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第118回 『機動戦艦ナデシコ』お葬式がルリ3部作の1作目
『機動戦艦ナデシコ』のお葬式のエピソードで描かれるキャラクターの候補はいろいろ考えたが、描きたい候補があまりに多く、結局、主人公のユリカとアキト、そして、それを取り巻く若干の人々に絞る事にした。
あまりに多くの戦死者の葬式を取り仕切らなければならないナデシコの艦長ユリカは、それぞれの戦死者の宗教、宗派、風習の違いに、てんてこ舞いしなくてはならない。
そこらは、軽くコミカルに描く事に気をつけた。
それぞれの葬式の宗教、宗派、風習にリアルさが少しでも入り込むと、たとえアニメでも難しい問題が出てくる事が予想されるからだ。
真面目な人から、特定の宗教、宗派、風習を茶化しているというクレームが出てくるかもしれない。
だから、宗教や風習とは関係ない戦死者の個人的な要望も加えて、よりリアルさが薄まるようにした。
「俺が死んだら葬式なんかいらねえ! 焼いた灰を海に流してくれ……」
「私、死んだらお星さまになりたい……」
などという類である。
宗教の自由を認める民間の戦艦であるナデシコは、それぞれの乗員の望む葬儀をできるだけかなえる契約書を交わしている事にした。
契約書については、このエピソードの終盤に、もう一度、問題になって出てくる。
初期設定が満載の『機動戦艦ナデシコ』だったが、宗教やら冠婚葬祭の方法までは設定されていなかったから、僕が作った設定という事になるが、メインのスタッフからは、あまりに呆れたのか、苦情は出なかった。
ともかく、ナデシコの艦長ユリカは、様々なお葬式に大忙しでへとへとになってしまう。
だが、どんな宗教、宗派、風習の葬儀も、かなりいい加減ではあるが適当に仕切ってしまうユリカは、基本的には無宗教な人間という事になる。
つまり、お寺に行けば仏様も拝むし、神社に行けば神様も拝む、キリスト系の教会に行けば、思わずアーメンなんて唱えてしまう。宗教、宗派、風習に対して、極めてお気楽な……要するに、ごく普通の日本人的な宗教観の人間なのである。
そこらは、このエピソードの表面上にははっきり出てこないが、僕はかなり意識していた。
このエピソード、考えてみれば、神様仏様なんでもあっていいと思っている……逆を言えばかなり無宗教な僕だから書けた脚本だという気もする。
ただし、余談だが、色々な宗教の用語や哲学や終末思想がごちゃまぜになっている新興宗教やアニメが流行るのはいかがなものかと首をかしげてもいる。
それぞれが一応それなりに系統づいてもらわないと、混乱してわけが分からなくなる。
それでもそれが流行るのが、このところの時代のムードだと言われれば、返す言葉はないのだが……。
ま、お葬式の様式はなんであれ、僕もこの歳になると、数え切れないほどのお葬式に出席してきた。
肉親やかなり親しい知人の葬儀の場合、激しい悲しみや喪失感に襲われるが、それだけでない時も多い。
僕だけかもしれないが、葬儀に参列しながら、「自分は何で生きているのか?」「自分は何のために生まれて、今まで生きてきたのか?」「自分はこの世に生きている必要があるのか?」まで、考えてしまう。
子供や青年の時ならともかく、いい歳のおじさんになっても、考え込んでしまうのだ。
いわゆる「自分探し」というやつである。
もちろん、家に帰れば、日常の些事に気を取られ、そんな事は忘れてしまうのだが……。
葬儀というのは、参列者に「自分探し」の気持ちを一瞬でも思い出させる儀式だという気がするのは僕だけだろうか?
