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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第155回 人間の言うなりにならないポケモン

 しばらく、休載していましたが、『ポケモン』アニメ版の話の続きを始めます。

 それぞれが、個性豊かなポケモンだが、ゲームにしてもアニメにしてもポケモンの登場順としては、序盤は戦闘能力の低いものから紹介され、次第により戦闘能力の強いポケモンや個性的で魅力的なポケモンが現れ、ゲームのプレイヤーやアニメの視聴者の興味を引っぱっていく。
 31話に登場するディグダは、モグラポケモンとして分類されているポケモンで、土からにょっきり出ている円筒形のタケノコのような小さなポケモンだ。
 その姿は憎めないものの、ゲームのプレイヤーがゲットしても、ポケモンのバトルにはなかなか使い道が見つかりそうにない、戦闘能力的には地味なポケモンだった。
 要するにあまり目立たないし、なぜゲームにそんなポケモンがいるのか、存在理由さえよく分からないポケモンのように思えた。
 そんなポケモンが30話を過ぎてもアニメに登場してこなかったのは、ディグダに1話分のエピソードを消化できるような特徴が乏しく、脚本家の方たちにとって脚本の作りにくいポケモンだったからかもしれない。
 だが、エピソードを作りにくい地味なポケモンというのは、逆の考え方をすれば、ゲームを知っている視聴者ももともとあまり興味を持っていないだろうから既存のイメージというものがなく、脚本家がどんなテーマやストーリーを持ち込んでも許される、エピソード作りで脚本の自由度が高いポケモンだとも言える。
 他の脚本家の方々の担当する、他のポケモンのエピソードが、次々に決まって行く中で、なんとなく味噌っかすのように取り残されたディグダこそ、『ポケモン』のアニメ版に対して、僕が僕なりに抱いているテーマの一部を表現できるエピソードが作れそうで、そのエピソードを書く事になった僕は、内心喜んでいた。
 脚本会議では「誰もディグダのエピソードをやらないなら、シリーズ構成の僕が書くよ」などと、今思えば、僕の態度はシリーズ構成の責任として仕方なくディグダの脚本を書くようにアニメスタッフには見えたかもしれない。だが、僕の本心としては、『ポケモン』アニメの本来のパターンではない、異色のポケモンエピソードをできるだけ書こうと思っていたから、他の脚本家の方たちが簡単にエピソードを思いつけないようなポケモンの話こそ、僕の書きたかった脚本だった。
 今までも何度か書いたと思うが、『ポケモン』のアニメ版が当初目指したのは、最低限1年半の放映だった。
 今現在も1年以上続く新作TVアニメはめったにないが、『ポケモン』放映当時でも、1年半の放映は、かなり強気の目標だった気がする。
 『ポケモン』が10年以上続いている今となっては、いつ終わるか想像もつかない長寿アニメのひとつだが、アニメ化の当初は、元がゲームの「ポケモン」がヒットすると見込んでアニメ化を企画したアニメ制作上層部の先見の明には感心する。しかし、当然、失敗の危険性もなかったわけではないはずで、アニメ化を提唱したプロデューサーは、スタッフに対しては「絶対ヒットする」と強気の発言をしていたが、その分、相当なプレッシャーがかかっていたのではないかと想像する。
 アニメ開始当時の僕としては、元になるゲームの面白さと、ポケモンキャラクターの豊富さで、150話以上……つまり、1年52本として3年は続けられると思ったし、僕自身、それを口に出して強がっていたが、アニメの作り手がその気でも、視聴者がそれを望むかどうかは分からない。
 人気を得て、しかもそれが持続しなければ終わりである。
 それがTVアニメの現状だったから、僕は当初の目標だった1年半を前提にする全体の構成をとりあえず考えていた。
