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第122回 『機動戦艦ナデシコ』18話 ルリ全開準備
『機動戦艦ナデシコ』のルリ3部作の最後は18話「水の音は『私』の音」だった。
18話の打ち合わせでは、ルリが遺伝子操作をされた子で、その生い立ちのようなものを書いてくれ……。内容は僕に任すとだけ言われた。
打ち合わせの帰りの電車の中で考えたのだが、遺伝子操作というのが、どうしてもひっかかった。
医療の世界では、遺伝子操作を利用した治療も現実化しているようだが、ルリの場合は違う。
機械を操作する能力を高めるために遺伝子操作されて産まれてきた子ということだ。
なんとなく人造人間的な感じがする。
僕はルリの孤独を、人間の感情として描きたかった。
そこで遺伝子操作という設定を人間の記憶力を高める程度に薄くし、試験管ベビーを強調するようにした。
これならば、人間の精子と卵子によって産まれた普通の子になる。
子宝に恵まれないある王国の跡継ぎの試験管ベビーを保管していた医療機関がテロに襲われ、ルリの試験管が行方不明になる。
ルリは、3歳以前の記憶がはっきりしない。
両親もいたし英才教育を受けた覚えがあるのだが、断片的ではっきりしない。
ルリは出生の謎を知ろうとするが、コンピュータ「オモイカネ」の中にも記録がない。
ただ、ルリの記憶の奥底になつかしい水の音がする。
18話の概要は1日でできあがった。
僕は小学生になる前……幼稚園の時と言えないのは北海道の札幌に行く前、東京にいた時に幼稚園を退学になり、その後、父の転勤で行った北海道では幼稚園に通っていなかったからだ。
この幼稚園退学の話はかなり面白いのだが、長くなるのでここでは止めにしておく。
ともかく、5歳ぐらいの頃である。
父が、鮭の群れが産卵のために遡上する様子を見せに連れていってくれた。
そこは支笏湖に近い石狩川の支流だったが、ともかく鮭の群れの遡上のダイナミックさに呆然となった事を今も憶えている。
5歳の背丈だから、大人より全てが大きく見えるのは当然だが、それにしても、水面にはねる生命の躍動に圧倒された。
産卵後の鮭に待つのは死ぬことだけなのだが、それでも卵を産みたいために、まっしぐらに遡上する姿は、生きる事の懸命さ大切さを子供の僕に教えるには充分だった。
18話は、ルリの生い立ちと、ルリが「生きる」という事に対して価値を見出すエピソードにしたい。
そのためには、5歳の僕が感じたように、鮭の遡上をルリに見せるのがいちばん効果的だと思った。
いつか「生きる」というテーマで鮭の遡上をエピソードにしたいと思っていたが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』でも『アイドル天使 ようこそようこ』でも使う機会がなかった。
鮭の遡上を使う準備はしていたのだが、生きる事に対しては人並み以上のバイタリティのあるミンキーモモやようこでは、「生きる」のが当たり前であり、「生きる」という意味の鮭の遡上をわざわざ見せる必要がなかったとも言える。
「鮭の遡上? ……凄いと思うけど、それって生きていく上で当たり前でしょう?」と言いかねない気がするのだ。
鮭の遡上は、いくらか「生きる」という事に懐疑的なルリに見せてこそ効果的だと思ったのである。
口癖とはいえ、生きる事や恋愛にあたふたする大人たちを「馬鹿ばっか」と冷たく一刀両断してしまうルリだからこそ、生きる事の価値や「馬鹿ばっか」の懸命さに気づくようなエピソードにしたかった。
『機動戦艦ナデシコ』以後、鮭の遡上を生命賛歌として描く作品に僕は出会っていない。
ということは、ルリというキャラクターがいなければ、いまだに鮭の遡上を描いた脚本を書いていない事になる。
