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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第108回 『(超)くせになりそう』とは……

 『(超)くせになりそう』がどんなアニメか説明するのは、シナリオを書いた脚本家の僕ですら難しい作品だ。
 むしろ、このアニメを見た人達にどんなアニメだったか感想を聞きたいぐらいである。
 最初の1話と2話だけは、設定を説明するために原作をなぞっているが、あとは面白くするためのアイデアを放り込んでいくたびに、どんどん原作から離れていった。
 衛星放送というワクで放送されただけに、このアニメを見た人もそう多くなく、限られた人からバイオレンス版『アイドル天使 ようこそようこ』とか、ハチャメチャ『ミンキーモモ』とか呼ばれたが、書き手の僕としては、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』も『アイドル天使 ようこそようこ』もさして意識していない。
 意識したとしたら、今まで僕がTVアニメでやらなかった実験を、できる事ならやってみようという事だった。
 魔法もなければファンタジーもない、むしろ『ミンキーモモ』や『ようこそようこ』の内容にはマッチしないナンセンスラブコメディを目指した。
 『ミンキーモモ』や『ようこそようこ』では、とうていできないタイプのギャグをちりばめたナンセンスバラエティアニメを目指したのだ。
 この作品自体を見た方が少ないだろうから、あってなきがごとき各話のストーリーとそれにまつわるエピソードをここに書いても、ちんぷんかんぷんになるだろうと思うし、僕自身も、それぞれの各話がどんな目的で作られたかを説明するのは、今となってはあまり意味のない気がする。
 『(超)くせになりそう』がどんなアニメか、インターネットのフリー百科事典のウィキペディアに、かなり的確な説明が載っていた。
 そこから、部分を引用させていただくと。
 ――テレビアニメは原作の設定……を使用しただけでストーリーは完全オリジナルである(引用者注:最初から完全なオリジナルにする気はなかった。結果的にそうなってしまったのである)。メインライターの首藤剛志がアニメ『アイドル天使ようこそようこ』で描いた舞台を意識した構成やアイドルの意味を、悪趣味寸前の暴走したギャグや様々なパロディを織り交ぜながら、さらに突き詰めて展開した(引用者注:これはそのとおりである)。……原作の設定を含めたTVシリーズ全体を丸ごと舞台と捉える大胆な構成を取り、主な登場人物が現実世界で与えられた「役」に関して座談会形式で語る最終回も異色で、主人公の内面世界の完結をテレビアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』よりも先に、より作品と整合性を持たせた形で描ききった点に特徴がある(引用者注:『(超)くせになりそう』の最終回については、最初から考えていた。『エヴァンゲリオン』の最終回は見ていないが、最終回の形式が似ているのは、たまたま『(超)くせになりそう』の最終回の脚本を書いた時期と放映時期が先になっただけで、『エヴァンゲリオン』のスタッフが、衛星放送のハチャメチャラブコメディを見ていたとも思えず、単なる偶然で似てしまったものだと思う)――
 フリー百科のウィキペディアの解説は、『(超)くせになりそう』の特徴をよく捉えたもので、僕などは自分で脚本を書いていながら、「そうそう、僕がやりたかったのはそういう事なんだ」と、あらためて頷いたりした。
 本編を丸ごと舞台劇のように考え、それぞれの役に扮する別の人格がいるという構成は、演劇の世界ではたまにある作劇だが、TVの、それもアニメシリーズでは、それまでになかった構造だと思う。