 つまり、80話程度でアニメはクライマックスをむかえ、一応それなりのエンドマークがでるようにするつもりだったのだ。
 もし、それ以上延長する事になれば、クライマックスを後ろにずらし、間にいろいろなエピソードを盛り込んで寄り道すればいい。
 ともかく、放映1話を書いたときから、最終回をどうするかを僕は自分の中で作っていた。
 もっとも、脚本を作り始めた頃から、ゲームの「ポケモン」の第2シリーズが完成に近づいている事も知らされていた。
 だが、その第2シリーズは第1シリーズの続編ではなく、ゲームのプレイの基本的な方法は同じでも、ゲームとしては新しい舞台で、新しいポケモンで一からやり直しになる、新たな「ポケモン」ゲームになるらしかった。
 第1シリーズを終えたプレイヤーは、かなり熟練したプレイヤーである。
 第2シリーズが第1シリーズの続編だとすると、プレイヤーを満足させるためさらに高い難易度が要求される。
 だがその分、第2シリーズからゲームを始める初心者には難しいゲームになる。
 基本は子供向けのゲームである「ポケモン」が、初心者の子供がこなしきれないような難しいゲームになるのは困る。
 子供向けのゲームは、プレイヤーがどんどん成長していくと同時に、生まれてきた子供のプレイヤーが新規に参入してくるのだ。
 かといって、せっかく第1シリーズのゲームのファンになってくれたプレイヤーを逃がしたくはない。
 ゲームの第2シリーズは、できればそれまでのプレイヤーと新規のプレイヤーを同時に満足させるものにしたい、というゲームクリエーターの思いは想像できる。
 それは相当難しい事で、ゲームの作り手の方たちはずいぶん悩んだと思う。
 ゲームのプロデューサーは、満足のいくものができるまでじっと我慢して待つ事にしたようだった。
 結局、第2シリーズの完成は、アニメを作っている我々が知らされた予定より2年以上遅れた。
 けれど、第2シリーズを第1シリーズの続編にしない方針は、アニメを作る側からすればありがたかった。
 第1シリーズを終えたゲームのプレイヤーは、新シリーズになっても、一からやり直しで気持ちをリセットできるが、アニメの場合は、決められた主人公がいる。
 完成される予定の第2シリーズが第1シリーズの続編だとすると、第1シリーズを終えたアニメの主人公は、そうとう実力のある強い存在になっている。
 第1シリーズの展開を終えたアニメの主人公は当然、第1シリーズより強く高い位置にいる自分を目指さなければならなくなる。
 ストーリーもエピソードもどんどんエスカレートせざるを得ない。
 第1シリーズに登場するポケモン以上に強く魅力的なポケモンが次々に出てこなければならなくなる。
 ポケモンの使い手(ポケモントレーナー)として、より高みを目指す主人公と、より強いポケモンの登場……エスカレートはきりなく続くだろう。
 ストーリー上で様々な工夫はされるだろうが、結局は上昇志向だけの主人公と、強くなる一方のポケモン同士のバトルばかりが繰り返されるアニメになってしまう。
 各エピソードの中でなんだかんだと言ったところで、全体から見れば、どんな世界でも強い事はいい事だ……勝ち組になろう、という印象の結論になりがちだ。
 数年後『ポケモン』の大ヒットが誰からも認知されている頃、ポケモンの脚本を書いているあるライターから、言われた事がある。
 「ポケモンの脚本を書いている僕たちは、脚本家の勝ち組ですね」
 それを聞いて、僕はびっくりした。
 脚本家にも勝ち組と負け組意識があるとしたら、勝ち組意識の脚本家に書かれる『ポケモン』は、勝つ事に意義があるというテーマのアニメに自然になってしまうような気がしたのである。
 『ポケモン』アニメの最終的な結論は、勝者の栄光なのだろうか。
 でなければ、『あしたのジョー』か『巨人の星』のように、主人公が力を出し切って燃え尽きるか、仙人のように何か悟りを開いてポケモン世界から退場するのだろうか?