そう思うと、僕とルリというキャラクターとの出会いも、大袈裟だが、なんとなく運命的なものを感じ、『機動戦艦ナデシコ』の脚本に呼んでくれた人達には今さらながらに感謝している今日この頃である。
ともかく18話のクライマックスは、ルリと鮭の遡上との出会いにして、そこから逆算してストーリーを作っていった。
このクライマックスシーンについては、『機動戦艦ナデシコ』が終わった打ち上げパーティの時に、監督の佐藤竜雄氏に……
「あの鮭の遡上シーンは、18話の肝なのだから、もっとダイナミックで生命感あふれるものにできなかったのか?」
酔った勢いもあって苦情を言って、今は申し訳なく思っている。
TVアニメで、流れる川や水、飛び跳ねる鮭など要求するほうが間違っている。
現在の劇場アニメでも、水の表現はCGを駆使してやっとこ観賞に耐えられるかな? ……という状態である。
『機動戦艦ナデシコ』制作当時のTVアニメの状況では、精一杯がんばってくれた場面だったのだなと、今は佐藤氏への苦情を後悔している。
脚本の書き方は、最初から書いて行く方法、箱書きなどを書いて構成をきっちり立てて書く方法、ストーリーの山場だけを最初に書く方法などいろいろあるが、『機動戦艦ナデシコ』の18話の場合は、まず、エンドシーンがあって、それから逆算して書いた典型である。
いきなりルリがクライマックスで、鮭の遡上を見るのは唐突すぎるから、伏線としてファーストシーンは、ルリが夢で水の音と魚のはねる音を聞くというシーンから始めた。
ルリの記憶の奥に眠っていた音だ。
断片的な記憶がよみがえる。
顔は思い出せないが、いつもルリの事を誉めてくれる父と母。
最初の先生はアルキメデス。
ルリが最初に憶えた言葉は父(ちち)と母(はは)とアルキメデスとパイ……パイはおっぱいのパイではなく円周率のπだった。
実は、僕の娘が最初に憶えた言葉らしいものがパイだったのだ。
もちろん、僕の娘はおっぱいのパイである。
アルキメデスの原理は、多分僕の記憶の中でいちばん古い原理だ。
そして、定番とも言えるアインシュタインもルリの先生として登場させた。
父と母の事を、おとうさんとかおかあさん、パパとかママではなく、「ちち」「はは」と子供に呼ばせる人もいる。
子供が大人になって、自分の両親の事を「私のパパ」とか「私のママ」とか子供っぽく呼ぶのは聞き苦しいから、小さい時から両親の事は「ちち」「はは」と言うように慣らしておくのだそうである。
僕は、いっこうにかまわないのだが、両親の事を「私の父」「私の母」と呼ばないとみっともないと考える人もいるのだ。
なるほどそういう考え方もあるのか……という意味で、ルリは父母のことを「ちち」「はは」と呼ばせる事にした。
余談だが、僕の場合、45歳の時に産まれた娘で、12歳下の妻は「私のママ」と呼ばれてもおかしくないが、僕は「私のパパ」「私の父」を通り過ぎて、そのうち「私のじいさん」と呼ばれるのではないかとひやひやしている。
さて、18話でちょっと考えたのは、「馬鹿ばっか」というルリの口癖の由来である。
これが、「あほばっか」なら国語のあいうえお順で、あ行に出てきてすぐに憶えられそうだが、「馬鹿ばっか」は、は行である。
アイウエオ順で、ば行は遠い。
しかし、いろはにほへとなら、「は」はみっつ目の文字だ。
そこで、国語の先生を、清少納言か紫式部もどきの平安美女にして、かな文字やかな文学をルリに習わす事にした。
ルリは、は行の単語の中で「ばか」に注目する。「馬鹿ってどういう意味ですか?」「あまり人に言ってはいけない言葉です」と教えられる。
言ってはいけない言葉ほど、使ってみたくなるものである。
ルリはすぐこの言葉を覚える。
馬鹿という言葉を、人に言ってはいけない事を、ルリは充分理解している。
それなのに、ルリが「馬鹿ばっか」を連発するのは、『機動戦艦ナデシコ』に登場する人物が、ルリが子供心に思う理想的な人間像と違いすぎるからなのだ。
