β運動の岸辺で[片渕須直]

第94回 この話ももう終わる

 1996年1月から放映が始まった『名犬ラッシー』は、視聴率が思わしくなかった。
 それはそうだろうとも思った。このシリーズはひとつ前の『ロミオの青い空』で視聴率がいくらか伸びていたとして、それは本来のこのシリーズが対象としていたはずの年齢層とは少し外れたところでの支持があったからにほかならない。
 引き続きその同じ視聴層に向けて突撃をかけ続けることだってできたはずだし、はなっからそういう企画なのだとしたら、自分にもそれなりにできることはあったと思うし、企画がそんなふうにアップ・トゥ・デートされた方向に走らないことに感じる疑問もあった。そういう意味では、少なくとも自分自身はかなり懐疑的だったように思う。
 しかし『名犬ラッシー』は、テレビ局編成部サイドの意向として、典型的な「ファミリー向け」を目指して企画されたものだった。ある種の不幸があったとすれば、かくいう自分自身がそうしたものにかなり強烈に食指の蠢きを感じてしまう性をもっていたことだったのかもしれない。
 ともあれ、自分も脚本の松井さんも、正面突破を試みればなんとかなると思う部分、かなり大だった。誠実に、持てる力を投入する以外に道はなかった、ともいえるのだが。

 結果として、『名犬ラッシー』はかなり早い時期に打ち切られることがほぼ決定的になってしまっていた。局の編成部に赴こうものなら、お偉いさんらしい人が、
 「ハヤクヤメサセロッ、アンナモノ!」
 と、大声で怒鳴っており、それに対してこちらの本来の打ち合わせ相手である局側の番組担当者(なかなかキレものだった)が、自分のデスクから、
 「もう少しだけ待ってくださいよ! こっちも絡んで始めちゃったことなんですから!」
 と、弁明する声が飛んで戻っていた。
 こっちが座って打ち合わせを待つ応接テーブルはなぜかお偉いさんのデスクの真ん前にあったので、この応酬の声は自分の頭越しに飛び交っていたのだった。暗澹とするしかない。

 まあよい。この上さらに色々積み重ねて語ったところで何にもならないし、自分も書き連ねたくはない。ただ、打ち切りになることを現場スタッフに話さないように、と厳命されてしまったのは大きな痛手となった。話せなければ、孤立してしまうだけだし、逃げ場も失う。
 あれほどはっきり「病院に行ったほうがよい」と勧められたことも自分としてほかにない。毎深夜、自分で運転して帰宅する車で、リアウィンドウにぺたんとついた娘の手形がバックミラー越しに見えた。それが自分を最後まで支えていたものだったように思う。

 のちのちの再放映のために一定本数は確保したい、という声と、一刻も早く打ち切らせたいという強硬な声がぶつかりあって、放映本数は25本、さらに2クールちょうどに本数を揃えるためにもう1話余計に作る、という方針が出され、そのとおりになって、夏には作業が終了した。いずれにせよ、この辺が限界だった。
 ほかの何ごとよりも気がかりだったのは、登場人物たちを見捨て、投げ出してしまうことにならないか、ということだった。だが、ジョンやコリンやサンディやプリシラには、最後にでんぐり返りをさせることで、子どもらしい彼らをまっとうさせてやることがかろうじてできたのではないかと思う。自分がどんなにひどい状況になろうとも、彼らを活き活き描くことだけは通し抜きたかった。

 全部終えて、久しぶりにマッドハウスに顔を出した。
 丸山正雄さんに、
 「仕事ください」
 といったら、
 「あれ? なんで今頃ここにいるの?」
 と、不思議がられた。
 打ち切りになっちゃいまして、と正直なところを話すと、
 「あれ? だって、ずいぶん評判いいって聞いてたのになあ」
 と、いうのだ。
 そうか、こちらの方面での評判はよかったのか。
 小黒祐一郎というライターの人が訪ねてきて、『名犬ラッシー』に注目していた、と、インタビューを受けたりもした。これが、15年後の今日、このコラムに連載を持つところにまでつながる。
 もし味方がいてくれるのなら、それはもっと早くにこちらから動いてでも見つけるべきだったのだろう。こうした経験が、のちの『マイマイ新子と千年の魔法』で意味を持ち、世の中が振り向いてくれるまで貫き通そうという虚仮の一念の根拠になってゆくのだが、この時点ではまだ、13年後にそんなことになろうなどとは予想もできずにいる。

第95回へつづく

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(11.09.05)