 少なくとも僕は、これから将来のある子供達が視聴者の中心であろう『ポケモン』アニメを、いい意味でも悪い意味でもそんな大人びた結論の出るアニメにはしたくなかった。
 『ポケモン』の世界は、子供の夢見る冒険の世界である。
 でも、いつか大人になり、子供の夢見る虚構の世界から卒業する。
 だが、その時広がる大人の世界を、子供たちに殺伐とした目で見てほしくなかった。
 妙な悟りで受け入れてほしくもなかった。
 かといって、虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供、という人間を育てたくもない。
 『ポケモン』の世界は、子供が大人になる途中の通過儀礼のように描きたかった。
 子供たちには、いつか、『ポケモン』世界の虚構と別れる時が来てほしかった。
 そして、大人になった時、自分の子供時代を懐かしく思い出せるようなアニメにしたかった。
 つまり、『ポケモン』アニメは、ある時期が来れば、『ポケモン』世界との別れのある……つまりエンドマークのつくものにしたかった。しかもそれは、子供が感じる人間の大人の世界への殺伐としたエンドマークでなく、明るく希望に満ちたエンドマークである事が必要だと思ったのである。
 だから、1年半の放映をめどにして、ゲームの第2シリーズ発売の頃に、第1シリーズを元にした『ポケモン』アニメにエンドマークを出し、アニメが好評ならば、アニメもゲームにならって新しい主人公で新しいシリーズの『ポケモン2』を作ればいいと考えていた。
 もっとも、『ポケモン』アニメが始まって、みんなが盛り上がっている時に、シリーズ構成の僕が、すでに『ポケモン』アニメの終わり方を考えていたというのは、アニメを制作している方達の気分に水を差すような感じなので、終わり方については多くを語らなかった。
 実際は、放映当初から終わりを考えていたのは僕だけだったようで、アニメ版に関わった人達にとっては、最初から1年半の放映は当然で、可能な限りの延長を狙っていたようだ。
 放映開始から数年後に本人から聞いたのだが、総監督は最初から10年以上『ポケモン』を続けるつもりでいると言っていた。実際、総監督の予想通りになり、今もご存知のとおり同じ主人公でポケモンは続いている。
 だが、僕にとっては最初の1年半が勝負だ、と思っていた。
 ディグダのエピソードの話に戻れば、全体を1年半、80話前後と考えると、30話あたりは、前半の山場になる。
 このあたりで、クライマックスや80話付近予定の最終回につなるエピソードを入れようと思っていた。
 ディグダというポケモンのエピソードは、前にも書いたとおり、脚本家の自由に書けそうで、最終回への伏線になりそうな気がした。
 そんなディグダのストーリーを考える少し前に、『ポケモン』アニメ版の小説の話が入ってきた。
 僕が小説を書く事に、アニメ関係のプロデューサーはとても好意的に対処してくださった。
 僕が小説を書いている間、脚本を書く時間が少なくなる事を見越して、脚本のレギュラーメンバーを新たに2人増やした。
 どんな形の小説を書くかについては、出版サイドもゲームサイドも、これといった注文はなかった。
 僕の好きなように書けとは言われなかったが、放送されるアニメからよほど逸脱しない限り、何を書いても許される感じだった。
 それだけ、シリーズ構成としての僕を信用してくれてもいたのだろう。
 だが、アニメ版の『ポケモン』小説と言っても、アニメをそのまま文章化して、小説として成り立つとは思えなかった。
 それに、フイルムコミックという形で、アニメの台詞や絵をそのままマンガのような本にしたものもすでに出版されていた。
 そこで、小説として成立させるために、アニメやゲームで描かれていない部分を大幅に書き加える事にした。
