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第166回 ポケモン『ミュウツーの逆襲』のテーマ
『ポケモン』事件は、騒ぎ自体は収まった。
だが、4ヶ月間放送を止めていたために、シリーズ全体の構成は後ろに4ヶ月分ずらさざるを得なかった。
各エピソード自体は、内容を変えず後ろにずれて順番に放送すればいいが、問題は夏に上映される映画『ミュウツーの逆襲』だった。
『ポケモン』事件以前に、2稿で一応完成していたが、TV版とある程度リンクされる予定だった。
TV版の中で、ミュウツーの生い立ちと、サトシとミュウツーの出会い……バトルではなく互いにすれ違う感じのエピソードを映画上映の前に放送しておくつもりだった。
もちろんそのエピソードは僕が書くつもりだった。
劇場にかけるアニメと放送で流されるアニメでは制作にかかる時間が違う。
だから、ミュウツーの生い立ちやサトシとの出会いのTV脚本は、映画上映の4ヶ月前でも間に合うのである。
しかし、『ミュウツーの逆襲』は映画である。
企画されて、完成まで1年はかかるだろう。
脚本は、上映される8ヶ月前には決定稿になっていないと苦しい。
御前様は、『ポケモン』アニメが軌道に乗れば、すぐにも『ポケモン』を映画化するつもりだったようだ。
以前、ミニ4駆のTVアニメシリーズを映画化して、興行的に満足できる結果を得られなかったらしく、今回の『ポケモン』映画は、その復讐戦と考えていたのかもしれない。
「劇場版『ポケモン』は、某会社のアニメに日本では負けても外国では勝てるアニメにしたい」と、アニメ制作会社にはったりに近いはっぱをかけていたが、TVアニメの映画版は、日本国内では『ドラえもん』などのかなりのヒット作品があるが、世界でヒットしたという話は耳にしない。
某会社の国民的超ヒットアニメも外国では、作品的評価はされても、ヒット作品とは言えない。
さすがに、「世界的ヒット」はあくまで理想論で、制作側はほとんどの人が気にしていなかった。
それでも、日本国内ではヒットさせたい。
脚本会議では、色々な案がでたが、なにしろ題名は『ミュウツーの逆襲』である。題名だけ先に決まっているのだ。
ミュウツーは当時のゲームで最強のポケモンである。それが逆襲するのだから、一度は負けなければ逆襲にならない。
ピカチュウやサトシに負けて逆襲するなんて、『ポケモン』世界、最強のポケモンとしては、やることがせこい。
だが、それとは違う『ミュウツーの逆襲』の「逆襲」は、すでに僕自身の中にあった。
自己存在への逆襲である。
つまり、それは存在している自分への「自分とは何か?」への問いかけである。
自己存在を否定してしまえば……つまり、この世界に自分の存在、生きていることが無意味であれば……それは、逆襲ではなく敗北になってしまう。
「自分とは何か」を問い続ける限り、自己への問いかけは、自己への逆襲であり、敗北ではない。
これは、今思えば、いつも僕の書く脚本から離れないバックボーンだった気もする。
たとえば『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、少女ミンキーモモがなぜ、自分がミンキーモモであるのかを問い続ける『ミンキーモモの逆襲』という題名でもかまわないのだ。
ところで、観客動員を意識して、劇場版『ポケモン』には幼児向けの短編も付録的につけることになった。
人間の出てこない、ポケモンだけが出てきて、ストーリーが分からなくても幼児が楽しめる短編だ。
最初はそれも僕に依頼があった。
ビデオやDVDになった時に、付録のアニメの脚本家が本編と同じほうが著作権などの手続きが楽だというのだ。
そんな短編の名作は世界中にあるが、簡単に見えて、実は傑作の域に達するのは長編を作るより大変である。
短編の『まんが世界昔ばなし』を3年もやった僕には、身にしみて分かっていた。
『ミュウツーの逆襲』プラス短編は、とても荷が重すぎる。
で、短編は、他の脚本家の方が書くことになった。
