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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第169回 『ポケモン』ここはどこ? 私は誰?

 一度はやりたかったファーストシーンとは、主人公のモノローグによるテーマの表現である。
 普通、演劇にしろ映画にしろ、どんな表現も、観客を意識して作られている。
 見る者に、主人公の情景や状況を紹介してから、作品のテーマを提示する。
 つまり、まず、見る者へのコミュニケーションを図ってから、テーマを分かってもらおうとする。
 いや、分かってもらわなくても、とりあえず見てもらってから何かを感じてもらおうとする。
 何が描いてあるのか分からないような抽象絵画でも、聞き始めは相手に何を感じてもらうのか分からない音楽にしても、まず相手とコミュニケーションをとってから、作者は、自分の訴えたい何かを、相手に伝えようとする。
 だが、モノローグは、自分が自分に語りかけていて、相手を意識していない。
 いわゆる一人芝居だ。
 古くから演劇に多い手法でもある。
 しかし、それにしても、自分が自分に語りかける様子を客に見せて、何かを客に訴えようとする。
 シェークスピアの「ハムレット」の有名なモノローグ「To be or not to be」にしても、いろいろ日本語訳があって、有名なのは「生きるべきか死ぬべきか」だろうが、「存在か非存在か」とか「ある、ない」などなど様々な訳がある。
 そもそも英語の分かる人にとっても、このセリフは人によって様々な受け取り方ができるだろう。
 いずれにしろ、このセリフは「ハムレット」の大きなテーマのひとつだが、それにしても、そのセリフは劇中で語られ、ハムレットのおかれている状況が観客にはすでに知らされているから、効果があるモノローグとなる。
 ハムレットの状況を知らずに、いきなり劇の冒頭に、「生きるべきか、死ぬべきか」というモノローグ聞かされたら、なんのことだかさっぱり相手(つまり客)には分からないだろう。
 そもそも、物語(ドラマといってもいい)の作法は、ストーリーの展開が進むに従って、その作品のテーマ(訴えたいこと、感じてもらいたいこと)が相手に分かってくるというのが、常道なのである。
 ドラマツルギーなどという言葉がある。
 ストーリーの展開が進めば進むほど、何が何だか分からなくなってしまう作品もあるが、何が何だか分からないのがその作品のテーマだと思えば、それも許されるだろう。
 不条理ドラマなどという言葉もある。
 しかし、ファーストシーンで、主人公の状況も相手に知らせずに、自分で自分に作品テーマをしゃべってしまう作品は少ないだろう。
 下手をすれば独りよがりという非難を浴びる。
 しかも、商業ベースのアニメ映画だからなおさらである。
 『ミュウツーの逆襲』には、「ミュウツーの誕生」をダイジェストしてタイトル前に加えたDVD完全版とか、テレビ放映版とか、いろいろなバージョンがあるが、最初の劇場公開版脚本はミュウツーのモノローグから始まる。
 「ここはどこだ? 私はなんだ?」
 つまり、いきなり、観客は作品テーマを、わけも分からず聞かされるのである。
 別に、こけおどしで、こんなファーストシーンを書いたわけではない。
 このテーマは、不摂生で病気がちでいつ死んでもいいような誰が見ても中高年のおじさんの僕でも、いまだに自分自身の事として考えてしまうことなのである。
 で、おそらく、頭がぼけてわけが分からなくなるまで、一生考え続けていくだろう。
 「ここはここだ。私は私だ。そして、私の生きる世界は○○だ」などという悟りを持てるような立派な人間にはなれそうにない。
 だからといって、世界中の子供が見るかもしれないアニメに、「ここはどこだ? 私はなんだ?」というセリフをいきなり持ってきていいのか?