 その部分は、誰とも相談していないから、小説に書かれているポケモンの世界観が、アニメ以上に、僕流のポケモン世界観になってしまった。
 一応、ゲームの公式ガイドや攻略本などもチェックしたが、ポケモンと人間の関わりの歴史がかなりうやむやで、多少の記載があるものの、それはゲームの内容に無理矢理、後でこじつけたような、簡単なものだった。
 ポケモンの世界観をきちんと解説しているものはなかった。
 ゲームの場合、プレイを始めれば、ゲーム展開に紆余曲折があるにしろ、ゲームを終えるまで、次々に出てくるポケモンを楽しみながら前進する。
 ゲームのルールを守っていれば、ゲームの世界観がどのように成立したかは、ほとんど気にしなくていい。
 すでにできているゲームの世界観を楽しめばいいのである。
 しかし、小説にしろアニメにしろ、その世界や登場人物には、直接は描かれないにしろ、ストーリーの始まる以前がある。
 その以前があるから、それを元にして登場人物やストーリーが動いて行くのである。
 アニメの『ポケモン』は、ゲームのプレイヤーと同じように、様々なポケモンと出会いゲットしバトルする旅立ちから始まる。
 ゲームのプレイヤーがゲームをする理由は人それぞれだ。
 だが、アニメの主人公には、アニメでは描かれないにしろ、その背景には主人公ならではの事情があるし、ポケモン世界にはポケモン世界の成立の歴史がある。
 それが、主人公の行動や主人公の活躍する世界を決める要素になっているはずである。
 『ポケモン』のシリーズ構成を引き受けた時に、まず僕が考えたのは、ポケモンとは何であるか、ポケモンの世界とは何なのか、だった。
 観念的には、子供時代が夢見る冒険への憧れのようなものだが、具体的にはどういうものかも考えておいた。
 つまり、それがポケモン世界の歴史であり、登場人物達の具体的な生い立ちである。
 それが僕なりにしろしっかりできていないと、シリーズ構成として、アニメ版『ポケモン』のテーマもエンディングも見えてこない。
 で、第1話の脚本を書き上げる前に、ゲームを元にして僕なりのポケモンの世界観を作っておいたのだが、それを文章にしたのが、小説版の『ポケモン』だった。
 幸い、小説の内容について、「ポケモン」のゲームを作った方達からは「これは違う」というクレームはなかったようだから、「『ポケモン』に対して、首藤なりの解釈があっていい」と許してくれたのかもしれない。
 ポケモンの世界観を考えていると、いろいろなテーマが描ける事が分かってきた。
 そのテーマのひとつを追いかけるだけで、それなりのしっかりしたエンディングを迎えられる。
 ポケモンの世界観からテーマがいくつも思いつくのだ。
 それだけゲーム自体の世界観に広がりがあったという事だろう。
 テーマの違う『ポケモン』アニメシリーズがひとつのゲームからいくつもできるが、とりあえず、『ポケモン』アニメ版の大きなテーマとして、人間とポケモンはどういう関わりでいるべきか、という問題を取り上げる事にした。
 人間とポケモンとの最良の関わりは、仲良く共存する事だ、などという甘いものにする気はなかった。
 ポケモンと人間しか生き物のいない『ポケモン』の世界では、ポケモンと人間の関係は現実の世界で言うと、人間以外の生物と人間の関係……つまり、自然界に住む生き物と人間の関係として考える事にした。
 それをふくらますと、自然対人間という事になる。
 『ポケモン』の世界では、人間にゲットされたポケモンは人間の言いなりになって、人間のために戦う。
 見方によっては、まるで人間が自然を飼いならしているように見える。
 だが、本当はどうなのだろうか?
 もともとポケモンという生き物は、人間と簡単に仲良くなれるような生き物なのだろうか?
