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第144回 『ポケモン』シリーズ構成
アニメ版『ポケモン』1、2話を元にして、すでに脚本家の方たちの書く話数は最初の8話程度までは決まっていた。
ほとんどがゲームの展開どおりにエピソードが作られているのだが、ゲームの展開どおりと言っても、ゲームの中では、主人公が通過する場所と、新しく出会うポケモンの特徴(つまり、「ポケモン」のゲーム上ではそれぞれのポケモンの戦闘能力)や登場人物のゲーム上の役割しか描かれていない。
ゲームのプレーヤーは、プレーヤーそれぞれの持つポケモンを出会ったポケモンと戦わせて、出会ったポケモンに勝てば自分のものにできるわけである。
そのポケモンやゲストの登場人物とアニメ上で旅をするサトシやカスミやピカチュウとの出会いに関わるストーリーやエピソードは、それぞれの脚本家の方たちが考えなければならない。
そこが、コミックや小説が原作のアニメと違うところである。
コミックや小説が原作のアニメなら、登場人物やポケモンの性格が詳しく描かれているだろうし、登場人物やポケモンが背負っているエピソードやドラマも描かれるだろうが、ゲームでは、そういうものは見当たらない。
アニメ用にどんなストーリーやエピソードを脚本家の方たちが作ってくるか、それぞれの方たちのプロットの内容を僕は楽しみにしていた。
そしてどんなプロットができてきても、脚本化へのゴーサインは監督に任せる事にした。
そこが、今までの僕のシリーズ構成のやり方と全く違うところだった。
それまでの僕のシリーズ構成のやり方だと、プロットの時点から脚本の決定稿まで、かなり自分の意見を言い、やむを得ない場合は、僕が他の脚本家の方の脚本を書き直したりもしたのだが、『ポケモン』の脚本はそれを一切しなかった。
本来の僕のシリーズ構成した作品は、僕がアフレコに立ち会い、監督や音響監督と相談の上で台詞を変えたり、アフレコ現場で考えた予告編を、予告に声を入れるぎりぎりになって書くのが常だった。
シリーズ構成をやっている間に病院に入院してしまった『アイドル天使ようこそようこ』の時ですら、アフレコの当日、アフレコ現場にいる監督に電話で予告の文面を伝えていた。
つまり、僕にとっては、シリーズ構成とは台詞という形で作品に関われるアフレコのぎりぎりまでつき合うもので、予告もまた作品の一部分だという考え方だったのである。
アニメ作品のシリーズ構成としての務めは、台詞を入れるアフレコまで続くというのが僕のスタンスだった。
ある話数の決定稿ができても、その話数のアフレコまで、少なくとも台詞については考え続けている。
他の方がシリーズ構成の作品でも、僕が自分で書いた脚本については、アフレコまで考え続けてアフレコの現場に立ち会い、必要とあればその場のスタッフやキャストと相談して台詞を変える事もある。
まして、自分がシリーズ構成の作品なら、他の方が書いた脚本であろうと全部の脚本にその責任があると考えていた。
だから、他の方の書いた脚本でも首藤風の台詞が出てきたり、予告編などちっとも予告になっていないおしゃべりを入れたりして、時として「首藤のシリーズ構成したアニメは、本編より予告の方が面白い」等と、妙な褒め言葉とも皮肉ともとれる事を言われた事もある。
しかし『ポケモン』に関しては、アフレコ現場での台詞直しはしていない。
予告も書いていない。
それでも、僕がシリーズ構成をしている間のアニメ版『ポケモン』に首藤臭さが感じられると言う方がいるが、多分それは、ロケット団の存在のせいだと思う。
ロケット団の面々の性格と彼らがサトシ達と戦う時の口上は僕が作ったものだし、それが、ほとんど毎回出てくるから、そんな気がするだけである。
実際は、各話のプロットにも脚本の直しにもほとんど意見は言っていない。
アニメ版『ポケモン』での僕は、脚本会議ではただ出席しているだけ、アフレコでもただそこにいるだけ、そのうちアフレコにも出なくなったから、ただ名前だけのシリーズ構成と言われても仕方がない存在だったかもしれない。
1、2話で基本的な事をやってしまったせいか、自分でもあきれるほど何も発言しなかった。
