第85回 出発はとてつもなく素早かった
放映開始まで2ヶ月、というのは、準備期間が2ヶ月あるという意味ではもちろんなくて、1話の制作にすぐにでも着手しなければいっそう厳しいということで、実質的な準備期間は「ほぼゼロ」だった。
何と何をしたかなあ。
とにかくまず、1話のシナリオをライターの松井亜弥さんと打ち合わせして構築し、即座に絵コンテに入ることだった。
参考にすべき映画、たとえば1941年のジョン・フォード「わが谷は緑なりき」だとか、エリザベス・テイラーがプリシラを演じる1943年の「名犬ラッシー 家路」は、ここに至るまでにすでに見直していたのではないかという気がする。でなければ、ほとんどいきなり絵コンテに手をつけたといってよい1話があんな内容になるはずはなかった。
そもそも、「わが谷は緑なりき」の影響があって、『名犬ラッシー』の舞台はアメリカより英国のほうがいいと主張していたのではなかったかと思う。あのてっぺんで巨大な滑車が回る竪坑櫓は、「わが谷は緑なりき」からの引用なのだ。あんなそびえる竪坑櫓がトロッコを上下させ、その地下には迷路のような坑道が広がるだろうし、地上に出たトロッコは軽便鉄道で運ばれる。「ただ生活があるだけ」であるよりも、楽しさと躍動感と陰影のある広がりがもてるように思えたのだった。
エリザベス・テイラーのプリシラは素敵だった。気難しい顔をして歩く祖父ラドリング公爵のすぐうしろを、その尊大な態度を物真似して歩く、魅力的でお嬢様的な嫌味がまったくない少女だった。高畑さんの『アルプスの少女ハイジ』で、同じくお嬢様であるクララがはじめて画面に登場したときの、その素直さの表現をとても魅力的と思っていた自分にとって、エリザベス・テイラーのプリシラはとにかく素敵だった。
ところで、このお話の原作が書かれたのは1938年だった。いかにも世界名作児童文学的な19世紀の世界でもなければ、20世紀初頭の時代ですらなかった。第一次と第二次、ふたつの世界大戦の中間の時期、戦間期もほとんど終盤にさしかかろうとしていた頃を描くことになるのだ。空飛ぶものが好きな自分としては、ラドリング公爵には多少の先見性を身に着けていただき、デ・ハビランドの小型双発旅客機ドラゴンあたりで、点在する領地間を飛び回っていてほしかった。
というあたりでそそくさと1話のストーリーをメモにまとめて松井さんに回し、ほとんど並行するように絵コンテに着手した。
美術設定も何もできていないし、それを待っている時間的余裕もなかったので、鉱山町の中にある必要な場所の位置関係を作り、それから主人公ジョン・キャラクローの家の中の間取りを自分で作った。のちのちこの家の中で犬を飼うことになるので、1階にふたつある部屋の境にドアをつけたくなかった。かといってあまり見通しがよすぎると、ひとつの部屋を舞台にしているはずなのに、いつも隣の部屋まで描かなければならなくなってしまう。カメラポジションを考えて、玄関ドア、台所と居間の境のドアのない戸口、裏口のみっつがお互いにちょっとずつずれていて、いっきに見通したりできないように配置することを考えた。で、これをどこかから段ボール箱(会社に来たお中元の箱だったように思う)を材料に模型に組み立てて検証もした。のちのち、本チャンの美術設定を伊藤主計さんと打ち合わせすることになったときも、打ち合わせ場所の国立のスカイラークガーデンズまでこのダンボール細工を持参し、主計さんはそんな不細工なものをむき出しのままきちんと持ち帰ってくださったのだった。
この1話の絵コンテは、まったく何もないところから3日半くらいで完成させてしまったのではなかったかと思う。
並行して、シリーズ全体の構成プランの心積もりも抱かなくてはならなかった。
かつては1シリーズ1年間52本作られていた世界名作劇場も、この頃になると1シリーズが39本で編成されるようになっていた。期首末特番だとか、バレーボールのワールドカップ中継だとかが割り込んでくることが、最初から予定されていたのだった。正直なところを申さば、52本より39本のほうがはるかに気が楽だった。
39本3クール分作らなければならないのなら、まずはこれをみっつに分けてみる。
最初のパートでは、少年ジョンと子犬ラッシーとの出会いから、両者のあいだの関係構築、ラッシーが成犬に成長してゆくまでの過程を描く。子どもたちのかけがえのない時間を築き上げる。
第2パートでは、子どもたちの視野が、この鉱山町という共同体を作り上げる大人の側にまではみ出していく。大人たちの喜びも理解できるし、矛盾だとか、薄暗いところのあることですら、目に入るようになってくる。町の人たちのあいだで結婚を祝う宴もあれば、鉱山事故も起こって閉山の危機が訪れる。この辺までの展開は、絵コンテ用紙にそそくさとラフなイメージを描きとめて、メモ代わりにしたものだ。
その先、大人たちのあいだに渦巻く葛藤の何かの部分が急にラッシーの身の上に焦点を結び、ラッシーは人身御供となってスコットランドに連れ去られる。以下、原作のとおりラッシーが脱走してジョンの家まで帰ってくるのだが、相応にジョンの側のパートも作る。
結末の感触はまだそこはかとなかったけれど、こんなつもりだった。すべてはうまく運ぶようになり、炭鉱の経営はふたたび盛り返し、町の人たちの仕事も回復する。だけど、その身代わりとしてキャラクローの一家はこの町をでてゆかなければならなくなる。いや、理由は何でもよい。彼らとラッシーははるか新天地を目指して、オーストラリアあたりに旅立ってゆくのだ。
この最後の部分は、やはり「わが谷は緑なりき」の中で、成長した息子たちが次々と炭鉱村を出て自分自身の居場所へ旅立っていったシーンのいさぎよさが心に残っていたのだと思う。さらには、この数年後に起こるバトル・オブ・ブリテンの下にかつての子どもたちを置いておきたくないという気持ちからでもあった。
第86回へつづく
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(11.06.20)