいでいただきましたが、スーツに帽子のお姿はとてもダンディで往年の美青年ぶりを彷彿させるものでした。政岡さんの諸作品についてはここで改めて記すこともなかろうと思われますが芸術性に富んでおり、どれも初めて見た時の感動と興奮が今も熱く残っています。そのような歴史上の人物と言ってもいい方と親しく時を同じくさせていただけたのは本当に奇跡のようなことでした。先年のフィルムセンターでの大藤信郎展のような大回顧展が大勢に開かれた場所で行われることを願ってやみません。
今号にはもうひとつ、渡辺泰さんによる「我がアニメ道 “ディズニー・クラブ”の頃の想い出」と題する大型記事があります。ディズニー・クラブとは1952年7月、『ピノキオ』公開を記念して日本RKOラヂオ映画と大映洋画部が業務提携し、ディズニー・プロの協力で結成した公認ファンクラブで、会誌「ディズニー・ジャーナル」の会員には坂本雄作、板井れんたろう、児玉喬夫、月岡貞夫、安田卓也、鈴木伸一、柳生純磨(すみまろ)、和田誠さんら錚々たる名前が並んでいます。ディズニー・クラブは創立以来8年の時を経て解散に至りますが、その間に有志で結成された「ファン・アンド・ファンシー・フリー」(ディズニーの『こぐま物語』の原題で、陽気に気ままに、の意)は三上義一さんをリーダーとし、渡辺さんをはじめクラブ員の岡田英美子、森卓也、神田昭夫、和田誠さんたち10名ほどが集ったサークルで、大学生から社会人へと立場を移しつつ活動は10年近く続いたそうです。その会誌「FUN AND FANCY FREE」は私も見せていただきましたが、ディズニーとその作品への愛に満ちた立派な、今見ても感服する出来栄えです。譲っていただいたバックナンバーは今も我が家の一番よい場所に、触れるのも惜しいほどそっとしまってあります。
また渡辺さんはおそらく日本で最初のアニメ同人誌と思われる「SLEEPY SYMPHONY」についても紹介されています。これは和歌山の佐久川克二さん、広江武さんの2人が中学から高校時代にかけて作られたもので、昭和26年(1951年)の創刊、B6判のガリ版印刷で10部ほどの発行だったそうですが、時に90ページ近い大冊となったこともありカラーページも存在したとのことです。「1/24」のルーツとも言える、私が生まれる以前のこうした情熱の産物の存在にはただ頭が下がるのみです。
渡辺さんの記事は22ページに渡り、さらにおかだ・えみこさんにお願いして「ファン・アンド・ファンシー・フリー」の思い出を書いていただいた「アニメマニア・グラフィティ」と併せ、第2の特集と言ってもいいボリュームと内容になっています。おかださんの結びの一節「文なしの、でも、すばらしい青春の、その遠い手ごたえが、小さな重量と厚みで、私の机の上に今もあるのだ」はそのまま現在の私自身の、遥かな時を経た感慨とも重なります。時が教えてくれる真実は確かに存在するのです。
それにしてもこの号は様々なスチルの多い号でした。政岡さん、渡辺さんをはじめ多くの方々に協力していただいたこれらを上手く捌いて格調ある誌面に収めたのは並木さんのレイアウトの力あってのことだったと思います。
その100へつづく
(11.01.21)