むしろプロデューサーや監督の方が饒舌に脚本について意見を言っていた。
僕はそれに頷くぐらいしかできず、当時禁煙中で、入れ替わり立ち替わり会議に来る脚本家の方たちの煙草の煙を、うらめしく見つめているだけのようなありさまだった。
僕が会議でもアフレコ現場でも意見を言わなかったその理由の一つは、脚本の決定稿がプロデューサーや監督の意見を十分取り入れて完成されていて、僕の意見を挟む余地がなかった事もあるし、その決定稿が関係者に配られていて、それを元にした絵コンテも決定稿を大きく逸脱する事はなかったからである。
当然、そんな絵コンテからおこしたアフレコ台本の台詞も決定稿と変わる事はほとんどなかった。
なにより、アフレコ現場で使われるアフレコ用の映像は、絵コンテどおりにほとんどでき上がっていた。
もし、そこに僕がアドリブで妙な台詞を入れたら、決定稿を読んでいた関係者、特にアニメ版『ポケモン』で一番発言力の大きい1人のプロデューサーは、決して穏やかな気分ではいられないだろう。
この人、誰が呼び始めたか知らないが御前様とあだ名されていて、その人の出席する会議を御前会議と言い、事実、この人の鶴の一声で他のプロデューサーやスタッフの間で決まりかかっていた脚本がひっくりかえった事もある。
もっとも、御前様の発言もアニメ版『ポケモン』にとってよかれと思って言った発言で、それに抵抗できない他のプロデューサーやスタッフ――僕も含めてだが――が、弱かったとも言えなくもない。
アニメ版『ポケモン』は、非常にきっちりとした制作体制で作られていた。
脚本会議は、その場にいなくても様々な関係者の意見が反映されるように、週1回、決められた曜日に開かれる。
そして、プロットの打ち合わせを含めると決定稿まで、平均3稿はかかった。
ほぼ、1ヶ月である。
ただし、それ以上、直しに時間がかかる脚本家は困る。
言うまでもなく脚本ができたからといってアニメが完成したわけではない。
アフレコにきちんとした映像が間に合うまで、絵コンテ、作画、その他、様々な分野で、スケジュールどおりに事が運ばなければならない。
そのためには、1話分のアニメ脚本には1ヶ月以上はかけられない。
だからこそ、プロデューサーと監督の間で、他の作品でシリーズ構成もできるアニメのプロと呼べるような脚本家が選ばれたのである。
本来、アニメ作品の脚本家は、その全体の作品の脚本責任者――つまりシリーズ構成――が、その作品に合った脚本家を見つけてくるものだ、と僕は思っている。
だが、きちんきちんとしたスケジュールで進行する『ポケモン』の脚本作りに対応できるプロを、僕は、僕のシリーズ構成する作品では遠ざけていた。
僕には、プロの脚本家は器用にまとめたそこそこの脚本は書けるが、破格の脚本は書けないという先入観があった。
そして、僕のシリーズ構成する作品は、そこそこの脚本は必要としない。
下手であろうと失敗作であろうと、ともかく破格の脚本が欲しかった。
だが、『ポケモン』は違う。
関係者と視聴者がある程度満足できる脚本でなければならない。
そんな脚本をスケジュールどおりに書ける人を見つけるとしたら、プロデューサーと監督が決めた脚本家の方たちに、異議をとなえる事はできなかった。
ただ、こんな風に書くと、『ポケモン』の脚本は、平均的によくできた脚本が求められたように見えるが、実はプロット会議では、プロデューサーや監督から、野心的、冒険的なアイディア・エピソードや作品案が出ていた事も確かである。
決して、『ポケモン』のスタッフは平均点狙いの脚本だけを望んでいたわけではない。
『ポケモン』の枠の中で、スタッフからは、他のアニメにない異色作も望まれていたのである。
しかし、これは僕だけの意見だが、当初の『ポケモン』の脚本家の方たちに失敗覚悟の異色作を書くようなぶっ飛んだ人はいない。
既成のアニメからはずれる前に、手堅くまとめる事ができるのがプロである。
とんでもない異色作を作る可能性のある人は、失敗する危険性もはらんでいて、『ポケモン』どころか他のアニメでも危なくて、普通なら脚本依頼を躊躇したくなるような人という事になる。