 小説の中では、ポケモンは、人間の理解不能な不思議な生き物という事になっている。
 ポケモンと仲良しだというのは、あくまで人間側から見た勝手な解釈かもしれないのだ。
 そんな小説のポケモン観をかなり露骨に象徴したポケモンを、アニメでのディグダにした。
 つまり、アニメのディグダは、小説のポケモン観による小説のテーマと、アニメのテーマが重なり合う、アニメ版『ポケモン』の最終回へつなげるために性格づけしたポケモンのつもりだったのである。
 ディグダはある山奥のダム工事の邪魔になるポケモンで、人間にとっては害獣(害ポケモン?)の一種である。
 とはいえ、ディグダは意識的にダム工事を妨害しているわけではない。
 人間と敵対しているわけではなく、ただそこにいるだけなのだ。
 さらに付け加えれば、人間と仲良くする気もなさそうである。
 だからこそ、人間にとっては邪魔であり、人間はディグダを駆除しようと躍起になるが、どうする事もできない。
 そもそも、ポケモンをゲットするモンスターボールが、ディグダには通用しないのだ。
 繰り返すが、ディグダはけして強いポケモンではない。
 しかし、人間の力ではどうにもならないポケモンなのである。
 そんなポケモンが存在する事を、31話の「ディグダがいっぱい」で描いて、80話近辺のラストで、人間とポケモンとの関わりというテーマを語る時の布石にしたかったのだ。
 スタッフからは、「こういう話があってもいい」と面白がられたものの、ラストへ引きずるエピソードとしては、僕の勇み足だった。
 放映開始後、『ポケモン』の人気はどんどん高くなり、とても、1年半では終わりそうでなくなったからだ。
 80話あたりのラストを見据えての31話のディグダだが、シリーズが長く続けば続くほど、ディグダのエピソードはその存在が希薄になっていった。
 放映が3年も続くあたりで31話を思い出してみれば、「あのエピソードは何のためにあったんだろう?」と、首をひねらざるを得ない話数になってしまった。
 『ポケモン』アニメが長くなるのはスタッフにとっては、思惑どおりの結果かもしれないが、番組に人気が出なかった場合、いつ打ち切られても対応できるように、ラストを考えておく習性がついている僕には、それは嬉しい誤算だった。
 結局、僕が考えていたクライマックスとラストシーンは実現せずに、現在にいたっている。
 放映が3年を過ぎたあたりでは、僕自身も、『ポケモン』アニメに御大層なテーマやエンディングは必要ないという気になってきた。
 主人公が仲間やピカチュウと旅をして、様々なポケモンと出会う。
 ジム戦やリーグ戦でポケモンバトルがある。
 ロケット団が出てきて、主人公にからみ、いつもやられて「やな感じ〜」で逃げて行く。
 そのパターンの繰り返しで、同じ繰り返しだからこそ、子供達にとっても、家族にとっても、毎週繰り返される日常的な、まるで空気のようなアニメ番組。
 ほとんど、水戸黄門的アニメであり、「水戸黄門」が長く続いているように、『ポケモン』も続く。
 毎年の行事のように、夏にはゲームのポケモンキャラクターのおまけつきで映画が上映される。
 国民的行事の様相を呈してきて、毎年大ヒットしている。
 それぞれの作品の出来不出来の評価など超えて、『ポケモン』は、今や存在するだけで価値のあるアニメになっている。
 長い間、存在を維持するのは、簡単のようで実はそれなりの大変な努力がいる。
 マンネリの極致のように見えても、ただのマンネリでは飽きられてしまう。
 いつも同じように見えて、毎回どこかが違わなければならない。
 確かに新しいポケモンが次々と出てはくる。
 でも、それだけの新味では10年以上はもたないだろう。
 全体の基本パターンを変えず、番組を長い間持続させるには、とてつもないパワーが必要だ。
 継続は力なのである。
 放送開始以来10年以上『ポケモン』を続けているスタッフを、僕は尊敬の念で見ている。
 しかし、最初の1年半がなければ、後が続かなかっただろう事も確かだ。
 初期の『ポケモン』に関わった僕にとっては、『ポケモン』が上り調子の頃の最初の1、2年はいろいろな事が起こって、今も忘れられない事が多い。
 アニメ版『ポケモン』の人気が高まると同時に、相乗効果でゲームの人気もますます上がっていく。
 アニメ化を企画したプロデューサーの狙いは当たったのだ。
 ついでといってはなんだが、アニメ版の悪役トリオのロケット団のムサシとコジロウ、ニャースも注目を浴びた。
 ディグダのエピソードを書き終えてからは、ポケモンの小説に専念し、シリーズ構成として脚本会議には出席していたものの、しばらくアニメの脚本を書かずにいたら、ロケット団のイメージ曲を作詞してくれという依頼が入ってきた。