 いいと思ったから書いた。書くべきだとすら思った。
 人間が生まれた瞬間……つまり、母親の胎内から出てきた瞬間、明快な意識などないだろうが、たぶん感じるのは「ここはどこだ? 私はなんだ?」だと思うからだ。
 だから、この世に存在してきたことを、悲しいのかうれしいのかそれは分からないけれど、ともかく存在していることを主張するために、生まれてきたばかりの子供は激しく泣くのだと思う。
 それは、誰もが持つ、意識的にしろ無意識的にしろ、少なくともこの世における自己存在を自分が確認するまで続く、自分への問いかけだと思う。
 「自我の目覚め」という言葉があるが、「自我」は、人間が生まれてきた最初から持っているものだと僕は思うのである。
 ただそれを、幼児は言葉で表現できないだけなのだ。
 ……とまあ、僕はずいぶん子供のころからそれを考えていた、と言うなら大げさだが、感じてはいたようである。
 余談に近いが、芥川龍之介の作品に「河童」というのがあり、いつ読んだのかは忘れたが、10代の頃は好きだった。
 河童は、生まれてくるときに、聞かれるのである。
 「あんた、この世に生まれたい? 生まれたくない?」
 「こんな環境で、今の世の中、生まれたくない。私は誰にも産んでくれと頼んだ覚えはない」と答えれば、生まれてこないですむのである。
 生まれてきてしまって、「こんな世の中に生まれて来なきゃよかった」と嘆くことはないのである。
 河童には、胎児に「生まれてくる。生まれてこない」の選択肢があるのだ。
 しかし、人間にはない。
 生まれちゃったものは生まれちゃったものである。
 「ま、いいか」で、生きていくのが、お気楽である。
 もっとも、芥川龍之介という人は「世の中に漠然とした不安」を感じて自殺した作家だから、「河童」における芥川龍之介のテーマは、お気楽ではなかったのだろう。
 いささかうつ状態でこの作品を書いたのかもしれないが、作品の解釈は、作家の手を離れ読者の勝手である。
 僕は「世の中に漠然とした不安」は感じるが、死ぬほどのことはない。
 まして、「こんな世の中」を恨んで、この世の中に生きている他人を殺すほどのことはない。
 僕が河童だったら、「誰にも頼んだ覚えはないけれど、胎内では外がどんな世の中か分からない。面白そうだから、とりあえず生まれてみます」と答えるだろう。
 で、生まれてみてから「ここはどこだ? 私はなんだ?」ってなもんである。
 「自己存在」などという哲学もどきの言葉を使わなくても、たぶん、この世に生まれた人間、特に子供たちは、「ここはどこ? 私はなんだ?」というセリフの意味は理解できなくても、このセリフに何かを感じるはずだと思った。
 いや、理解できないほど、インパクトが強い。
 なぜなら、「ここはどこ? わたしはなんだ?」という疑問の答えは、本当にわけが分からないからである。
 しかし、わけが少しは分かっているはずのおじさんが書く作品の冒頭のセリフとしては、「何をいまさら」と言われそうで照れくさいし、中高生の演劇台本のようで青臭い気もする。
 しかも、分かっていてやろうとするドラマツルギー無視だから、恥ずかしい気もする。
 しかし、物語が始まっていきなり出てくるセリフとして書きたくてたまらなかった。
 それも、これから、自分の人生を作っていく子供たちに聞いてもらいたいセリフだ。
 だが、そのセリフは、聞いた人の人生を左右するような深さで響いてほしかった。
 薄くて茶番に聞こえるようなら、書かないほうがいい。
 だからたぶん、アニメや喜劇の中で、ギャグでこのセリフを書く事はあるかもしれないが、シリアスに、しかも冒頭に持ってくる脚本を書く機会はないと思っていた。
 そこに『ミュウツーの逆襲』と市村正親氏が現れた。
 当初、TV版とリンクしている予定だった『ミュウツーの逆襲』は、映画版の前に、ミュウツーがTVに登場しているはずだった。
 だから、脚本はそれを前提に書かれていた。
 それが、ポケモン事件のために番組が休止され、ミュウツーを紹介する回までストーリーが進行しなかった。
 つまり、映画版でいきなり、観客の前にミュウツーが現れるのである。
 脚本のメインタイトル前の数分で、ミュウツーを紹介しなければならない。
 要するにミュウツーがいきなり出てきて、いきなりテーマを語ってもらう条件がそろった。
 しかも、市村氏である。
 だからといって、ミュウツーに、登場するとたんに歌って踊ってもらおう、と言うのではない。
 そういう登場人物の紹介をするミュージカルもないわけではないが、市村氏に望むのはそれではない。
 市村氏はシェークスピア流のストレートプレイ(演劇)の名優でもある。
 基本、シェークスピアのセリフはソネット(定形詩)で形成されている。
 だから、日本語訳は難しいのだが、それを、日本の舞台で観客の心に届ける演技とセリフのできる人なのだ。