その短編への僕の個人的な感想は「やっぱり……難しいよなあ」である。
ともかく、僕は『ミュウツーの逆襲』に集中した。
ゲーム上、ミュウツーはなぜか遺伝子ポケモンに分類されている。
なぜ、遺伝子ポケモンなのかは分からない。ゲームを作った方たちが、その場の思いつきで付けたのかもしれない。
ミュウツーがいるのなら、ミュウワンがいるのか? と聞くと、「いちおう作ったけれど、没にしたつもりが、ゲームのバグで、ゲームをいじくっていると、たまに出てきてしまう時もある」……ファンにとっては、まともにゲームをしていては出てこない幻のポケモンだそうである。
バグだか何だか知らないが、ミュウワン……つまり、ミュウはいることはいるらしいのである。
そして、ゲームファンにとって、ミュウに出会うことはとても大事だった。
そんな反響をゲームの作り手が意識していたのかしていないのか僕は知らないが、没にしたつもりだったが、ゲームのバグで存在するミュウ、つまりオリジナル。その発展形のミュウツー、けれどミュウのコピーである。このふたつの存在で、映画のテーマはできてしまった。
つまり、やっぱり「自分とは何か」である。
しかし、それが、外国に通用するテーマかどうか、小田原の海を見ながらずいぶん考えた。
御前様が「でき上がった『ポケモン』アニメは、そのままの形で外国で上映するから、がんばれ」と言ったからである。
当時、某国民的アニメ作品を作った会社が、外国向けに分かりやすく編集しなおすという配給会社の要求を、日本で上映したままの形で上映したいと言って断ったという話が話題になっていた。
もちろん、声は吹き替えにするにしろである。
その頃の日本映画は、外国で上映する時は、その国に向くように編集され直すことが多かった。
「日本沈没」(旧作)、「新幹線大爆破」など、日本では3時間近い映画だったが、僕がドイツ版で見たそれは、もちろんドイツ語でしゃべり、1時間半ほどに編集されていた。日本的感情でなければ理解されなさそうなシーンはすべてカットされ、僕から見ればすっきりして、かえって原版より面白かった。
日本で上映された日本映画が、そのままの形で外国で上映されることは少なく、そのままの形で上映すると、外国人には受けないというのが常識とされていた。
だから、日本上映の状態のままで、外国で上映するのは珍しい事でもあったのである。
御前様はそれを意識したのだろう。
『ポケモン』は、日本で上映したままの形で、外国で通用するものを作れと、制作スタッフにはっぱをかけたのである。
しかし、日本で通用しても、外国で通用するテーマ……つまり、普遍的なテーマがあるのだろうか?
アクションが面白ければ、それは普遍的だろう。
でも、それは脚本家の仕事ではない。
演出や作画の仕事である。
セリフの上手い下手も外国語に吹き替えられれば、あまり意味がなくなる。
ようするに、外国に行った日本映画が通用するために、脚本家に求められるのは、その作品が持っているストーリーとテーマである。
生身の日本人が映らないアニメは、キャラクターの無国籍ぶりで、世界に通用する。
現に登場するキャラクターは、ピカチュウ以外、別の外国名で呼ばれている。
実写映画に比べれば、日本のアニメは外国に対して通用しやすい。
アクションが派手なら、外国の子供にも受け入れられるだろう。
ストーリーも単純なほうがいい。
だから、外国にも受け入れられそうな劇場用『ポケモン』の脚本会議用というか御前様用のプロットは簡単にできる。
最強のポケモン・ミュウツーが、我こそ最強のポケモンマスターであることを表明するために、優秀なポケモンマスターを集めてポケモンリーグを開く。
その時点で、サトシはピカチュウの協力もあって優秀なポケモンマスターのひとりだった。
当然、サトシはバトルに参加する。
そこに、ミュウが現れる。
「ミュウツー、でかい顔するな……所詮、おまえは、俺のコピーでしかないのに……」
かくして、ミュウツー、ミュウ、サトシを含むポケモンマスターの三者入り乱れての壮絶な戦いで、勝ったのは誰か……?
