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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第150回 『ポケモン』「マサキのとうだい」

 「ポケモンひっしょうマニュアル」が、アニメ版ポケモンが10年以上も続いている今、どれだけの存在意義があったかは分からない。
 シリーズ構成としての僕は、アニメ版『ポケモン』に「ポケモンひっしょうマニュアル」の中にあるような、現実のリアリティを少しだけだとしても感じさせるものを、他の方の書く脚本の中にも入れてくれとは頼まなかった。
 もっとも、ポケモンについての学校という意味では、後に、ポケモントレーナー免許試験所という似たようなエピソードがでてくるが……。
 『ポケモン』のアニメ全体を、以前に僕がシリーズ構成してきた作品のように、それまでのアニメにはなかったような異色(?)作にする気はなかった。
 『ポケモン』は大きなプロジェクトである。
 アニメは、その一部にすぎない。
 そのアニメの出来が奇妙な作品だと、それがうまくいこうが失敗しようが、いろいろなところから、風当たりが強くなる。
 『ポケモン』のアニメ化は、できるだけ苦情の出ないオーソドックスなものにしておくのが無難である。
 ただ、それだけだと魅力がない。
 ロケット団の個性を魅力的と言ってくれる人もいるが、僕から見れば、あれでもオーソドックスな存在なのである。
 それ以外の何かが欲しい。
 オーソドックスなアニメの中に、変化球のようにたまに「ポケモンひっしょうマニュアル」のような脚本が混じりこんでいれば、アニメ版『ポケモン』の世界の幅が広がり、魅力的になる。
 だが、それは、あくまで『ポケモン』アニメの本道ではなく、少しだけのチラリズムである。
 オーソドックスな中に、危なげなものがちらりと見える。
 それが、魅力になる。
 魅力的でなければ、それはちらりと見せていただけだから、やめればすむ。
 そのちらりを、僕がやればいいのである。
 実際、他の脚本家の方たちからは、アニメ版『ポケモン』の全体から見て、冒険的というか、奇妙に思えるぶっ飛んだプロットは出てこなかったし、その分、アニメとしての『ポケモン』は、原作であるゲームをふくらましたアニメとして安定していた……つまり、オーソドックスな脚本で、ゲームファンにも納得でき、ゲームを知らない視聴者にも楽しく見ることのできるアニメになっていたと思う。
 主人公達が、毎回、新しいポケモンに出会って、ポケモンのバトルがあり、ロケット団が最後に登場するという脚本の基本パターンがあったとしても、脚本家の方たちの個性の違いで、オーソドックスなりにバラエティのある脚本が、でき上がってもいた。
 どの脚本家の方たちもアニメを書きなれていたし、しかも、3回から4回の脚本会議を通って決定稿になった脚本だから、出来が悪いと思われるようなレベルのものはなかった。
 それぞれ、きちんとまとまっていた。
 ただ、部分部分に書いた脚本家の方たちの個性は見えても、全体が暴投気味の脚本は見当たらなかった。
 そして、脚本のローテーションの順で、僕の番がきた。
 それが13話「マサキのとうだい」だ。
 ちなみに、10話、11話、12話は、主人公達が、フシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメというポケモンと出会うエピソードだった。
