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第158回 ポケモン事件「ざまあみろ。あはは」で、始まった
今思えば、『ポケモン』小説の1巻を書き終えたあたりから、ロケット団のイメージ曲の作詞、映画版1作目の脚本を書いていた頃の僕は、『ポケモン』人気に対するプレッシャーを感じるとともに、それに負けてたまるかという気持ちも湧き上がっていた。
その頃の『ポケモン』アニメに対する僕のテンションは、いつもの僕の関わる他の作品群と比べても、異常と感じられるほど高かった。
小説の1作目を実際に書いたことで、自分なりの『ポケモン』世界観が、アニメシリーズが開始された時以上にがっちり固まってしまった。
それまでの『ポケモン』アニメに対してのシリーズ構成としての僕の立ち位置は、ゲームを元にしたアニメシリーズをいかに面白くするかのお手伝い気分でいたつもりだった。
だが、どうせプレッシャーを感じるのなら、『ポケモン』アニメプロジェクトの一員としてではなく、直接、僕自身に襲ってくるプレッシャーにしたかった。
作品全体の出来がよくない時に、脚本が悪いという言い方をされることがあるが、それに対して「製作者や監督の意向通り脚本を書いたのだから、脚本家の責任にしないでくれ」という言い逃れもできないわけではない。
作品がアニメシリーズの場合、シリーズの脚本の責任者はシリーズ構成になる。
だから、アニメシリーズの評判がよくなかった場合、「製作者や監督の意向で、シリーズ構成し脚本を検討したのだから、シリーズ構成の責任にしないでくれ」
という言い逃れもできるだろう。
だが、言い逃れのできるものに、プレッシャーを感じる必要はない。
プレッシャーを感じるなら、自分がシリーズ構成したと自分自身が納得できるものでなければバカバカしい。
誰かに責任転嫁できるのなら、プレッシャーなど感じないだろう。
「この作品の出来が悪いのは、シリーズ構成と脚本のせいだ」と言われれば、「出来が悪いと評価されるんだったら、その責任は確かに僕にありますよ」と言えるような作品でなければならない。
確かな責任が取れない作品にプレッシャーやストレスを感じるのは、いささか自意識過剰である。
だが、実際に得体の知れないプレッシャーを感じた僕は、その自意識過剰になりかかっていた。
で、作品に責任が取れるような自分らしさが色濃く出なければ、プレッシャーを感じる意味がないとも思ったのである。
極めて傲慢な言い方だが、あるプロデューサーから、このアニメを書き始める前に「『ポケモン』の首藤と言われるようなアニメにしてください」という言葉をかけられた頃は、「そうしたいですね」と気楽に答えていたが、それから半年ほどして『ポケモン』人気の沸騰に気がついた時、自意識過剰な僕は「首藤の『ポケモン』と言われるアニメにしなきゃ……『ポケモン』アニメの少なくともテーマとストーリー面での責任はとらなきゃ……。そんな気持ちを自分が持てばこのプレッシャーと対抗できるだろう」と感じてしまったのである。
しかし、現実の『ポケモン』アニメは、大きなプロジェクトのひとつである。
アニメシリーズ全体のいたるところに僕の色を入れようとすれば、必ず摩擦が起こる。
たとえば、それまでの僕がシリーズ構成をする作品の脚本家は、ほとんど僕が決めていた。
それぞれのシリーズのエピソードに適材適所の人を探した結果、脚本の素人に書いてもらったり、ひとつのシリーズを、気がつけば30人以上に脚本を書いてもらったり、1本の脚本に1年かかるような脚本作りを平気でやってみたり、脚本家業界(そんなものがあればだが……)からみれば暴挙といわれてもしょうがないだろう。
だが、『ポケモン』の脚本家の方達は、プロデューサー、監督サイドでレギュラーとしてすでに決められていた。
それぞれ、きちんとした脚本を書ける方達だ。
だから、プロットが決まれば安定した脚本が、決められたスケジュールででき上がった。
