第4回 1966年(昭和41年)少女向けアニメほか多彩なジャンルが登場
1966年は、少女向けアニメの原点『魔法使い サリー』が放映開始された年である。
原作は、横山光輝が集英社「りぼん」に発表した少女マンガ。連載開始とほぼ同時に東映動画がアニメ化を打診し、製作が始まった。その背景には、2月よりTBS系で放送中のアメリカ製ドラマ『奥さまは魔女』の大ヒットがあった。また同時期、虫プロで手塚治虫が同じく少女マンガ『リボンの騎士』のアニメ化を進めていたことも刺激となった。東映動画としては、それまで未開拓だった“女児向け”アニメの分野にいち早く参入したいという野心があったのだ。同作は、魔法の国のお姫様が人間社会に紛れ込むという設定を用いた“魔女っ子もの”の元祖ともなり、最終的に2年強にわたるロングラン放映を記録することとなった。
4年目を迎えたTVアニメは、他にもジャンルの広がりを示す作品の登場が相次いだ。ちばてつや原作初のアニメ化であり、“学園もの”の嚆矢といえる『ハリスの旋風』もそのひとつだ。製作はピープロ。本作は同時に、主人公・石田国松が多彩な部活に挑戦する“スポーツもの”の草分けでもあった。赤塚不二夫原作の『おそ松くん』はギャグアニメ第1号といえる存在。製作はチルドレンズコーナー。前年の『オバケのQ太郎』とともに“日本の日常を舞台にしたコメディ”の雛形を作り、15分2本立てという放映形態を定着させた点でも重要である。
一方、東映動画の『レインボー戦隊 ロビン』、TCJの『遊星仮面』という2本のSFアニメについても触れておきたい。2大惑星間における戦争、引き裂かれる家族、両国の混血である主人公が和平を願って戦う……という物語は、ベトナム北爆や冷戦激化といった世界情勢を明確に意識したものであり、子供たちへ強烈な記憶とメッセージを残すに十分だった。それは、約10年後にアニメブームを生むひとつの熱源ともなったのである。
同年は“怪獣ブーム”元年でもある。円谷プロ製作の「ウルトラQ」は、1月にTBSで放送が開始されるや、裏番組だった『W3』を窮地に追い込むほどの視聴率で大人気となった。以来約3年にわたり、TVアニメは“特撮怪獣番組”という強力なライバルを相手にしていくことになる。そんななか、12月31日、4年の長きにわたった『鉄腕アトム』の放映が終了。TVアニメ黎明期の“区切り”を示すような象徴的な出来事だった。
データ原口のサブコラム
TVアニメ黎明期には、それぞれの製作会社が作るアニメ作品と、放映されるTV局との関係が今よりもはっきりしていた。
例えば、虫プロ、ピープロ、竜の子プロならフジテレビ、東京ムービーならTBS、東映動画ならNET(現・テレビ朝日)といった具合である。概ね、第1作をオンエアした放映局が基準になり、第2作以降も同じ局が放映するという慣例が生まれたようだ。TV局側にとっても、実績のある製作会社を常に確保し、その作品を優先的に買いつけることで路線の安定化を図りたかったと思われる。
第1作の放映局が決まったいきさつには、製作会社の設立経緯が関係している場合もある。東映動画の第1作『狼少年 ケン』がNET(現・テレビ朝日)系で放映されたのは、親会社である東映が、同局の株主であったことと関係している。東京ムービーは前述のとおり、TBSの要請により設立された会社であるため、第1作『ビッグX』は最初からTBS系での放映が決定していた。また、65年に『怪盗プライド』『ドルフィン王子』を製作したテレビ動画も、フジテレビ系列の会社である(CM製作会社・東京光映と、フジテレビの関連会社・共同テレビとが出資して63年に設立)。
例外として面白いのは、TCJ映画部である。同社の作品はフジテレビ系、TBS系の2系統があり、当時としては珍しく2局を相手に取引をしていたことになる。大別すると、広告代理店・電通の持ち枠だった作品(『鉄人28号』『遊星少年 パピィ』『遊星仮面』)がフジテレビ系、旭通信社の持ち枠だった作品、あるいはTBSが企画を主導した作品(『エイトマン』『スーパージェッター』『宇宙少年 ソラン』『冒険カボテン島』)がTBS系という区分けになる。
さて、TVアニメ進出が極端に遅い東京12チャンネル(現・テレビ東京)(74年の『ダメおやじ』)を除けば、在京民放VHF局のなかで最も後発となったのは日本テレビである。第1作『戦え! オスパー』の放映は1965年12月であり、他局に比べて2年も遅れている。しかも、製作したのは既存の6社ではなく、日本放送映画(日放映)という新興会社(ピンク映画の製作で知られる国映が出資して設立)だった。
日本テレビがTV参入に遅れをとった理由として、従来は以下のような通説があった。
1)もともと同局の編成がプロ野球やプロレスなどの中継番組、バラエティショーなどのスタジオ番組に主力を置き、ドラマやアニメ作品に積極的ではなかった。2)当時の日本テレビはアメリカの人気番組『ディズニーランド』(1958〜72)、『ミッキーマウス・クラブ』(1959〜68)を放映中であり、その安定した人気ゆえに、国産のTVアニメ製作をそれほど急務とは考えなかった。3)日本テレビが参入をためらっているうちに、他局と製作会社との占有関係はすっかり確立され、同局が既存の製作会社と取引をする隙間がなくなってしまった。そのため、まったく新しい会社を探すしか方法がなかった。
だが、日放映の社長だった矢元照雄は近年になり、映画雑誌のインタビューに答え、日本テレビにアニメ製作を打診されてから放映開始までの準備に2年の歳月を要したと回想している。その点から類推すると、日本テレビがTVアニメ参入を考えた時期は早くて64年初頭。スタートはそれほど遅くなかったことになる。一方、『オスパー』のメインスタッフに『ビッグX』の制作メンバーが参加していることから、制作作業が具体化したのはもっと遅く、65年に入ってからではないかとも思われる。いずれにしてもこのタイムラグが、日本テレビと大手6社との取引開始を遅らせた、ということはいえるだろう。
なお、こういった製作会社とTV局との関係が守られていたのは最初の5年間であり、その後は徐々に解消され、各社はTV局の垣根を越えてお互いに取引を始めるようになる。東映動画では『ゲゲゲの鬼太郎』がフジテレビ系で、東京ムービーでは『巨人の星』が読売テレヒ系で放映されるのが転換点で、両者はともに68年である。その背景には、各製作会社のおかれていた経営事情、“怪獣ブーム”によるTVアニメ企画成立への影響、在阪のTV局(毎日放送、読売テレビ、朝日放送など)の営業力拡大など、さまざまな要因が絡み合っていると思われる。
第5回へつづく
(12.06.25)