 ゲームでプレーヤーが旅立ちの時に最初に選ぶポケモンが、この3頭のうちの1頭という設定になっていて、アニメでは、それをピカチュウにしたため、ゲームプレーヤーが不満に思わないように、アニメでは早めに登場させることになっていた。
 それが終わると、灯台に住んでいるマサキというポケモン研究家のエピソードになる。
 マサキというポケモン研究家は、ゲームの中では早めに登場する人物である。
 ゲームの中では、ポケモン研究家という事になっていて、部屋に引きこもり、それでいながら、ポケモンの気持ちを知りたいからというので、ポケモンの着ぐるみを着てポケモンの気分にひたろうという変な人物で、それ以外はあまりよく分からない。
 アニメのストーリー上、必要な人物ではなかったが、ゲームとアニメがリンクして進行する以上、この人物のエピソードが必要だということで、僕が脚本を書く事になったのである。
 ポケモンの研究家としては、すでに、オーキド博士という人物が第1回から登場している。
 主人公のサトシにピカチュウを渡してくれた人で、ポケモンに対して造詣の深い主要人物の1人である。
 サトシがゲットしたポケモンを預かってくれる人でもある。
 そんな人物がいるのに、またポケモンに詳しい新たな研究家と会うのは作劇上困るのである。
 つまり、役柄がダブってしまうのだ。
 研究家は、当然、いろいろなポケモンの知識を持っている。
 サトシの旅はまだ序盤である。
 これから、出会わなければならない未知のポケモンが、いっぱいいる。
 マサキがサトシにとって未知であるポケモンの知識を披露しても、それは説明だけに終わり、実物に出会った感動が薄れる。
 ポケモンの気持ちを知りたいという話題も困る。
 サトシが、言葉の通じないポケモンの本当の気持ちを知りたいなどと思いだすと、それまで無邪気にポケモンを戦わせている自分に疑問を持ちかねない。
 「このポケモンは、他のポケモンと戦いたいと思っているのだろうか?」などと、いちいちサトシが悩みだすと、話が前に進まなくなる。
 実は、僕としては、ポケモンと人間との本当のコミュニケーション――つまり、互いにコミュニケーションできることによって、人間にとってポケモンが何なのかが分かる――が、アニメ版『ポケモン』の重要なテーマのひとつのつもりだったのだが、それに触れるのは13話目では早すぎる。
 それどころか、アニメ版『ポケモン』が続く限り、そのテーマには下手に触れない方がいいと思っていた。
 いつになるか知らないが、最終回が決まった時に、その数話前からそのテーマを真摯に描けば、アニメ版『ポケモン』が何十年続いていようと、いや、続けば続くほど傑作と呼ばれる作品になるのじゃないかなと、序盤のシリーズ構成をした僕個人としては、いささか無責任だが、そう感じている。
 ともかく、ポケモンとは人間にとってなんなのか、に触れる話は、13話の当時ではできるだけ避けたかった。
 ただでさえ、喋りたがりの僕である。
 ポケモンの研究家など出すと、ポロっとそこらを臭わせたくなってしまう。
 出したくはないが、しかし、マサキの設定はポケモン研究家である。
 ポケモン研究家として登場させるしかない。
 そこで、ポケモンについては、表面的な事ばかりべらべらだらだらと説明し(この場面、だらだらして動きがなさ過ぎると監督から苦言があって直した)、後は、研究家マサキの別の話にした。
 『ポケモン』は、基本的にポケモンを追いかける話である。
 サトシがバッジを集めてポケモンリーグに出ようとするのも、姿勢は前向きである。
 上昇志向である。
 では、逆に、ポケモンを追いかけずに、待つ姿勢があってもいいのではないか?