そんな人に脚本を頼むわけにもいかず、結局仕事がなくて、アニメ脚本の世界から姿を消してしまう。
スケジュールどおりに、プロデューサーや監督の望む異色作を書けるプロの脚本家は、ほとんどいないと僕は思う。
いずれにしろ、『ポケモン』の脚本は、いろいろな人の意見の入った水準以上のものが、ある一定のパターンはあるものの、スケジュールどおりにでき上がっていった。
スケジュール破りをする危ない脚本家が『ポケモン』の脚本家にいるとしたら、恥ずかしながら、誰でもない僕自身だったかもしれない。
とにかく、『ポケモン』の脚本は、アニメ脚本のプロの方たちによって誠実に作られていた事は確かだ。
そして、アフレコに間に合った映像を見れば、脚本完成後の他の制作部門もしっかりとしていた事が分かる。
脚本から完成品までつき合っていたプロデューサーや監督、演出の方たちの苦労や誠実さは、きちんとアニメができていたという言葉で言い表す事ができると思う。
制作姿勢が、とてもしっかりしているのだ。
去年、他のアニメのシリーズ構成をやったが、『ポケモン』と比べると、制作体制の違いに腰が抜けるほど驚いた。
アフレコに絵は入っていないし、脚本の決定稿と完成アニメが違うという事が当たり前のように行われていたのだ。
アニメ作りとして『ポケモン』の制作体制が普通なのか、脚本と違う完成アニメになってしまう制作体制が普通なのか、それはよく分からない。
ただ、『ポケモン』を経験した後だけにギャップが大きかった。
今思えば『ポケモン』は、様々な制作過程でそうとう気配りがきいている作品だと思う。
予告を書かなかった理由はと言えば、様々な関係者の納得を得ながらでき上がったアニメに、いくら首藤流とはいえ、アドリブで思いつきの予告にならない予告編を書いて、アニメ制作の上層部、特に御前様と呼ばれるプロデューサーにいらぬ刺激を与えたくはなかったからだ。
ただでさえ僕の脚本に対する批判を会議で公然と口に出している人である。
妙な予告を書いて、本来の本編の脚本への反感を増長させたくはない。
僕の書く予告編は僕のシリーズ構成作品の名物のようなもので、監督は当然僕が予告を書くと思っていたらしく、予告を書くと言い出さない僕を不思議に感じたかもしれないが、別に僕は『ポケモン』に対してやる気をなくしていたわけではなく、アニメ版『ポケモン』制作の上層部との亀裂を避けたかっただけなのである。
だったら、まっとうな普通の予告を書けばいいだろう……と僕に言われる方もいるかもしれないが、それは無理である。
長年、アフレコ現場で声優さんたちの演技を見ながら思いついた事をアドリブで予告に書いていた僕は、「次回をご期待ください」風のまっとうな予告は、いまさら照れくさくて書けなくなっているのだ。
それに気がついた時は、僕自身、いささかショックだった。
つまり、いくらそれが書かなければならない事であっても、僕は書こうという気持ちが盛り上がらないと書けない体質なのだ、
僕の書く予告は、僕流でなければ書く意味がないと思ってしまうのである。
要するに物書きのプロとしては、失格なのだ。
最初の他の脚本家の方たちとのプロット会議で、僕はほとんど発言しなかった。
本来のシリーズ構成の僕なら、会議どころか、それぞれの脚本家の方たちに個別に電話してプロットの内容に関して饒舌に話していたはずである。
しかし、今回は止めた。
集まったプロットは、さすがアニメのプロ脚本家の書いたもので、それぞれよくまとまっていた。
僕が1、2話で書いた『ポケモン』の世界観も上手く取り入れてくれていた。
しかしである。
『ポケモン』のアニメは、普通に作ってもそこそこのヒットが期待できる事は、関係者の誰もが感じている事だった。
ゲームをアニメ化する事は難しそうだが、アニメの世界観と主人公の目的ができてロケット団というおかしな敵ができてしまえば、後はゲームの中にはユニークな素材が豊富で、いかようにもエピソードが作れそうだった。
ある程度のヒットが約束されているアニメなら、その中で型破りの実験をするようなプロットがあってもいいと思ったが、プロの脚本家としてまとまっているプロットに、もっと変な発想をいれてくれと言うのも失礼である。