 あえて似ているというと、僕自身がシリーズ構成した『さすがの猿飛』で、月1回、4回に1回ほどのペースで、著名な他の作品のパロディをやる番外編では、登場人物が本来の役とは別の役を演じる、という事をやっていたが、それは、『さすがの猿飛』一座の番外芝居といった性格で、『(超)くせになりそう』ほど、アニメにおいて現実社会に見えるシリーズ丸ごとが実は作られた架空のドラマ、という構造ではなかった。
 『(超)くせになりそう』の最終回では、この作品に対する反省会に、アニメ版の登場人物を演じたキャラクター、コミック版の登場人物、予告を読む登場人物さえ現れて、『(超)くせになりそう』について語る。
 たあいのない事を言っているのだが、僕としては、演劇、映画、ニュースを含めてTVやラジオで放送されているドラマ、バラエティ、そしてアニメとはどういうものかを、自分なりに検証するために書いたのが、この最終回だったのである。
 その最終回が唐突で不自然に見えないように、そこにいたるまでの『(超)くせになりそう』の各話のエピソードを、ナンセンスで奇妙キテレツなギャグバラエティラブコメディにし、時によっては、ミュージカルな処理をしたエピソードも用意した。
 普通のアニメシリーズなら、いきなり『(超)くせになりそう』の最終回を出すとなれば、スタッフからの苦情や疑問が、雨のように降り注いだかもしれないが、いつもがハチャメチャなナンセンスコメディだっただけに、この最終回は、ほとんどなんの抵抗もなく受け入れられた。
 この作品、元々は白鳥なぎさという男装のアイドルと、彼女をライバル視するモモコ・プリシラを中心に展開する大筋があったが、そのモモコは『(超)くせになりそう』の前半、各話のストーリーにかかわりなく、唐突に意味もなく登場して演技の練習と称して、様々な役に変身してパフォーマンスを繰り広げ、登場するワンシーンだけ主役になり、画面から消える時は意味もなく退場する。
 ご存知の方がいるかも知れないが、昔、クレージーキャッツの植木等氏がやったギャグ――登場する意味のないところに出てきて、「お呼びでない。こりゃまた失礼しました」と言って消えていき、みんなをずっこけさせるギャグ――と似たようなものである。
 当初、モモコの声を、ミンキーモモの声をやっていただいた林原めぐみさんにしようという予定があり、結果的には林原さんの他の番組とのスケジュールの関係で不可能になったが、もしそれが実現したら、『(超)くせになりそう』のモモコの役を、ミンキーモモがやり、さらにその声を林原さんがやり、それが全部登場するだろう最終回は、もっと複雑な構成になったと思う。
 そんな難しいモモコの役だったが、『(超)くせになりそう』のモモコの声をやってくださった本多知恵子さんは、予告も含めてよくやってくださったと思う。
 『(超)くせになりそう』の後半の主役は、白鳥なぎさという本来の主役から、むしろモモコが主役のような展開になっていったから、なおさら大変だったのではないか。
 『(超)くせになりそう』で、なによりうれしかったのは、この摩訶不思議なアニメシリーズを監督のえんどうてつや氏が乗り乗りで楽しんでやってくれた事だ。
 もちろん『(超)くせになりそう』は、僕だけの作品ではなく、えんどうてつや監督作品である。
 制作状況の困難さは予想されたものの、挿入歌の作詞までして、シリーズ構成のあずかり知らぬところで、八面六臂の活躍をしていたようだ。
 今でも『(超)くせになりそう』の事を楽しい作品だったと言ってくれていたのが、僕にはうれしくてたまらない。
 作詞といえば、挿入歌のほとんどを脚本家達が作詞した。
 『(超)くせになりそう』は、『アイドル天使 ようこそようこ』と違った意味で、ミュージカルもどきを目指したところもあったからだ。
 坂本洋氏ほか音楽も含め、なにが出てくるか分からない『(超)くせになりそう』に対応してくれた他のスタッフの方達にも、今は感謝の気持ちしかない。
 『(超)くせになりそう』は奇妙な作品ではあるが、あくまで青少年や子供を対象にしたアニメである。
 本来ならば、ナンセンスでアバンギャルド、アブストラクト、シュールなどという言葉があてはまる作品かもしれないが、子供に分かりにくいアニメにする事だけは避ける事に注意し、それはなんとか成功し、ナンセンスだが分かりやすいラブコメディにはなっていると思う。
