β運動の岸辺で[片渕須直]

第55回 木々と花々の趣味、物騒な趣味

 まだ、今ほど仕事に恵まれていなくて、逆にいえば自分の自由にできるのどかな時間があった頃は、それなりに幸福だったような気がする。
 スタジオ4℃の田中栄子さんなんか、今ではアポを取るのもたいへんな感じに毎日めいっぱい忙しそうなのだが、90年代に入りかけの頃は、4℃の最初のスタジオになる平屋の家の近所の空き地で、子どもたちといっしょになってせっせとスイカ栽培をしていた。たまたまこの空き地が都有地だったりしたもので、都の職員が来て夏の雑草をグィーンと刈り取ってしまい、いっしょにせっかく実がつき始めたスイカの苗もなくなってしまった、と憤慨していた。
 そういう自分自身も、「仕事場」と名目をつけて、住んでいる貸家のほかにもう一件家を借り、その庭でせっせと園芸などしていた。何せ20坪か30坪くらいの土地にぽつんと6畳一間のみの小屋みたいな家が建っているだけなので、家賃は格安、耕して花壇にする庭はふんだんにあった。うちの妻などは、この家を借りることになったとたん、イメージボードを描き始めたりしていた。一間っきりの6畳間には縁側がついており、そのすぐ外には山桜の木が立っていたので、その枝から電灯なんか垂らして、子どもらと庭でバーベキューでもしよう、というイメージをサラサラと絵に描いて夢見てるのだった。そうそう、庭先にはポンプ式の井戸もあった。ただし、ポンプは大破していて水を汲むことはできなかった。
 この小屋みたいな家は、ちゃんと本当に仕事にも使っていて、日本アニメーションの世界名作劇場の絵コンテ(思い出す限りでは『私のあしながおじさん』とか)なんかをここで切ったし、『アリーテ姫』の初期的なストーリープランも、壁にメモを張り巡らすようにして、この家の中でやっていた。
 はじめは庭とは名ばかり、ただ雑草が生えている空き地だったところに、リュウノヒゲを増やして花壇の仕切りを作り、小道を作って色々な花を植えまくった。あまりにシャベルをふるいまくって、地中の水道管に穴を開けてしまい、水道屋が修理に来るまでの洪水でモグラが溺れ死んでぽっかり浮かび上がった、なんてこともあった。
 元から生えていた植物も適当に植え替えてゆくと、黄色い花と赤い実をつけるヘビイチゴなんかが目立つ感じになり、ちょっと風情がよくなった。カヤの穂なんかも揺れていた。通りかかった老婦人から、庭をスケッチさせてもらいたいのだけど、といわれてしまうほどだった。

 ところで、宮崎さんは信州に別荘を持つようになっていたのだが、そこまで出かけるとなると、今まで愛用していたシトロエン2CVのような車では特に冬がおぼつかないので、4WDだかなんだかを買うことに決めたらしかった。ついては駐車場がない、という。宮崎さんちの近所には、のちに例の「トトロの森」になる雑木林があって、駐車場もできる予定だったようだったのだが、「あそこはなんだかなあ」といいだして、挙句に「お前んとこの庭に俺の車置かせろ」という話になってしまった。思えば、うちの「庭のある家」は宮崎さんの家からもほど遠くないところにあったのだった。
 「え? いや、だめです……」
 とか、言葉で抵抗していたのだが、向こうは思い込みが激しいたちの人なので、もうそこに車を停める気になっている。ある日曜日に奥さんを伴って下見にまで来てしまったらしい。
 で、どうなったかといえば、
 「女房がこれを潰すのはかわいそうだ、というのでやめにした」
 春にはチューリップやデイジー、クロッカスが一面を埋め、キイチゴの花も咲いている庭だもの、それはもう。