ルリは、それこそ馬鹿のひとつ憶えのように「馬鹿ばっか」を繰り返すが、それはルリの期待する人間と、ナデシコの乗員のギャップが大きいからなのである。
それはとりもなおさずルリの人間観を表している事になる。
18話は、ルリの人間像を描くために脚本の1ページ目から予定されたラストに向けて、どこをむいてもルリだらけにした。
金太郎飴ならぬルリルリ飴である。
僕の書く脚本は、僕が意識しなくても、登場人物が勝手に動き回ってしまうことがある。
18話のルリは、まさにそれだった。
黙っていても、僕が何の無理をしなくても、ラストの鮭の遡上シーンまで突っ走ってくれた。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
僕がびっくり仰天した脚本無視を、監督1人の責任にする気はない。
何事もぎりぎりの状況が、身動きできない状態になり、ころがるように脚本無視につながっていったとしか言いようがない。
監督は、脚本を変えてはならないという常識を知らなかったようだし、脚本側にも不備があったことはいなめない。
まず、その作品にはシリーズ構成が2人いた。
一応人間のドラマ部分を僕がみて、アクションの部分をもう1人が構成する事になっていた。
その人は、アクション設定はできても、どうやら、人間を描く事、つまりドラマは苦手のようだった。
ドラマのテンションを、安易な設定に持ち込む傾向があった。
例えば、敵味方が実は親子だったとか、兄弟だったとか、人と人とのつながりと葛藤を、血縁関係でまとめようとする一番安易なドラマ作りをして平気な人のようであった。
きっちりとした原作のある作品なら、この人の脚本でも通用したかもしれない。
だが、頼りになりそうだったアクションもあてにならなくなった。
なんと、ナイアガラの滝を舞台にしたアクションシーンを平気で書いてくるのである。
滝……流れ落ちる膨大な水の中のアクションが、CGを多用する映画ならともかく、TVアニメのスケールでできるはずがないのである。
制作状況を全く考えていない。
仕方なく僕が書き直したが、アクションシーンでさえ無神経な人が、ドラマ部分をきめ細かく書けるはずもなく、その後、最初は2本ずつ書いていた脚本を、1本ずつかわりばんこに書く事にした。
その人が2本も続けて書いたらストーリーがぶっとぶ事が目に見えていたからだ。
ところで、後で決まった監督は、自他共に認めるアクション派の監督だった。
この監督の登場で、本来ならアクション用シリーズ構成はお役ご免である。
監督がアクションにこだわりがあるから、アクション場面が当然増える。
監督なりのこだわりか、当初のレギュラーが1人減り、重要な役目を持つキャラクターが1人増えた。
この作品にはなくてはならない声優を監督が使いたかったという話もあるが、詳しい事は知らない。
本来はいないはずのキャラクターが、重要な役目で登場する。
もちろん監督の意向であり、「まあいいか……」と僕も了解した。
これが、僕の失敗だった。
いないはずのキャラクターが登場すれば、それに関わる話が増える。
こんな簡単な事を僕は気楽に見すぎていた。
アクションとキャラクターが増えたのだから、当初のストーリーとドラマは希薄になる。
それでも、一応、僕はできあがってくる絵コンテのチェックはしていた。
あまりに自分の意見が通らなかったせいか、もう1人のシリーズ構成は何もしなくなり、与えられた話数だけを消化している感じになった。
この人、最後に物凄いどんでん返しの脚本を書いて、頭痛の種を増やして姿を消した。
いろいろ、大変な事もあったが、僕がびっくり仰天するのは、まだ先の事である。
つづく
■第123回へ続く
(07.10.31)
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