これだけのプロットで脚本はGOである。
このプロットを読んだ人は、それぞれのストーリーの展開を思い浮かべる。
多かったのが、サトシとピカチュウとの友情の勝利で、しかし、代償は大きかったという展開である。
冗談か本気か知らないが、「ピカチュウが友情に殉じて最後に死ねば、観客はみんな感動して泣きます。それだけでこのアニメ、ヒットしますよ」
という人もいた。
泣きました、感動しました――それで、ヒットした映画はいくつもある。
昔、TBSで初めてのステレオTVアニメ――今は普通だが、ようするに右と左から違う音が出てくる2チャンネル、今では後ろから音の出てくる5チャンネル・6チャンネルが普通に売られている――で、1時間半のアニメ『杜子春』を書いたことがある。
芥川龍之介の原作が有名だが、それをそのままアニメにしたのでは、15分か30分で終わってしまう。
で、芥川龍之介が元本にした中国の物語や、中国の伝説を参考にして、母と子の愛憎の物語に書き換えた。
だからタイトルは「芥川龍之介『杜子春』より」になっており、芥川原作とはなっていない。
作品の中で、ひとこともしゃべってはならない設定の主人公が、思わず「お母さん」と叫んでしまう原作でも有名な場面は、泣いた人が多かったそうだ。
この作品の重要な役、仙人の声をやっていただいた宇野重吉氏は……日本の演劇界では、歴史的な人です……「面白い『杜子春』だね」と乗ってくださり、監督の斎藤武市氏……この方は「愛と死を見つめて」という吉永小百合さんの難病映画で、昔、空前の大ヒット映画を作った人です……から、日本の「泣き」は、首藤君で10年大丈夫だと言われた。
つまり、見ている客を「泣かせる」方向にもっていくのが上手いということなのだ。
この方達の名前を出されても、読者はほとんど、ちんぷんかんぷんだろうが、映画やアニメが好きな人は、ネットで検索して損はないと思う。
実は、このコラムに名前の出てくる映画関係の有名な人を、今のアニメ好きの読者が知っているかとても不安である。
いちいち説明するのは大変なので、ネットで検索してくださいというしかない。
そのネットの記載も、あてにならないことも多い。
それはともかく……。
斎藤武市氏という日活(現・にっかつ)の「泣き」ならおまかせ監督から「泣きの首藤」と言われても、実は、ほとんどうれしくなかった。
僕は、そのシーンを、人を泣かせる意図で書いたつもりではなかった。
『杜子春』は、「本来の自分とは何か?」と思い続けたあげく、それまでひどい仕打ちを受け、憎んでも不思議はない人に対して、「お母さん」と呼びかけ叫ぶことで「本来の自分」の答えを見つけるというテーマである。
それで、観客が泣くのはその人の勝手である。
だが、それが日本的情緒の母と子の愛への涙だとしたら、僕はそれを意図してはいない。
ま、余談に走った気もするが、ともかく、その時の若さと生意気さもあって「泣きの首藤」と呼ばれるのはうれしくはなかった。
だから、『ミュウツーの逆襲』で観客に泣いてもらおうなどと、少しも思っていなかった。
それより、「自分とは何か」というテーマが世界に通用するかが問題だった。
子供は誰でも、生まれて物心ついたころ、「ここはどこ?」「私は誰?」という疑問を持つだろう。
だが、その疑問が長続きするのは、日本だけのような気もする。
なにしろ、外国には神様がいるのである。
それも、八百神の神の日本とは違い、ほとんどがおひとり様(?)の神様である。
それぞれの国に相当に絶対的な神様がいる。そして宗教が人間の基盤にある。
キリスト、イスラム、ヒンズー、仏教etc……それらはそれぞれいろいろ分家しているけれど、基本、「自分とはなにか?」と疑問を持てば、神様が答えてくれる。
「あなたは神の子よ」である。
人間が自己存在を問う時、神様が答えを用意してくれているのである。
で、「あんたの神は、違う」などということで、宗教戦争が起こったりする。
「自分とは何か?」を考えるのは、神様のいる世界では時間の無駄のような気もする。
「自分とは何か?」というテーマは、世界には通用しない。
まして『ポケモン』は、子供向きのアニメである。
「自分とは何か?」との問いに「パパとママの子よ」と言われればそれまでである。
「世界に通用するテーマを持つアニメ」
小田原の海を見ながら、頭がおかしくなりそうだった。
港の自動販売機で酒を買った。
酒を飲みながら海を見ていたら、ふと思い出した。