 ずいぶん前から子供にも大人にも引きこもりというのがあるが、あれは出たがらないのではなく、何かを待っているのではないか、と考えてみるのである。
 前向きでもなく、上昇したいわけでもなく、ただ待っている姿勢。
 いい悪いはともかく、何かを待っている人間のエピソードがあってもいいと思ったのである。
 昔、「女の子は誰でも白馬に乗っている王子様を待っている」などと言われていたが、最近は、そんな事は言われなくなった気がする。
 なんとなく「男の子が、白馬に乗ったお姫様を待っている」時代のような気がする。
 サトシは前向きである。
 相手が前向きだと、ぶつかってバトルになる。
 アニメ版『ポケモン』のひとつのパターンといえる。
 しかし、相手が待つ姿勢の人間だとどうなるか……。
 相手が前向きなら助けてやる事もできる。
 だが、待ちの姿勢だと、何もすることがない。
 相手が待っているものを探してやる事はできるだろうが、相手が待ちの姿勢が身上である場合、「勝手に探してくるな、余計なことだ」と言われるのがおちである。
 で、マサキが待っているのが、幻のポケモンである。
 『ポケモン』では一応「ホウオウ」というポケモンが幻のポケモン風の扱いをされ、1話でも少しだけ姿を見せるが、マサキの思う幻のポケモンは「ホウオウ」ではない。
 余談だが「ホウオウ」は。ゲームの第2弾では、お寺のどこにでもいるポケモンに格下げされてしまった。
 マサキのポケモンは世界に1頭しかいない幻のポケモンである。
 そして、そのポケモンは、仲間を探してさまよっている。
 マサキの灯台が霧の中で危険を知らせる汽笛が、その幻のポケモンの鳴き声に似ている。
 その音を聞いて、近づいて来るだろう幻のポケモンをマサキは待っているのである。
 そのポケモンが現れたからといって、マサキはどうする気持ちもない。
 ただ待っているのである。
 灯台を仲間の鳴き声だと思ってやってくるポケモンも、そこにあるのは灯台で、ポケモンではない。
 世界で1頭の幻のポケモンの孤独は変わらない。
 僕は、岬にぽつんと立っている灯台が何となく好きである。
 で、灯台にまつわる好きな話がふたつある。
 ひとつは、灯台と戦闘機の恋愛である。
 戦闘機は、「必ず帰ってくる」と言って、特攻出撃する。
 灯台は、朽ち果てるまで、戦闘機を待ち立ち続ける。
 このイメージは僕のオリジナルだと思うが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』あたりで使おうとも思ったが、そもそも戦争がないと成立しない話なのでほったらかしにしている。
 もうひとつは、SF作家レイ・ブラッドベリの有名な短編小説「霧笛」である。
 「ウは宇宙のウ」という短編集に入っているはずだ。
 世界で1頭しか生き残っていない恐竜が、灯台の霧笛を仲間の声だと思い込んで現れるが、それが灯台だと分かり、悲しさと怒りにまかせ壊してしまうという話である。
 子供の頃に、読んだか聞かされかした話で、このままの話かどうか記憶は確かではないが、今、読んでイメージが変わると嫌なので、本も持っていない。
 だが、僕にとってはいろいろな岬の実物の灯台を見ると自然に思いだされる話だ。……脚色した形で映画化もされたらしい。
 で、その灯台に、実は待っている人がいたら? ただし、思いはすれ違い……というのが、「マサキのとうだい」のメインストーリーである。
 「霧笛」のパクリと言われるかもしれないが、「霧笛」はあまりにも有名で僕の好きな話でもあるので――リスペクトというか、オマージュというか――、いずれにしろパロディではないことは確かだ。
 ここに出てくるのは幻のポケモンで、ゲームには出てこないポケモンである。
 プロットや脚本に、ブラッドベリの「霧笛」のようなポケモン、と書いたら、「カイリュウ」というポケモンが超巨大化したようなものがアニメに出てきた。
 『ポケモン』の公式記録のようなものでは、「カイリュウ」は身長2メートルぐらいだから、確かに「マサキのとうだい」のポケモンは「カイリュウ」が突然変異した幻のポケモンと呼んでもいいかもしれない。
 このエピソード、最後はロケット団が出きてひと騒ぎするので、さほど暗い感じはしないが、『ポケモン』のエピソードとしては、ハッピーには終わらない、とてもさみしい話なのである。
 『ポケモン』の脚本としては、明らかに暴投気味である。