 僕の頭の中と書くものはポケモンだらけといってよかった。
 そんな時、更にアニメ制作の上層部の会議に呼び出された。
 『ポケモン』のアニメ映画の話だった。
 ポケモンのあるエピソードを見た子供達が、原因不明でばたばた倒れた事件の起こる数ヶ月前の事だ。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 長い間、オリジナリティの話を続けてきた。
 世界に自分は1人しかいない。
 誰もが、その人なりのオリジナリティがあり、それに自分が気づく事が大切だという事も、繰り返し言ってきたつもりだ。
 だが、そのオリジナリティが、「自分は他の人と違うんだ」というだけでは、ただの自意識過剰、1人よがり、変人、としか思われない。
 あなたのオリジナリティが光る脚本が、他の人に魅力的に見え、相手のオリジナリティを刺激し喚起し、あなたの脚本で相手が持つオリジナリティを表現したい気持ちにさせるものでなければならない。
 アニメにしろ映画にしろ、1人では作れない。
 大勢の制作パートのオリジナリティの結集ででき上がる。
 それぞれの制作パートの人たちのオリジナリティが、充分発揮されてこそ、魅力的な作品ができるのである。
 だが、それぞれのパートのオリジナリティが独り歩きをしたら、作品がばらばらになってしまうと思う人もいるだろう。
 でも、そうはならないはずだ。
 それぞれのパートのオリジナリティを喚起したそもそもの始まりが、脚本が持つオリジナリティの魅力なのだから、他のパートの方たちのオリジナリティは、脚本の持つオリジナリティの魅力をよりよくする方向に機能していくのである。
 出来のいい……つまり魅力のある脚本から出来の悪い作品が生まれる事はあっても、出来の悪い脚本からは、決して出来のいい作品は生まれない。
 アニメであろうと映画であろうと、作品の出来を決めるのはなにより脚本である。これは、昔から常識的に言われている事である。
 出来のいい魅力的な脚本は、通常は見せていないスタッフの本当の実力を引き出すという意味があるだろう。
 だがこれは、脚本家にとってかなり都合のいい理想論である。
 なぜなら、そもそも脚本家のオリジナリティの光る魅力的な脚本が、現実にはほとんどないからである。
 ついでに言うなら、自分が読んだ(または読まされた)脚本に、オリジナリティのある魅力を見つけ出せる脚本読解力のあるスタッフも少なくなっている。
 出来の悪い魅力のない脚本ばかり読んでいると、自然に脚本読解力も落ちて行くのだ。
 読解力のないスタッフに読まれる脚本だから、魅力のない脚本でもOKになる。
 「なんだかつまらない脚本だなあ」と思いながらも、「まあ、いいや……制作スケジュールや予算の都合もあるし……」という事になる。
 スタッフからOKがでれば、脚本家はそれでよしという気になる。
 その悪循環で、脚本家のレベルが次第に落ちて行く。
 原作があれば、そのままを書き写すように脚本にすればいい、という事になってしまう。
 そんな脚本なら、アニメの場合、原作から直接絵コンテにすればいい。
 原作のあるアニメの場合、脚本なんかいらないという事になる。
 自己表現意識の強い監督は、わざわざ他人である脚本家など使わずに、自分の表現したいものを自分で脚本化したり、アニメの場合、直接絵コンテにしてしまう。
 自意識過剰で時々暴走気味になる時もあるが、それでも脚本家の脚本のある作品より出来がよかったりする。
 そんな例があるから、アニメには脚本軽視……それどころか脚本無視、脚本不在の傾向はどんどん広がっているようである。
 脚本家から見れば自業自得である。
 魅力的な脚本が書けないのだから……。
 知り合いの著名な脚本家兼小説家が呟く。
 「脚本を教える学校や本は増える一方だけど、才能のある人はどんどん減っている……もっとも、昔もそうだったけどね……最近はそれがひどい気がする」
 僕も、最近の日本の映画やテレビドラマやアニメを、面白いとも魅力的とも思えなくなっている。
 僕が歳を取ったから時代に感覚が合わなくなっているのかな? とも思うが、魅力のない脚本が多い事も確かだろう。
 では、これから脚本家はどうすればいいのだろう?

   つづく
 


■第156回へ続く

(08.08.06)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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