第101回 姫君の髪型
中学生だった頃、新聞の日曜版で不思議な絵を見た。「遠雷」と題されていた。木陰でひとりの女性が、顔に帽子を被せて昼寝している。今から思うとブルーベリーなのだが、ぶどうみたいな青黒い小さな粒々の実がはいった箱、双眼鏡が近くに置かれていて、少し離れて犬が寝そべり、眠そうな目をしている。空は一面ほとんど白い光の色で塗りつぶされていて、遠い草の上には日差しがあり、どこにも遠雷の気配が感じられない。女性は完全に眠り込んでいて、もし、遠くの空に何かの気配を感じている者があるとすれば、それは画面の中の犬なのかもしれない。犬の目は眠そうにしばたかれているが、何かを感じて顔を起したところのようにも見える。それは犬にしか聞こえない何かなのかもしれない。絵は、人の絵でここまで描き込めるのだろうか、という緻密さで草の1本1本が描かれており、したがって、遠方までピントが合っていて空気の透明を感じさせている。この驚異的な緻密表現が産み出す質感、空気感も魅力的だった。画家の名前はアンドリュー・ワイエス。
中学生男子としては殊勝なことに、母親が竹橋までアンドリュー・ワイエスの画展を見に行くというので、お供することにした。それまでは絵画になんか興味を持つことなく過ごしてきていた自分だったので、わざわざ絵を見るために出かけるという自分の行動が我ながら意外だったのだが、それだけに、スポンジが水を吸うみたいに、壁に展示されていた絵のいくつもに吸引されてしまったようだった。今、そのときの図録を横に広げているのだが、この絵にはこう感じた、という逐一が思い出されるような気がする。
あちこちの絵に登場するブリキのバケツの質感表現ひとつとっても、ほとんど「焼きついた」といってもよいほどだった。それにしても、この画家はなんでこう「木目」「日あたり」「ブリキ」「水」みたいなものを絵の中核に置くのだろう。その不思議さが充満していた。
そして、それを筆と絵の具で描き出すことができる、人の手に秘められた可能性にも感じ入ってしまった。もちろん、自分にはそんな能力はないのだけれど。
この画家がこんな目でアメリカ東部に存在する世界の小さな片隅のディテールを捉え、こんな緻密な筆致を武器にするようになったのは、イラストレーターだった父親ゆずり、というような話も読み知った。
そのアンドリュー・ワイエスの父、N・C・ワイエスの絵に出会ったのは、「大砲の街」を作っていた頃だった。この仕事では大友克洋さんや小原秀一さん、美術の人たちが絵画の話をする中で聞き耳を立てているのが楽しかった、というような話は前にも書いたのだが、あるときみんなで晩飯を食いに出た吉祥寺の街で、どこか開いている店を借りてだか、画集が並べ売られているのに出くわした。そこにN・C・ワイエスの画集もあった。雲より高くそびえ、もはや空気遠近法で青く霞んでいる巨人を、浜辺の子どもたちが見上げている。そんな絵が表紙になっていた。中学生の頃には言葉の意味を捉えきれていなかったのだが、N・C・ワイエスの職業を「イラストレーター」と翻訳するのは今風に過ぎ、彼は挿絵画家だったのだった。
父ワイエスの画集には「物語」がふんだんに詰まっていた。西部劇の挿絵。「宝島」「ロビンフッド」「アーサー王」「ロビンソン・クルーソー」「子鹿物語」「ハイジ」「親指姫」。息子ワイエスよりもずっと鮮やかな色彩で、同じように細部にこだわった緻密さで。こういう挿絵の入った本を子どもの頃に持っていたら楽しかっただろうな、さらに空想が膨らんでいたろうな、と思った。
その画集の存在を『アリーテ姫』の準備室で思い出した。ちょっとでかい本だけど、明日持ってきますから、と森川さんにいった。
中世のお姫様の髪型なんて、我々の想像だけでは限界がある。「スター・ウォーズ」のレイア姫の髪型などもヨーロッパ中世の女性のヘアスタイルを取り入れたものだが、何かそんなふうに自分らが想像し得る「おひめさま」とはちょっと違った、特徴的な外観にアリーテをしてみたい。
このN・C・ワイエスが描く「ロビン・フッド」のマリアンの髪型なんていいのではないか、宝冠みたいなのじゃなくてシンプルな金の輪(帯?)を頭に巻いているところも。
森川さんは意図を察してくれ、それがそのままアリーテ姫のデザインになった。
その数ページ手前にある邪悪な顔をした占星術師の絵は、ほぼそのまんま魔法使いボックスのものとなった。この絵の占星術師が被っている先のとんがった帽子はちょっと図式的な「中世」のイメージで、それはさすがに止めようとは思ったのだが。
何より、ワイエス父子のことを思い出したことで、「人の手に秘められた可能性」というような思いが蘇ってきて、それがそのままアリーテ自身の言葉となった。この時期、キャラクター造形の模索をする森川さんの横で、自分は脚本で考え込みまくっていた。
それから、ひとつ課題が生まれた。アリーテが冠の変わりに金の輪を嵌めているのは、気に入った。だが、それは果たして「金」に見えるのだろうか。我々のセルアニメの画法で、「金色」を表現できるのだろうか。脚本とか、ストーリーの運びとか、そこで繰り広げられるテーマに頭を悩ませるなかで、こうした逃げ道的なことは楽しい。
この作品では「金の質感」をどう表現してみようか。
そういうところに挑んでみたくなった。
第102回へつづく
●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
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(11.10.31)