その代わり、同じ素材で僕が脚本を書くなら違うものを書くという気持ちは、絶えず持ち続けていた。
これは、脚本が失敗した時に、すぐその代案として僕が書き直せるようにしておくための、シリーズ構成としての習性のようなものだが、『ポケモン』の脚本家のメンバーでは失敗するような脚本を書くはずもなく、その代案のいくつかは小説版の『ポケモン』にアニメとは違うストーリーで登場させる事になった。
さらに脚本会議で発言を控えたのは、あるプロデューサーから、『ポケモン』の脚本を書きだした頃に、「アニメの中心は監督だと思うんでよろしく」といった内容の事を言われた事もある。
つまり、監督の指示に従ってシリーズ構成をしてくれという意味だろう。
僕がシリーズ構成する作品は、監督を無視して勝手に脚本を作ってしまうような印象を、そのプロデューサーは持っているらしい。
確かに僕のようにアフレコにまで出ていく脚本家はめったにいないし、本来は監督の仕事である背景音楽(BGM)の作曲家へのメニュー出しに口を出すシリーズ構成は、あまりいないだろう。
ただしその曲は、シリーズ構成として脚本を作る上でどうしても必要な音楽に限られるし、脚本を書く上で、イメージをふくらますために録音したBGMを手元に置いて把握するのは、脚本家として当然の事だと思う。
僕がシリーズ構成する作品の場合、原作のあるものが少なく、原作があっても大きく内容を変えなければアニメにならない作品が多いから、当然、監督やプロデューサーに作品の意図を説明しなければならなくなる。
それが監督の職分を侵害しているように見えるのかもしれない。
当然アニメは1人で作れるわけでなく、僕はシリーズ構成や脚本家としてできる範囲の事をやっているにすぎない。
正直な話、作品の中心が監督であろうとプロデューサーであろうと、面白い作品ができればいいのである。
自分の脚本だからといって、監督の領分を侵害する気もないし、監督という仕事ができるともやりたいとも思わない。
人それぞれ向いている仕事があり、アニメ総監督というアニメに関わる様々な人たちを統率するような面倒な事は、僕にはとてもできない。
しかし、僕の書いた脚本は、僕の作風が目立つ事は確かなようだ。
そのプロデューサーには、僕が監督に代わって作品の中心になっているように見えたのかもしれない。
もともと『ポケモン』のシリーズ構成は、監督から誘われたものである。
監督の手助けをする雇われマダムのようなものだと僕は思っている。
それでも僕が目立つとすれば、できるだけ目立たないようにするのが筋である。
『ポケモン』というアニメの中心人物になるのは、僕にとっても本意ではない。
したがって、脚本会議でも、できるだけ監督の意見が通るようにこころがけた。
そうすると、発言するのは余程の時である。
余程の時などめったに来ないから、いつもは余計な事は言わずに黙っているしかない。
アニメ『ポケモン』の1、2話が完成した時、地下鉄の神保町のホームで「やっぱり、首藤さんをシリーズ構成にしてよかったよ」と監督に言われたのを今でも覚えているが、それで、僕の務めの3分の1は終わったような気がした。
そして、それぞれの脚本家の方々の書いた脚本ができあがっていくのだが、その会議で、とても熱心なプロデューサーの存在があった。
この人は、『ポケモン』のアニメ制作の上層部やゲームや玩具関係の会社とのパイプ役のような役目の人だが、でき上がった脚本をリストアップして、それぞれのエピソードに登場するポケモンを整理した表を作って、毎回の脚本会議に持ってきてくれた。
さらに、本当に『ポケモン』が好きなのだろう。
各話に対するいろいろなアイディアも出してくださる。
ほとんど、シリーズ構成のするような事をやってくれて、僕はありがたくこのプロデューサーのしてくださる事に甘える事にした。
余談だが、この方は、毎年お中元がわりにポケモングッズを段ボールいっぱい、今でも送ってくださる。
脚本は1ヶ月に4本は確実に決定稿になる。
それだけの実力はある脚本家の方たちがそろっていた。
そうなるとシリーズ構成の僕は、何もする事はなく、ただ会議に出席して、時折、脚本の感想をしゃべるだけの存在だった。