もし、葬儀が「自分探し」の場になりうるとすれば、『機動戦艦ナデシコ』で、嫌というほど葬儀に翻弄された艦長ユリカに、「私って何?」という気持ちが生まれても不思議はないはずである。
「戦艦ナデシコの艦長である私って何?」「私が艦長をやっている必要があるの?」「そもそも艦長って何?」
ユリカの「自分探し」は、そこで壁に突き当たる。
戦艦ナデシコの時代……つまり22世紀は、戦闘がメカニックでシステム化され、わずか1艦の船長の決断に戦闘の優劣を決めるほどの力はない。艦長は、戦艦のシンボルになるような飾りであればよい。作戦能力とか決断とか……本質的な意味の艦長は必要としない時代……早い話が誰だってよかったのだ。
「艦長は、私でなくても、誰がやってもよかったんだ……」
ユリカは、自己喪失して、瞑想ルームに籠ってしまう。
「我とはなんぞや?」の悟りを開きたいためである。
一方、戦闘機エステバリスのパイロット、アキトも、葬式が終った後の宴会料理の出来にこだわる料理長のホウメイという女性から、葬式料理を通して料理人の心意気を知らされ、「自分探し」におちいってしまう。
アキトは料理人志望だが、パイロットとして戦艦ナデシコに乗っていたのだ。
「俺は料理人になりたいのに、なぜ、戦わなければならないのか……」
アキトもまた、「我とはなんぞや」の悟りを開きたいため、瞑想ルームに籠る。
ここでは、料理人ホウメイの人間性がかなり描かれるが、このキャラクターは初期設定からあった人物だが、『機動戦艦ナデシコ』全26話では、あまり他で登場する機会がないだろうと思ってピックアップした。
シリーズ全体から予想したのだが、葬式つながりでホウメイの出番が作れてよかったと思っている。
さて、瞑想ルームに籠って座禅をするユリカだが、「我とは何か?」の悟りを開くどころか、現実は、片思いに近いアキトへの思慕が頭から離れない。
悟りどころか、煩悩で心ははち切れんばかりである。
葬儀からはじまって、「自分探し」になり、悟りを開くための瞑想から煩悩に至る、ユリカという人間の天然(?)ぶりをかなり追いかける事ができたと思う。
そして、ユリカが、ふと隣を見れば、アキトも瞑想中……。ユリカは、アキトがユリカに対する煩悩で瞑想している、と自分勝手に勘違いして「(それは煩悩なんかじゃない)優れて正しい愛の姿だわ!」と叫んでしまう。
ユリカの声、桑島法子さんが、聞いていて楽しい。
葬式が、ドタバタ恋愛ドラマに変りそうになる寸前、再び、葬式関連の話に戻る。
葬式の自由を認めた契約書を、今回の葬式騒ぎをきっかけによく読むと、小さい文字で、社員間男女交際はあえて禁止しませんが、手を繋ぐ以上の不純異性行為は禁止すると書かれていたのである。
つまり、大人の恋愛はご法度という事である。
余談だが、保険などの契約書はよく読んで契約すべきである。
契約者にとって不利な事は、小さく書かれている事が多い。
勧誘員も都合の悪い説明はしない場合がほとんどである。
僕の場合は、セールスの時、あえて契約者に不利な部分を説明してから契約してもらった。
「契約したからといって、いい事ばかりではありません」
が、僕流のセールストークだった。
セールス上都合の悪い部分を説明したほうが相手にかえって信用されるし、「話が違うじゃないか」という解約も少なくなる。
僕がとった冠婚葬祭互助会の契約で、年に600件中解約は3件である。
業界では極端に少ない解約率のはずである。
だが、戦艦ナデシコの勧誘員(?)は、契約者に不都合な部分はよく説明しなかったらしく、戦艦ナデシコでは、「こんな契約書が認められるか!」と、反乱騒ぎになる。
が、その時は、すでにナデシコは火星領域に突入……。敵の攻撃が始まる。
ユリカは乗員に叫ぶ。「契約にはご不満もおありでしょうが、戦いに勝たなければ、またお葬式をやらなければなりません。同じ冠婚葬祭なら、お葬式より結婚式をしたい〜!」
ここで、第5話「ルリちゃん『航海日誌』」は終わる。
つまり、シリーズ全体の大きなストーリー上では何も起こらず、人間関係も変えず、6話以降に続けるエピソードがなんとかできたわけである。