 新人たちの面倒見るためジブリに通い出し、そのジブリが竣工したての新社屋に引っ越すと、そこには庭はあれどむき出しの土の地面があるだけ、という状況だった。何かむらむらするものを感じ、「庭の家」のリュウノヒゲがすぐに増えるので無尽蔵といってもよい感じだったので、少し引っぺがしてきて、ジブリの庭に花壇を作ってしまった。別に社員でもなんでもない立場なので「フリーの園芸部長」などと呼ばれていた。
 宮崎さんからは「お前には緑の指がある」と感心され、高畑さんからは「この花は好きじゃないなあ」とせっかく咲いたルピナスの花をくさされたりした。
 しばらくすると同調者が現れた。近藤喜文さんだった。団地住まいの近藤さんは、団地の庭に木々を植えようとしては管理委員会に叱られて断念したりしていたらしい。
 「実のなる木を植えるのが夢なんだよね」
 というので、
 「じゃあ、買いに行きましょうか」
 と、2人で就労時間中に近藤さんの軽自動車に乗り込んで、武蔵小金井のほうまで果樹の苗木を買い出しに行った。近藤さんの運転といえば、坂道発進が苦手なあまり信号が坂道の上にあったりするとはるか坂の下に車を停めて青信号にあるのを待つ、という感じのものだったので、若干の不安を抱えながら助手席に乗ったものだ。
 いろんなものを買ってきてジブリの庭に植え始めると、近藤さんの中にさらにあれもこれもという欲求がたまっていったらしい。あとでまた1人で苗木を買いに行っては、社屋の周りのあちこちに植えまくった。挙句に会社の管理部門から「社有地に勝手に木を植えないでほしい」と苦情をもらう羽目になってしまった。
 ああした植物たちは、近藤さんもいなくなってしまった今、どうしているのだろう、と思う。

 宮崎さんは、喫煙するがゆえに、作画室の隅にガラスで仕切った一角を作って、その中に篭っていた。『紅の豚』が終わって次回作の構想もない時期だったので、モデルグラフィックス誌の漫画をそこで描いていた。
 「おーい、ちょっとー」
 と、呼ばれてその小部屋に行くと、宮崎さんはW・J・シュピールベルガー著「ティーガー戦車」などというドイツ語の洋書の写真に定規を当てていて、
 「なあ、この前面装甲鈑の厚さ、65ミリだと思うんだけど、どう思う?」
 などと問いかけてくるのだった。ポルシェ・ティーガーのハイブリッド・エンジンの過熱の具合だとか、そういう話し相手ができるのは、まあ、このあたりでは確かに自分しかいそうになかった。
 見ると原稿には、クルスク戦車戦の迷彩をつけたフェルディナント自走砲が描かれていたのだが、主砲防盾の裏表が逆になって描かれていたので指摘してみた。
 「写真ではこうなってる」といい返してくる。
 「それは、クルスク戦のあと一度後方に引き下げて改修した後の写真でしょ。改修前は裏返しなんです」
 「信用しない」
 せっかくいってあげているのに、肝心なところを信用されないのも困る。
 以前、『天空の城ラピュタ』の構想中に「高射砲塔が出る」というので、市街地を見下ろす立地から高射砲が発砲するとどうなるか、と広島の江波山高射砲陣地の話をしてみたことがある。低空で侵入してくる敵機には俯角射撃を行わざるを得ず、それは自分たちが守るべき町に直接砲弾を撃ち込む行為となってしまうのだ、と。
 そのときは「ふーん」とかいわれてしまうのだけど、いつの間にかそれがモデルグラフィックスの漫画に描かれてしまったりするのだった。そういうところは「結果的に」信じてくれちゃうのである。
 このとき描いていたのは「豚の虎」という話だったが、また「おーい、ちょっとー」と声がかかって小部屋に呼ばれ、
 「お前、このあいだ、ドイツ軍の補助車両の載ってる本持ってただろう。あれ、貸せ」という。
 「だって、宮崎さん、こんな戦わない車の本は大塚さんしか興味持たない趣味だ、ってけなしたじゃないですか。だからもって帰っちゃいましたよ」
 「ちぇっ」
 「なんなら……明日なら持ってきましょうか?」
 「いい。適当に描く」

 新人養成の仕事が終わって、さあ、そろそろジブリを離れるか、と思っていた頃、プロデューサーの高橋望さんに「話がある」と呼ばれた。何事かと思ったら、
 「ジブリの社内に残ってくれませんか?」
 という。
 「宮崎さんのミリタリー関係の話し相手になれる人材がほかにないんですよね。宮崎さんのミリタリー関係話し相手担当、ということで残ってもらえないか、と」
 うーん。それはどうなんでしょ。
 とにもかくにも、4℃には仕掛り中の『アリーテ姫』が待っているのだった。
 ということで、2代目の園芸部長は美術の久村佳津さんに任せて、サヨナラ、ジブリ。

第56回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.11.08)