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第134回 作った歴史にくたびれて……
「平安魔都からくり綺譚」のような疑似歴史物を書く小説家の方は数多くいるし、僕の作品よりもずっと面白い小説が、いっぱいあると思う。
それらの作品以上の面白さを持つものを、僕が書ける自信は正直いってなかったし、現実にありもしない事を、あたかも現実にあったように並べ立てて面白がる事に、さほど楽しみを感じなくなっていた。
疑似とまではいかないが、自分の思い込みで物事の歴史を語っていた……それが決して歴史上の事実とは結果的に間違いでなかったにしても……『まんがはじめて物語』シリーズの僕の語り口に、自分自身、いい加減、飽きてしまったのだ。
『まんがはじめて物語』シリーズの13年間は、僕にとって長すぎたのかもしれない。
おまけに、TBS系のアニメ『まんが世界昔ばなし』という番組も3年間以上、メインライターをやっていた。
この作品も、誰もが知っている「シンデレラ」や「あかずきん」のような昔話はいまさら話を変えようがないが、僕は、あまり人に知られていない昔話を専門にやらせてもらっていた。
昔話や民話も、時代とともに変貌している。
例えば、「シンデレラ」は、現代の我々がよく知っているハッピーな話ではなく、原典はひどく残酷な一面を持っている事を知っている人は多いだろうし、「あかずきん」のもとの話は、あかずきんは狼に食べられてそれで終わりである。
決してハッピーな話ではない。
「本当は残酷なグリム童話」というような題名の本が、一時はやった事があるが、事実、昔話や民話のもとの話は、現代人が常識的に知っている話とは違っているのがほとんどなのである。
歴史的には新しいアンデルセンの童話にしても、原典は、じっくり読めば、陰湿で暗い話が多い。
だが、それでは子供向けの話とはいえない。結局、近代や現代の道徳観や倫理観が、もとは決して明るいとは言えない昔話や民話を、子供が聞かされても読んでも心地よい話に、変貌させていったのである。
だからといって、子供向けの昔話を、残酷な原典に戻す事は、教育上よろしくない、というのが今の常識である。
だから、著名な昔話や民話は、『まんが世界昔ばなし』でも、みんなによく知られた子供向けの話の形でアニメ化されている。「シンデレラ」も「あかずきん」もハッピーな終わりをむかえる。
だが、世の中には、あまり知られていない昔話や民話もある。
知られてないからといって、残酷で陰湿なままでは、子供向けアニメにはならない。
子供が見ても支障のない話に、脚色する必要がある。
そんな昔話や民話を、僕は選んで脚本にしていた。
その多くは、あまり著名とは言えない昔話や民話の題名だけ借りて、実はストーリー展開やテーマは、ほとんど僕が作ったものだったのである。
悪くいえば、僕のでっち上げた昔話、話の骨子だけ借りた創作昔話と言えるものもあった。
有名な昔話ならともかく、誰も知りそうもない話は、実際にはない話でも、僕が「こういう昔話が、どこかの国にはあるんです」と言えば、『まんが世界昔ばなし』のプロデューサーどころか昔話や民話の専門家の方達にしても、この世界は広いし様々な民族がいて、当然、プロデューサーや専門家の知らない昔話も民話も多いから、「そんな話はない」とは言いきれないわけで、僕のオリジナルの昔話が『まんが世界昔ばなし』として放送された事も少なくなかった。
名前だけは有名でも、本当の話はあまり知られていない「くるみ割り人形」だの、3年も続けばネタに困って、昔話とよべるかどうかわからない「ドラキュラ伝説」「フランケンシュタイン」「ファウスト」……これらは実は原作があるのだが、本当のストーリーを知る人は少ない……そんなものも、僕はその名前だけ借りて、ほとんど僕のオリジナルで脚本を書いた。
例えば、文豪ゲーテの大長編小説「ファウスト」を、たった12、13分の昔話にするには、ほとんどオリジナルでストーリーを作らないと無理だった。
「ファウスト」の場合は、原作を読むのに1ヶ月、脚本を書くのに3時間、放映時間が12分……けれど、アニメを見た人の中には「ファウスト」を読んだつもりになった人もいたという……の極超ダイジェスト版で、ほとんど僕のオリジナルでありながら、それでも原作「ファウスト」のテーマははずしていないという、書いた僕自身でも驚く離れ業だ。そんな事が、僕の書く『まんが世界昔ばなし』には珍しくなかった。