ところで、このエピソードの主人公は誰かというと、ユリカでもアキトでもなく、葬式から続くドタバタ騒ぎを冷静に見ながら、たまにつっこみをいれていたルリという事になってしまった。
ラストに、ルリが「大人になりたくない……今日……そんな事を感じました」などという5話のエピソード全体をしめる台詞を言ってしまったからだ。
じゃあ、そういうルリは、どんな少女なのか……当然、そんな疑問が湧く。
どんな少女なのか、結局、このシリーズでルリが主役のエピソードは、僕が書く事になった。
第5話「ルリちゃん『航海日誌』」は『機動戦艦ナデシコ』のルリ3部作の1作目という事になった。もっともルリ3部作とは、ストーリーエディター(シリーズ構成)の會川昇氏が予告の中で書いた言葉であり、後に會川昇氏からは「ルリに関しては首藤さんに養子に出しますからよろしく」と言われた。
『機動戦艦ナデシコ』で僕が書いた脚本は3本だから、結局、『機動戦艦ナデシコ』における首藤剛志の書いた脚本はルリ3部作という事になってしまったのである。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
前回、子供が1日に1時間も2時間もアニメを見るのはよい事だとは思えないと書いた。
その気持ちは変わらないのだが、僕の書いた脚本のアニメに限っては、勝手な言い草かもしれないがCMを抜いて24分ぐらい、集中して見てもらいたいと思う。
矛盾しているようだが、僕だけでなく誰でも、自分の書いた脚本ぐらいは、TVに集中させるように書くべきである。
子供の視界を考えれば14インチか大きくても20インチで、少し画面から離れて見てもらいたいが、相手が子供だからといって、迎合して余計な説明台詞を書く必要はない。
やむなく説明台詞が必要な場合もあるだろうが、最小限にとどめるべきだと思う。
早い話が、説明台詞が必要なシーンは書かないほうがいい。
台詞で説明しなくても、見る者の想像力で分かる脚本を書くべきである。
僕は自分が思いついた台詞をそのまま書いているし、ストーリーも内容も、子供を意識して書いてはいない。
書きたいように脚本を書いて、それで充分子供にも大人にも満足できるものができる、と僕は思っている。
もちろん、愛欲描写や暴力描写や、聞くに堪えない台詞はできるだけ書かない。
例えば、僕にとってアニメやドラマで一般的に使われていて聞くに堪えない台詞に、「くそっ!」というのがある。
この言葉、いつの間にか日常化されて、現実に子供たちどころか大人まで使うようになり、聞くたびにぞっとする。
だから脚本には書かないし、アフレコで、声優さんがアドリブで「くそっ!」という言葉を入れてしまった時は、別の言葉に変えてもらう。
こだわりすぎと言われる事もあるが、僕の脚本の作品で「くそっ!」という言葉は、余程の事がない限り、出てほしくない。
僕の辞書にない言葉である。
いずれにしろ、アニメであろうと実写であろうと、今はかなりひどくなっているにしろ、TVで放映できないような内容は、常識的に分かるはずである。
それでも、そんな内容のものを作ろうとすれば、それは脚本家だけでなく、制作するスタッフが非常識なだけである。
その種のものは、見る人を限る事のできる映画やOVAですればいいのである。
アニメは、動画と音と音楽と台詞の総合で表現されるものだ。
わざわざ説明台詞で解説しなくても、分かる脚本を書くようにしよう。
たかだか、24分ほどの時間を、説明台詞を多用しなければ描けない作品は、脚本の出来が悪いと言って過言ではないと思う。
説明台詞は書かない事を前提にして、それでも、ケースバイケースで説明台詞が必要な時もある。
それは主に、視聴者に対してではなく、作品制作上の事情である。
その事については次回に書くとして、TVの場合、24分といっても、嫌でも真ん中にCMが入り、十二分ほどで中断される。
自責を込めて言うが、わずか12分間、視聴者を集中させられない脚本を書く人は、まともな脚本家とは言えない気がする。
つづく
■第119回へ続く
(07.10.03)
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