 で、次の僕の脚本は、ポケモンの声に字幕の出る、17話「きょだいポケモンのしま!?」だが、これには、いろいろないきさつがある。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 オリジナリティの話が続いている。
 ところで、先日のことである。
 最近、半月かひと月に1回しか書き込んでいない、なまけものの僕のブログに、今まで知らなかった2人の方からのコメントが入っていた。
 1人は「戦国魔神ゴーショーグン」小説版シリーズの全8冊を初版で持っていてくださり、今も何度目かを読んでいるそうである。
 「ゴーショーグン」シリーズといえば、主に1980年代の小説である。
 今の文庫本と違って、当時の文庫は字も小さいし、1ページの行数も多い。
 1冊読むだけでも面倒だと思うのに、21世紀になっても愛読して下さっている。
 正直、とても嬉しかった。
 もう1人の方は、海外在住の方で、その方が子供の頃観たアニメ『巴里のイザベル』について書いてあった。
 『巴里のイザベル』は、脚本家になることを決めかねていたほど、昔の作品である。
 19世紀後半のパリ・コミューンを背景にしたオリジナル脚本で、これが駄目なら脚本家なんてやめちゃおうと決めて書いた作品だった。
 このコラムをお読みになっている方でもほとんどが知らないだろう、マイナーの極致のようなアニメだ。
 革命などという言葉自体が遠くなった現在、パリ・コミューンという歴史的事実さえご存じない方がいてもおかしくない。
 なにしろ、おひざ元のパリですら、フランス革命はともかく、パリ・コミューンとなると最近はあまり話題にならないらしい。
 それなのに日本のアニメをあまり知らない(ご本人の言葉)海外在住の方から『巴里のイザベル』の題名が出てくるとは、嬉しいを通り越して仰天した。
 なぜ、こんなことを恥ずかしげもなく、手放しで嬉しがって書けるかというと、小説の「ゴーショーグン」も、アニメ脚本の『巴里のイザベル』も、僕のオリジナルだからである。
 今どきの小説は、編集者の意見が入っているのが普通だと聞くが、『ゴーショーグン』の小説は、編集者の方たちがとても丁寧に対応して下さり、全て僕の自由に書かせていただいた。
 校正で、誤字と脱字を修正されただけである。
 『巴里のイザベル』の脚本も、制作者や監督が口を挟むことがなく、初稿がそのまま決定稿になった。
 企画時に言われたのは、「名曲劇場」という枠だったので、音楽をクラシックにすることだけだった。
 『巴里のイザベル』のBGM(背景音楽)には、ショパンのピアノ曲が流れるが、それを決めたのも僕である。
 制作者はパリ・コミューンをフランス革命のようなものと勘違いをして『ベルサイユのばら』のような脚本ができると思っていたらしく、「首藤に騙された」などと最初はぼやいたが、「脚本が面白いからいいや」で通ってしまった。
 作品の良し悪しはともかく、小説「ゴーショーグン」も『巴里のイザベル』の脚本も僕のオリジナルなのである。
 小説がベストセラーだったわけでも、アニメがヒットしたわけでもない。
 『巴里のイザベル』など、惨憺たるものだった。
 そして今、書いてから軽く20年以上経ったそんな作品についてのふたつのコメントが届いた。
 僕は、「こういうのが有頂天な気分というのか?」というほど嬉しい。
 これが、いろいろな人の意見が混じりあった末にできて、それでいながら自分の名前が載っている小説や脚本なら、こんなに、嬉しい気分になれたかどうか分からない。
 作品が売れようが売れまいが……売れた方がいいには違いないけれど……自分の作ったオリジナルが、大切にされているらしいことを知るのは、「嫌な感じー」なはずがない。
 なにしろ、若いころならともかく、おじさんになって、余命のことを考えると「俺に書く才能なんてあったのか? 生きる道を間違えたかなあ?」などと考えながら天井を見上げて不貞寝していることの多い近頃である。
 ふたつのコメントは、点滴100本分(?)以上の効き目がある。
 オリジナルを書かせてくれた方たちへの感謝も今更のように浮かんでくる。
 そんなことを思う自分が、なんだかとてもいい性格の人間になったような気までしてご機嫌である。
 要するに……つまり、日ごろオリジナリティを大事にして、それを表現しておくのは後々になっても、悪いことではないのである。
 いやあ、それを本当に実感しましたよ……。


   つづく
 


■第151回へ続く

(08.05.28)

 
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