その会議で僕が何を考えていたかというと、その当時の1年半後の事、つまり、1年半後アニメ版『ポケモン』が終わる時、どんなクライマックスにするかだった。
すでに最初の脚本会議で、『ポケモン』のラストエピソード4本分は僕の中ででき上がってしまった。
つまり、『ポケモン』がいつ終わろうとラスト4本分があれば、かなり感動的なクライマックスを迎える事ができるように、準備だけはできていたのである。
実際は1年半どころか10年以上も続いているのだが、サトシとピカチュウとロケット団が健在ならば、このラストエピソードは使用可能なはずである。
『ポケモン』の映画も10作を超えるが、今のところ『ポケモン』のスタッフがこのラストエピソードに似たものを考えつくとは思えない。
で、アニメ版『ポケモン』の脚本家の方たちが一回りしたあたりで、それぞれのだいたいの作風がつかめて、会議に出席するだけで後は何もする事がないようなアニメ版『ポケモン』のシリーズ構成である僕が、この作品でやるべき事が見えてきた。
そんな頃、『ポケモン』の関係者を集めてアニメ版『ポケモン』の番組開始を祝うパーティ(打ち入りパーティともいう)が開かれた。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
今回もオリジナリティの話である。
先月、小学校を卒業したばかりの娘とディズニーランドに行った。
春休みという事もあって、それぞれのイベント館に2時間近く並ばされ、ひどい目にあったが、最後に娘がどうしても見たいものがあるという。
『クマのプーさん』のイベントで、ここも2時間たっぷり並ばされた。
イベント自体は奇妙な車に乗せられて、10分か15分で、あっという間に終わりである。
正直、おじさんの僕にとっては、並ばされた時間で足が棒になり、疲れただけだった。
で、ここからが本題なのだが、『クマのプーさん』を見終えた娘が、しきりに首をひねっている。
小学校の友達が娘に語った『クマのプーさん』と違うというのである。
最後にジェット・コースターのようなすごいところがあるはずなのに、それがなかったというのだ。
確かにそんなスリリングなところはどこにもなかった。
「嘘だったのかなあ……」
そう呟く娘に、僕は答えた。
「いや、その子が行った時にはあったんだよ。きっと故障か何かで今日だけ取り止めになったんじゃないかな」
「そうか……そうだよね」
腑に落ちない顔をしながらも、娘は頷いた。
本当はその子が行った時も、ジェット・コースターのようなところはなかったのだろう。
だが、僕はその子を嘘つきだとは言いたくない。
むしろ、オリジナリティのある子だと僕は言いたい。
2時間も待たされて、あの10分か15分はあまりにあっけなさすぎる。
正直に「つまんないよ」と言うのは簡単である。
でも、それでは並んだ2時間が空しい。
そこで、その子は並んだ2時間の期待度分に見合った架空の『クマのプーさん』を作り上げたのである。
ジェット・コースターがあってほしいと思い込んだら、現実にあったような気持ちになってしまったのだ。
その子がこうあってほしいと思う『クマのプーさん』を作り上げ、本当の事にしてしまったのである。
娘に語った『クマのプーさん』は、その子のオリジナルなのだ。
何かを見たり読んだり経験した時、それを自分なりに形を変えて感じて人に話してみる。書いてみる。表現してみる。
そんな気持ちをその子が大人になっても忘れなければ、オリジナリティあふれる表現者になると思う。
あなたも、どんなものに対しても自分なりの感じ方、本当の実態と違ってもこうあってほしいと思う気持ちを持って、それを表現してみよう。
それは、嘘、虚言ではなく、あなたのオリジナルな表現なのだ。
何かを表現する時、それが嘘であるという事を恐れてはならないと思う。
繰り返すが、それはあくまであなた自身の表現である。
つづく
■第145回へ続く
(08.04.16)
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編集・著作:
スタジオ雄
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