後で思えば、それらの脚本を書く上で大事な事は、昔話や民話にない話でも、実際にそんな話がありそうな雰囲気、ムードは、匂わせておく事だった。
例えば、アフリカのどこそこの国の民話ですと言いながら、実際はそんな民話はないのだが、脚本にアフリカの民話らしき香りを入れ込んでしまうのだ。
ゲーテ原作の「ファウスト」なら、いかにもゲーテがその作品を書きそうな雰囲気を、たった12分のアニメから感じ取れるような脚本作リをする。そんな作り方が、癖になっている脚本家に、知らずしらずに僕はなってしまっていたのだ。
『まんがはじめて物語』シリーズも、資料など気にせず自分の思いどおりに書いているつもりだったのが、実は現実の歴史とそう違わないものになってしまっている点では、『まんが世界昔ばなし』の中の僕の書いたオリジナルとも言える話が、いかにも本当にありそうな昔話や民話に見えるのと似ていた。
それが、僕の作風のひとつのようになっていた。
余談に近い話だが、僕は、アニメマニアの方達にとっては、『戦国魔神ゴーショーグン』『魔法のプリンセス ミンキーモモ』『アイドル天使 ようこそようこ』おまけに『ポケモン』等の脚本を書いた事で知られているようだが、赤坂のTBS近辺(?)では、今でも、『まんが世界昔ばなし』と『まんがはじめて物語』の脚本家としての知名度の方が高いようである。
13年続き、最高視聴率28パーセント、主役マスコットのモグタンが、いまだに時々姿を見せる『まんがはじめて物語』、アニメと同時に何度も舞台ミュージカルにもなった『まんが世界昔ばなし』……両方とも色々なTV媒体で再放送がくりかえし続いている。番組は終わっても、内容が古くならないから再放送ができ、それだけ長寿なのだ。……そして僕が書いた脚本の数は、明らかにTBS関係の教育番組風アニメの方が多いのである。
これらのアニメ番組で、僕の名前が語られるのは、困るはずもなく、むしろ誇らしく思っていいのだろうが、脚本家になりたての若い頃に続いた長寿番組だけに、僕の作風を決める影響力も強く、作品の出来云々はともかく、その呪縛から逃れたいために、ひどく悩んだ事もあった。
僕の作品歴が、『まんがはじめて物語』シリーズと『まんが世界昔ばなし』だけで、埋め尽くされていたら、脚本家としては潰れて、今の僕はいなかったと思う。
決して両方とも悪いアニメではなく、良心的で、脚本家としても色々冒険のできた番組ではあったのだが、ともかく長く続く番組は、僕の短気な性格からして、苦痛ですらあった。
皮肉な事に、僕の関わったアニメ番組は、やたら長く続くものが多かった。
そもそもデビュー作で、たった1本書いた実写の時代劇「大江戸捜査網」が長寿番組だったのがケチ(?)のつき始めで、オリジナルで原作や原案、シリーズ構成をしたアニメ作品で、まともに1年で終わったのは、『アイドル天使ようこそようこ』ぐらいである。
26話で、終わったつもりの『戦国魔神 ゴーショーグン』は、小説に形を変え、今まで8巻。もうすぐ最終巻をむかえるつもりだが、初回から数えると30年を越す。まあ、もっともこれが続いているのは、僕がラスト場面を決めかねて、だらだらしているせいもあるのだが……。
途中打ち切りのはずだった『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、1度延長になったと思ったら、それから10年後に海モモとか平成モモとかいう俗称で2作目が登場、さらにそれから十数年経った今も、3作目の企画が見え隠れしている。
小説では「永遠のフィレーナ」という作品が全9巻を10年がかりで終えた。
その他にも最終回をむかえていない作品がいくつかあり、僕が生きている間に終わるかどうか分らない作品もある。
僕の原作ではないのだが、序盤の数話を書いたものに『銀河英雄伝説』がある。20年前の事だ。これも僕の手を離れてからもやたら長く続いた。
そして、締めくくりともいえる全編BGM集のナレーションを、僕が書く事になろうとは思いもしなかった。
因果は巡る? 忘れたはずの最後の最後になって『銀河英雄伝説』は、僕のところに戻ってきたのである。
そして『ポケットモンスター』……今、僕は関わっていないが、この作品も10年過ぎても意気軒昂で、TVも映画も続行中である。他人事ながら、凄いなあと思う。
ともかく、僕が関わった作品は、予想以上に長く続くのがジンクスのようになってしまった。