余談に近いが、当時『ポケモン』には女性脚本家がいなかった。
だからかどうかしらないが、メインが女の子のエピソードになると、ちょっとそのキャラクターがパターンすぎる時があった。
「女性の脚本家を入れたらどうか」と脚本会議で提案したこともあったが、「そうはしたいとは思うけれど、誰かいる?」と逆に聞かれ、答えに窮した。
女性の脚本家は感性勝負のところがあり、しかも、傍目は大人しそうでも、魅力のある脚本の書ける人ほど、理屈は通じないし根は頑固である。
おまけに脚本会議に出席する人のほとんどは男性で、脚本家が女性だと言いたい事も言えない人もいる。
言っちゃ悪いが、この業界の人は、女性に弱いというか、上手く扱えないというか、苦手な人が多い気がする。
よく言えば、女性に気を遣いすぎる人が多いと言えるかもしれない。
悪く言えば、私生活で女の子を口説くのが下手だろうなあ……と、心配になるような人たちである。
女性の感性を理解できないとでもいうか……。あ、この発言、僕は自分のことは棚に上げています。
女性の脚本家がいると、男性脚本家だけの会議のようにビジネスライクにはいかない時もある。
もちろん逆に、物腰の柔らかい女性のほうが脚本を書いてもらいやすいという人もいるだろうが、『ポケモン』の脚本会議は、完全に男の子会議である。
女性の脚本家が、最低でも脚本1本につき4回はある、そんな『ポケモン』の脚本会議に適応できるだろうか……。
その場はにこにこ笑っていても、心の中でへそを曲げられても困るし、会議で出てくる意見に妥協して脚本を書かれても、その人の魅力は出てこない。
女性脚本家に書いていただくには、『ポケモン』の脚本会議はいささか「男性会議」すぎて、窮屈すぎるのである。
結局、この人が『ポケモン』の脚本会議に向いているという女性脚本家は、思い当たらず、僕のシリーズ構成中、女性脚本家はいなかった。
……もっとも、その後、『ポケモン』にも女性脚本家が加わったが。その方は女性的脚本というより、きちんとした脚本が書ける……あ、こういう感想は、ジェンダー問題的発言に取られるかもしれないので止めておく。
余計なことを書きすぎた。
いずれにしろ、僕は小説の1話を書き終えた頃、どうせプレッシャーを感じるなら『ポケモン』アニメに、もっと僕らしさを入れようと思ったのである。
そこに、ロケット団トリオのイメージ曲の作詞の話がきた。
ロケット団トリオは、僕にとっては『ポケモン』アニメの鍵を握る主役である。
しかも、その曲はシングルCDとして出すという。
ロケット団トリオには、今まで以上に目立ってもらおうと思った。
ロケット団のニャースの曲は、すでに、哀愁のある曲ができていい味を出していた。
だから、残るムサシとコジロウを徹底的に売り込む曲にしようと思った。
何かの商品や、他の人を売り込むCM的な歌は多いが、自分で自分を売り込む図々しい歌はあまりない。
あるとしたら植木等の「無責任シリーズ」の主題歌群(知っていますか?)ぐらいしか思いつかない。
他に参考になりそうな歌がないのである。
そこで、彼らの人生観と人柄を盛り込んで、あの手この手で自分を売り込むミュージカル風歌詞にした。
僕自身、100回以上上演した親子向け舞台ミュージカルで作詞をしていて、ミュージカル的な作詞に慣れていた。
しばしばミュージカルでは、自分の人生や気持ちを歌にして観客に訴える場面がある。
1000人以上収容する劇場の場合、親子向けミュージカルになると、半分以上が子供である。
子供が芝居や歌に飽きると、劇場は騒然となって手がつけられなくなる。
なんとか子供を座席に座らせ、舞台に集中させなければならない。
歌の場合、観客を釘付けにする方法がいくつかある。
その方法のうちのいくつかを、ロケット団のイメージ曲の作詞に使った。
何となく聞きなれているような曲で、しかし、あれよあれよという間にそれが変化していく。
つまり、曲の中のメインのメロディははっきりしていて、しかし中盤はめまぐるしく、何が歌われているか分からないような歌詞である。
