第90回 本を積むときホンが書き始められる
もう一昨年の話になるのだが、『マイマイ新子と千年の魔法』がスイスのロカルノ国際映画祭で上映されることになり、はからずもこれが世界最初の一般公開ということになった。お呼ばれしてしまったので、自分も赴いたのだが、このときは松竹の鈴木プロデューサーがご一緒してくださった。当然、記者会見だとか舞台挨拶とか色々あるわけで、それに備えなければならなかったのだが、これが最初なのだからここで喋ることは今後の指針にもなる。鈴木さんは、
「作戦を立てましょう」
と、物見遊山のあいだにも、飯など食べるあいだにも、想定質問を絶えずこちらにぶつけてくるのだった。
こちらも色々答えて話しているうちに、鈴木さんは何か思ったらしかった。
「その作品づくりの裏話としては、色々考証してる部分が特におもしろいなあ。『この監督はハード・リサーチャーである』。その辺に重点置いて広げてゆきましょう」
「はあ」
なるほど、と思った。
仮想の世界を描くものづくりをする以上、時代考証だとかナニナニ考証だとかする必要性に事欠かない。詳しい知識を持っている人に聞いたりももちろんするが、最後は自分で取りまとめることにしている。なんとなれば、所詮考証なんてするのは作品世界を充実させるため、自分がいかにイメージを抱けるかということのためなのだから。どうでもいいや、と思うことは適当に取捨選択の対象にしてしまうこともあるし、おもしろいと思ったところは掘り下げてみる。
『マイマイ新子と千年の魔法』なんて、自分で調べものを始めていなければ、原作になかった部分、つまり千年前の山口県防府市に清少納言が訪れていた可能性なんて自分の中に浮かんでこなかっただろうし、全然違ったストーリーになってしまっていたかもしれない。
でき上がっているストーリーを映像に形象するだけのために考証の作業があるのではなく、もっと深い部分を作り出すためにそれは必要なのだと思う。
1990年代の半ば頃にもすでにそういう傾向は自分の中にあり、『アリーテ姫』の準備でも、同僚の森本晃司氏から「学者の仕事じゃないんだし、よせよせ」ととがめられつつも、
「ヨーロッパの中世をある程度理解した上で、描いてみたい」
と思っていたりした。
順序からいえば、『アリーテ姫』の準備開始の方が『名犬ラッシー』よりも前になる。
当然、『名犬ラッシー』でも沸々とするものはあったのだが、いかんせん、前にも述べたように、準備開始から放映開始まで丸2ヶ月切っているという状況だった。
いろいろな制作プロダクションを渡ってみると、こうしたことのために「設定制作」という職種を設けているところ、そうでないところ、様々だった。
『名犬ラッシー』の日本アニメーションにはそれがなかった。多く現実に存在した土地に舞台をとり、日常生活にそれなりの重点を置く作風である以上、あってしかるべきなのではないか、と今にして思ってしまう。
これもまた今にして思えば、ここのスタジオの基盤を築いた高畑勲さんやそのメインスタッフたちが自分で調べるタイプの働き屋だったことが、専門的な職種を設けないことになってしまったのかもしれない。
それにしても、これまで相当数のシリーズを制作してきたスタジオなのだから、資料のライブラリーくらいあるのではないかと予想していたのだが、応接テーブルの後ろにちょっとした本棚がひとつあるっきりだった。どうも気の利いた人は本は自腹で買って会社に残さない、ということのようだった。
当然、ロケハンに行っている時間はないし、その費用もないといわれた。じゃあ、過去の作品のロケハン写真のアルバムとかはないのかと問えば、それもしまいこまれてしまっているか、まったく会社に残っていないかどちらか、という話だった。
知識の蓄積は作品ごと、それを支える個人が自らの責任において行うしかないのである。
インターネットとかが利用できる時代ではまだなかった。知識は本の代金として有料なものであり、何冊かの本は自分の家にあったものを持っくればよかったが、あと何冊かは時間を見繕って新しく買った。
ヨークシャーのヒースの荒野(ムーア)。
そこにそびえるトーと呼ばれる岩。
家々の造作。食生活。1930年代という時代に見合った小物たち。
そうした中に、運河の閘門の写真もあって、閘門の水を出し入れする蒸気ポンプの写真もあった。
この瞬間、迷子の子犬ラッシーはボートに乗って運河を流れてきたことになった。少年たちは、ラッシーの身元を捜して運河をさかのぼり、そこで閘門番のじいさんと出会う。
第3話のストーリーはそれでどうでしょう? というと、脚本の松井亜弥さんは、自ら蓄積のポケットを探って、このじいさんに恰好の締めくくりの台詞、バケツで練るココアについての言葉を見つけ出してくれた。
第91回へつづく
●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp
(11.08.01)