やっと予定どおり終わってくれたのが……と言っても、終わったのだか終わっていないのか訳の分らない終わり方だったが……つい最近の『獣装機攻 ダンクーガノヴァ』だが、これすら最初の頃は、DVDの売り上げ次第では延長のうわさもあって、監督さんは、それらしい発言をしたらしいが、どうやらその心配(?)はなく終りそうである。
正直、終わってくれて一番ほっとしているのは、僕かもしれない。
万が一まさかの延長があっても、僕は遠慮する。
この作品の続編を考えるより、僕は死ぬまでに他にやりたいものがいっぱいあるのだ。
その意味でも、『まんがはじめて物語』的に歴史に関わる作風のものも、「平安魔都からくり綺譚」で打ち止めにしたかった。
それだけになおさら、僕の最後の思いつき疑似歴史物として、できる限りハチャメチャに、現実の歴史年表にいたずらを紛れ込ませて遊ぼうと思った。
だが、ハチャメチャででたらめでも、一般に知られた歴史にいたずらを書き込んで遊ぶのは、真面目に遊ぼうとすればするほど、僕にとっては疲れる作業だった。
「平安魔都からくり綺譚」は、僕にとって、その作品のオバカさとは裏腹に、今までも、そしてこれからも現れないだろうと思われるほど苦労した作品だった。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
誰にも真似できない作家独自の個性……そんなものがあるのだろうか?
人は誰でも、周りの環境から影響を受けている。
作家だって例外はない。
生活環境、人との出会い、本との出会い、映像との出会い。現代ならインターネットや携帯電話のやり取りからも影響を受けている。
様々なものからの影響で、人間の個性は形成されているといっていい。
もしも、同じ生活環境で育った2人の人間がいたら、同じ個性の人間が2人形成されるかもしれない。
ただし、この話は、親からの遺伝とか生まれた時の環境とか幼児体験のトラウマ等の事は、ひとまず外しておく。
遺伝子とか精神医学の問題を作家の個性の話に持ち込むと、ややこしくなり、作家のオリジナリティを語るにはちょっとテーマがずれてしまうと思うからだ。
例えば、「あの人は精神病だから個性的だ」とは誰もいわないだろう。
ここで言う個性とは、ごく普通に生まれ普通に育ち、ものごころがついてから養われる個性の事を言う。
才能という言葉があるが、これもここでは除外する。
あの人は音楽の才能がある、あの人は絵の才能がある、作家の才能があるなどと、才能で物事を片づけられると、身も蓋もない。
確かに何事かに才能のある人は存在するだろうが、ここで語るのは、才能の話ではなく個性の話である。
「あの人は才能があるから個性的だ」という台詞はあまり聞かない。
ここで語るのは、普通の人が、独自の個性を育てる方法についてである。
個性とは、他の人と違う独自の性質という事である。
くどいようだが、才能のある人とか精神病の人とかを、独自の性質を持っている人とは言わないだろう。
それは、普通の人間と違う人である。
普通の人が持つそれぞれ独自の性質を、ここでは個性と呼びたい。
昔、TVが普及しだした頃、大宅壮一という人が、TVなんぞ見ていると、日本人は一億総白痴になると言った。
TVは、人間の目と耳に直接情報を流し込む。人間はその情報を頭で考えずに鵜のみにして受け入れてしまう。
だから、レベルの低いTV番組を日本人がみんなで見ている時代になると、みんなレベルの低い知能の人間になってしまうという意味のようだが、何だかこの一億総白痴という言葉、これもちょっと古い台詞だが、ビートたけしの「赤信号みんなで渡れば怖くない」に似ていない気がしないでもない。
個性的という事は、みんなとちょっと違うという事である。みんなと一緒ではないという事でもある。
つまり、みんなが見ているTVを自分は見ない。一億の日本人がTVを見て白痴になっても、私はその日本人であったにしてもTVを見ないで白痴にはならないと言える人の事だ。
赤信号みんなで渡れば怖くないかも知れないが、私は怖いから青信号まで待つと言える人の事である。
だが、こういう事は口で言うのは簡単だが、実際はどうだろうか……。個性的でいるというのは、結構難しい事に思えるのだ。ただのへそ曲がりとしか思われかねないし。それに、単なるへそ曲がりの脚本家を、個性的な脚本家、オリジナリティのある脚本家とは誰も呼ばないだろう。
じゃあ、どうすればいいのだろう。
つづく
■第135回へ続く
(08.01.30)
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