客は、何を歌っているのか分からなくて、「???」と注目ないしは耳を傾ける。
しかし、何度か聞くと意味が分かったような気がする。
だが、よく考えると、やっぱり分からない。
歌詞もラップ風あり、アドリブ風の会話あり、ごろ合わせあり、おなじみの口上あり、なんだかごちゃ混ぜである。
この曲で分かるのは、ともかくロケット団が自己顕示欲があり、その人生は波乱万丈、しかし、明るく前向きであるということである。
ラストは「明日がある……明日がある……」の繰り返しである。
そして、少しだが彼らに教養があるという事も分かってもらいたかった。七転八倒なんて言葉も知っているのである。
僕としては、ともかくミュージカルの様々な作詞のテクニックを、一曲の中にぶち込んだ。
作曲の方は大変だったろう。
最初の部分のメロディが『宇宙戦艦ヤマト』に似ているとも言われたが、大袈裟な前振りとしてはロケット団らしくていいと思う。
この曲を歌うのはかなり難しいと思うのだが、ロケット団トリオの3人は、苦もなく歌ってくれているように聞こえる。
その曲、「ロケット団よ永遠に」は、YouTubeでも聞けるが……ところで著作権など大丈夫なんだろうか?……その詞を今聞くと、あの時の乗りに任せて勢いで書きまくった感じを思い出す。
作詞するまでは、なんだかんだと考えていたが、書き始めたら、30分もかからなかった。
歌っている声優さんが、目に見える気がした。
たしか、原稿用紙に手書きした記憶がある。
パソコンのキーボードを叩く時間も惜しかったのだ。
かなり、気分がハイになっていた。
ところで、この歌詞には「関門海峡、門司、下関」という部分がある。
剣豪、宮本武蔵と佐々木小次郎が対決したのが、関門海峡の門司と下関の間にある通称、巌流島というところだが、「だからなんだ」と聞かれても、「答えてやるのが世の情け」だとしても、実はなんの意味もない。
ムサシとコジロウが歌っているから、乗りで書いただけである。
すべて、そんな調子で歌詞を書いてしまった。
今後もミュージカルを書くつもりはあるが、「ロケット団よ永遠に」を作詞した時のテンションは、もう望めないだろう。
このCDは、アニメキャラの歌としては驚異的に売れたそうである。
もちろん、『ポケモン』人気に便乗したのだが、主題歌でもなく脇役のイメージソングとしては異例だったらしい。
僕の作詞した歌としても、ケタ違いの売れ方だった。
このCDが発売されたのが、1997年12月10日。
あの事件が起きたのが1997年12月16日。
その日の放送で、CDのCMが流れているはずだった。
映画版の脚本は、決定稿がほとんどできていた。
その12月16日まで、映画の脚本は映画なりにいろいろな事があった。
それは、この次に語る事にしよう。
いずれにしろ、12月16日の事件で映画の脚本も変わった。
12月16日のことは今でも覚えている。
その夜は小田原の漁港近くの仕事場で原稿を書いていた。。
僕は、その日の『ポケモン』を仕事場のプロジェクターに接続したビデオに録画していてまだ見ていなかった。
あとで、100インチのスクリーンで見るつもりだった。
当時、自宅の2歳の娘には、当然、TVを見せてはいなかった。
海と山がそばにある小田原である。
自然が目の前にあるのだ。
『……のポニョ』を見なくても、本物の魚を見る事ができる環境である。
幼児が本来見るもの聞くものはいくらでもある。
友達なら保育園や幼稚園がある。
TVは小学生になるまで見せる気はなかった。
夜10時頃、仕事場の電話が鳴った。
出ると男の声だった。
「ざまあみろ。あはは」
それだけ言って電話は切れた。
何の意味かよく分からなかった。
僕の仕事場の電話番号を知っている人は、そう多くない。
いたずら電話にしても、男1人の仕事場に電話をかけてくる男はいないだろう。
間違い電話かとも思った。
しかし、「ざまあみろ」って、何のざまを見ればいいのだ?