 なにぶんにも、視聴者が少ない作品だから他人の評価は知らないが、僕個人としては今でも、録画したビデオを見ると、「かなり、面白い」と恥ずかしながら自画自賛したくなる作品である。
 そして当時は、『ミンキーモモ』などのストーリーとしてのやり残したアニメはあるものの、アニメという媒体でやりたい実験はほぼやり終えたという満足感のある作品だった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 脚本業がどんなに楽しい仕事であろうと、お金にならなければ無職とおなじである。
 特に、50代を過ぎると、よほどの大御所でない限り、アニメの脚本の仕事は少なくなる。
 プロデューサー他の制作するスタッフが若くなり、歳上に頼みづらくなる上に、感覚も違っているからである。
 今のプロデューサーは、ほとんど『宇宙戦艦ヤマト』や『ガンダム』で子供の頃を過ごした人達である。
 若い人では、ゲーム世代の人もいる。
 話も通じない事が多い。
 こちらが過去の名作映画の話をしても、題名は知っている人も少しはいるが、実際に観た人はほとんどいない。
 過去の名作を観る事は、脚本が読めるプロデューサーになる条件のようなものと僕が若い頃は言われていたが、今のプロデューサーは、あふれかえるアニメやゲームをチェックするのに精いっぱいで、生まれる前の名作にまでは手が届かないようである。
 さらに、アニメのマルチメディア化が彼らの忙しさに拍車をかけ、過去のものはほとんど忘れられかけている。
 これでは、50代を過ぎたアニメ脚本家には出番などないように見える。
 だが、僕はそれほど悲観的ではない。
 元々、脚本家などという仕事は無職と同じと割り切っている事もあるが、もうすぐ団塊の世代が定年を迎える事に期待している面もある。
 少子化が進んでいる今、純粋に子供向けのアニメ作品は、需要が少なくなってきているはずである。
 多くのアニメが、DVDなどを買えるお金をもった若者を相手に作られている。
 だが、今、そこに見えざる消費者が姿を現そうとしている。
 第1次ベビーブームのいわゆる団塊の世代である。
 そこに、お金を持っている団塊の世代が、時間を持て余して流れ込んでくるのである。
 団塊の世代は、活字ばかりを読んでいたおじいさんではない。
 子供のころ、アニメでは『鉄腕アトム』があり、コミックでは週刊コミック雑誌で育った人達である。
 新しいゲームには対応できないかも知れないが、コミックやアニメには充分慣れている。
 だが、今のアニメの多くは、団塊の世代には青臭すぎる。
 もっと、大人向きのアニメが必要とされるだろう。
 そうなった時、団塊の世代の感覚を持ったアニメが必要とされるだろう。
 そんなアニメの脚本を書けるのは、同世代の空気を知っている、もしくは幼くとも同時代を生きた脚本家だろう。
 若い脚本家は、バブルは知っていても日本の経済成長の時代は知らないだろう。
 70年安保の戦争革命ごっこ(?)も知らないだろう。
 渋谷センター街の奇妙なファッションやアキバは知っていても、原宿族や新宿の飲み屋街の風俗は知らないだろう。
 需要があれば、団塊の世代を対象にしたアニメも必要になる。
 時間を持て余した団塊の世代から、定年前にはできなかった創作活動に身を入れる人も出てくるだろう。
 若い脚本家やプロデューサーは、それに対応できるだろうか。
 もうすぐそこに、50代の脚本家を必要としている時代を予感している僕は、楽観的なのだろうか。いずれにしろ結果が出るのはそう遠い事ではない。
 もっとも、脚本を書く事を、楽しい無職と考えている僕には、そんな時代には期待こそするが、どうでもいいといえば、どうでもいい事なのであるが……。

   つづく
 


■第109回へ続く

(07.07.25)

 
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