「あ、キリスト教世界にはルネッサンスがあった」
『ミュウツーの逆襲』は、ルネッサンスを思い出した事から全貌が見えてきたのである。
『ポケモン』とルネッサンスを結びつけるなど、僕は、そうとうおかしい人間かもしれない。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
『うる星やつら』2作目のプロットは、多少、小細工した。
プロットは、制作に関係する様々な人に読まれる。
そして、皆さんの同意を得て、脚本へのGOサインが出ればいい。
できるだけ、分かりやすく、面白そうで、読みやすく、短いほうがいい。
できれば、原稿用紙1枚で書ければベストである。
もっとも、そんな奇跡的なプロットは、僕自身、一度も書けたことはない。
さらに言えば、僕のシリーズ構成した作品は、原稿としてのプロットがないものも多い。
脚本家本人とおしゃべりして、文字化しないでプロットができてしまうのである。
監督ともおしゃべりが多い。
「こんな話、作っているけどいい?」
「まかせるよ」と監督。
ないしは、「それ、まずいんじゃない?」と監督が思えば、べらべらとおしゃべりが続く。
直接、会う場合もあるし、電話も多い。
番組がはじまれば、アフレコスタジオでプロデューサー、監督、脚本家、僕、時としては音響監督、声優までおしゃべりに加わることがあるから、文字化したプロットなど必要としない場合も少なくなかった。
小田原に住んでいるときは、脚本家の方達や監督と電話して、家賃の倍以上、電話代がかかっていた。
『アイドル天使 ようこそようこ』の時など僕が途中で入院したから、公衆電話で打ち合わせである。
テレホンカードのない時代だからバッグに10円玉を山のように入れていた。
しかし、映画ともなると、関わる人が多くなる。
やはり、原稿化したプロットが必要になる。
『うる星やつら2』のプロットは色々な人の目に触れたはずである。
原作者の高橋さんとも、プロデューサーの落合氏や監督の押井氏とも、プロットについて話し合った記憶はない。
で、提出したプロットで脚本を書いてくれという依頼があった。
しかし、このプロット、僕としてはちょっと小細工したところがあって、高橋留美子さんの『うる星やつら』ではなく、別の『うる星やつら』になる危険性があったのである。
第1作目の『オンリー・ユー』は、高橋・金春コンビの脚本に、男の押井氏が割り込んで、なんだか変な『うる星やつら』になっていた。
2作目は、金春さんが押井監督に腹を立てて抜け、高橋原作、押井監督、首藤脚本のはずであった。
もしも、押井氏が僕の脚本でやる気があれば、もっと変な『うる星やつら』ができたかもしれない。
しかし、僕が聞いたのは、押井氏は、このプロットでは自分が降りる、である。
脚本のGOサインがでてから、監督が降りるというのは変である。
監督がやりたくなければ、脚本のGOサインは出ないはずである。
僕のプロットは、いまさら使いようがないので、
僕のブログ
の未発表作品の欄に載せてある。
実はこれ、トリッキーなプロットなのである。
ところでこのコラムを書こうとしている最中、今は亡くなったプロデューサー落合氏の著書を、このコラムの担当の方が手に入れてくれた。
そこには、『うる星やつら』の映画1作目と2作目のいきさつが書かれてあった。
僕の知っている『うる星やつら』2作目とは、ニュアンスが違っている。
押井氏の語る『うる星やつら』、原作者、金春さん、プロデューサー、原作の編集長、アニメをTV放送していたプロデューサー他、いろいろ立場でニュアンスが違うのである。
まるで、芥川龍之介の「藪の中」である。
だから、僕の立場から、この『うる星やつら』のごたごたを語るしかない。
だけれども、このコラムは、アニメの脚本家に関心のある人に向けて書いている。
少なくとも、このごたごたは、今のアニメ脚本の世界から比べれば、そうとう高度なレベルである。
今のアニメ脚本家のレベルは、アニメに脚本なんかいらないよ……と言われかねないほど落ちていることを否定できない事をお忘れないように……。
つづく
■第167回へ続く
(08.12.03)
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編集・著作:
スタジオ雄
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