夜の11時頃、妻から電話があった。
「今、東京の妹から電話があって、『ポケモン』が大変な事になっているけど、知っている? って」
「え?」
「今、ニュースでやってる」
すぐに、プロジェクターをつけてTVを見た。
『ポケモン』を見た子供たちが倒れた……それも、日本中で……原因不明……。
誰かに事情を聞こうとも思ったが、日本中が大騒ぎの状態で、どこに連絡したらいいのかのも思いつかない。
プロデューサーや監督は、電話などに対応できる状態ではないだろう。
そして、頭に浮かんだのは、電話の男の声だった。
「ざまあみろ」ってこのことか……。
僕は、ビデオに録画したその日の『ポケモン』を見る事にした。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
前回の『ミンキーモモ』のワンシーン。
○空き地
巨大なUFOが降りてくる。
日本のアニメ史上、かつてなかった華麗なシーンが展開する。
モモ、呆然。
もちろん、真似しちゃいけません。
確実に、シナリオ学校の先生に叱られる。
しかし、詭弁に聞こえるかもしれないが、このシーンは、前回載せた教本のシナリオの見本よりはましかもしれない。
見えるものを具体的に書けといっても、このシーンを書いた本人が、「日本のアニメ史上、かつてなかった華麗なシーン」をイメージできないから、具体的に書けるわけがないのである。
具体的に文章化できないから、そのまま書いたのである。
少なくとも作者のイメージできないイメージを具体的に表現したト書きなのである。
まして、モモは、夢の国から来た少女である。
そのモモが、呆然となる華麗なシーンなど、想像もつかない。
しかし、情景としては確かにそこにあるはずのシーンである。
で、ちゃんと、具体的に書いてあるところもある。
「日本のアニメ史上かつてなかった」という部分である。
なにも「世界のアニメ史上かつてなかった」などと、漠然と表現しているわけではない。
たかだか、「日本のアニメ史上」である。
つまり、監督や演出や絵コンテやその他のスタッフの方に、「あなた達の思っている日本のアニメ史上かつてなかった華麗なシーンで、モモが呆然としてしまうだろうシーン」を要求しているのである。
別に「宮崎駿氏や押井守氏や高畑氏や出崎氏や細田氏や新海氏やその他の方々が思っている日本アニメ史上かつてなかった華麗なシーン」を要求しているわけではない。
あくまで、このシナリオを読んだアニメクリエーターがイメージするシーンである。
そう思えば、かなり具体的になってくるはずである。
「こんなシーンできないよ」と言われれば、「あ、そう。あなたは自分の能力じゃ日本史上かつてなかった華麗なシーンを作ることなんてできないと、自分で認めるわけ」と、僕に言い返されるに違いない。
逆にこのト書き、「あなたなら、日本史上かつてない華麗なシーン」を作れるでしょう」と、クリエーターを煽ってもいるのである。
クリエーターとしては、困るけれど悪い気はしない。
だから、志あるアニメクリエーターなら、「こんなシーンできないよ」とは言いづらい。
予算とスケジュールと様々な条件の許す限り、「自分の思う日本アニメ史上かつてない華麗なシーン」に挑戦するしかないのである。
このシナリオ、ひどいシナリオというより、おじさん脚本家(といっても当時30代なりたて)のずるがしこいシナリオなのである。
しかも、ご本人だって、「日本アニメ史上かつてない華麗なシーン」ができてくるとは思っていないのだから始末が悪い。
で、できあがったシーンを見て「はあ、これが日本史上かつてない華麗なシーンねえ……へえ……」とだけ、感想を言うのである。
本当に嫌な脚本家である。
若いから書けたのかもしれない。
だが、こんなシーンを書いていると、確実に仕事がこなくなることは確かである。
だから、シナリオ人生、1度か2度の必殺技なのである。
つづく
■第159回へ続く
(08.08.27)
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編集・著作:
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