第21回 なにがわかったのだか、いまだによくわからない
高畑さんのストーリー・ミーティングは、一歩一歩、地歩を固めるような、執念深さで進められた。
それは、決して表面的なエピソードを並べ立ててゆく方法を採らなかった。
映画ストーリーの表層表現のもうひとつ下に流れる、「現実原則」と「快楽原則」が相克し、やがて統合へと向かう道程を、意味づけつつ足固めしてゆく作業だった。かつて「長くつ下のピッピ」のアニメーション化を目論んでいた高畑さんらしく、同じアストリッド・リンドグレーンの「やねの上のカールソン」なども例に引き出された。そこで語られている意味を、たとえば「カールソン=主人公の快楽原則の外在化」などと規定することで、いったん解体し、『NEMO』の中に必要要素を移植してゆく地道な作業だった。
ストーリー・ミーティングに参加している若いアニメーターたちは、当惑し、半ば苛立っているようにも見えた。彼らは、わかりやすく型にはまったような、しかし力強くヒロイックな場面描写を提案しようとして、夢の国スランバーランドのプリンセスなのだか、当時マンガとして連載されていた『風の谷のナウシカ』の主人公なのだか、区別のつけがたい台詞表現を持ち込もうとして、高畑さんに眉をひそめられていた。
「なぜ、若い人はみんな文語体みたいな台詞を好むのか」などと。
自分自身は書記に徹している顔で、この円卓に臨んでいたが、テーブルの上を行き交う話のどの辺を書きとめればいいのか、段々わかってきたような気がした。高畑さんの発言の周囲だけ書き留めてまとめていれば、ノートとしての要点は押さえられるように思えた。結局、高畑さんは、他人の意見をそれほどには取り込まず、ほとんど自分1人で構想を進めていた。ただ、誰かに向けて喋ることの中でそれを行おうとしていたようだった。もちろん、建設的なストーリー提案が現れれば、その限りではなかったのだろうが。
それにしても、表層表現と、その底層に置く意味的な展開と、二重に構造をもって構築が進められていくのは理解したが、表層表現の部分はおざなりにすませられてゆく感じもした。ここではストーリー解釈を一本通すことに注力し、表面上の表現はこの後作画監督たちを使ったストーリーボード作業でそれを行おうという意図なのかもしれなかった。
それがゆえに、作品参加ができる、と気負いこんで乗り込んできた若者たちを混乱させていたのだろう。
あるとき、「昨日のミーティングの内容をこんなふうにまとめました」と、高畑さんにノートを提出した。こちらとして雑音に類すると思った発言を排除し、高畑さんの言葉を端的に文章化しようとしたものだった。
高畑さんはじっとノートを眺めていたが、最後にこういった。
「やっと少しわかりかけてきましたね」
後日、高畑さんはゲーリー・カーツに提出する覚書を自分の手で作成した。高畑さんの手書き論文原稿のような端正な文面の中に、あの日「やっとわかりかけてきましたね」といわれたその日の自分のノートがコピーされて、切り貼りされていた。字句の間違いを、丁寧に傍線引いて正した上で。
少し報われた気がした。
第22回へつづく
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(10.02.15)