 市村氏のミュウツーを想定してメインタイトル前の脚本を書くのに、数時間もかからなかった。
 その脚本は、思った通り賛否両論だったそうだ。
 しかし、否定論の先鋒、御前様は、映画版の脚本とその制作に口を出す時間も余裕もなかったようだ。
 ポケモン事件の収拾と『ポケモン』TV放送再開に忙しくて、映画版まで、手が回らなかったらしく、脚本直しの注文はなかった。
 『ミュウツーの逆襲』は、御前様の考えていた作品とは、ずいぶん違っていたようだ。
 暗すぎる、派手さがない――御前様のヒット理論にはないはずの作品だったようである。
 話は飛ぶが、1年以上後、『ミュウツーの逆襲』が大ヒットしたのち、あるプロデューサーに聞いた。
 「『ミュウツーの逆襲』には、御前様も納得してくれたんでしょう?」
 「いいや、いまだになんだかんだと文句言っていますよ」
 御前様にとっても、予想以上のヒットだった事には違いない。
 しかし、それは御前様の望んでいたタイプの作品のヒットではなかったようだ。
 で、話を元に戻すと、『ミュウツーの逆襲』での市村氏は、脚本の読み込みはさすがだった。
 「ミュウツーの性格はオペラ座の怪人ですね?」と市村氏は僕に言った。
 もっとも、氏はフランクな人だから、言い方は違っていた。
 「オペラ座まんまじゃん」
 「はあ」僕は軽く笑ってうなずいた。
 実は、分かる人には分かる「オペラ座の怪人」へのオマージュが、『ミュウツーの逆襲』には、ワンシーンだけあるのだ。
 市村氏は、ミュウツー役を気にいったようで、ミュウツーの大きな刺繍をしたシャツを自家製でわざわざ作り、着用していたそうである。
 「自分とはなんなのか?」
 自問自答を続けるミュウツーは、市村氏の力で、とても深みのある人格(?)になった。
 実は、『ミュウツーの逆襲』には、まだ、他のテーマも含まれている。
 それを引き出してくれたのも、市村氏の力が大きい。
 『ミュウツーの逆襲』を見た、『ポケモン』に関わりのないアニメプロデューサーが、僕に会うなり、なかばあきれた顔で言った。
 「『ポケモン』の映画って、あんなことまでやれるんですか?」
 つまり、TVアニメの映画化としては、普通ありえないことを、平気でやってしまったのである。
 最初の上映でそれに気がついた人も多かった。
 もちろん気がつかない人もいた。
 だが、多くの子供は、中学、高校それ以上の歳になって、再放送やDVDでこの作品を見直して気がついたようだ。
 今、『ポケモン』映画は10作以上作られている。
 おそらく、『ミュウツーの逆襲』で語られていたテーマのひとつは、今までも今後も、映画にしろTV版にしろ絶対に出てこないはずである。
 出てくるとしたら、『ポケモン』の終わりが決まった頃だろう。
 今の勢いでは、『ポケモン』が終わる気配はない。
 だから、このテーマは出てこない。
 そんな話は、次回かその次の回に触れることになるだろう。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 結局、僕にとって『うる星やつら』は、やぶの中である。
 僕の脚本が完成後に、監督が勝手に絵コンテで、現在残る『うる星やつら2』を作ったとしたら、著作権やらなにやらで大騒ぎだが、脚本は完成せず、プロットの段階で終わっている。
 気分はあまりいいとは言えないが、ともかく円満解決である。
 亡くなった落合氏のこの映画に関する記述も、曖昧である。
 僕のプロットの前に、没になった監督のプロットがあったはずなのだが、それには触れられていない。
 では、なぜ、友引高校の一同が自主映画を作るという没になったプロットの内容を僕は知っているのだろう?
 僕の記憶が怪しいのだろうか?
 『うる星やつら』1作目についてのトラブルは、僕は関わっていないので、全く言いようがない。
 ただ、監督が金春智子さんの脚本とキャラクターデザインだけを渡されて、絵コンテを書いたというのは違うらしく、別の方の描いた絵コンテがすでに完成されていて、現実に存在しているそうだ。
 だとすると、誰かがその絵コンテを没にした。
 その後、金春智子さんの脚本をもとにして、監督はそれに大胆な脚色をした新たな絵コンテを書いて、それが作品になったことになる。
 いずれにしろ、『うる星やつら2』のほうは、良くも悪くも日本のアニメ界に大きな影響を与えるアニメになった。
 作った監督自身が、自作の影響から抜け出せていない気すらする。
 このコラムは、脚本に関心のある方へ向けて書いている。
 だから、僕が言えるのは、脚本家に対して無口な監督は気をつけようということである。
 脚本がどう変えられるか分からない。
 喧嘩になっても、監督とはよく話し合ったほうがいい。
 プロデューサーの話では、プロット段階で降りると言い出したと聞く『うる星やつら2』の監督は、ある意味では誠実かもしれない。
 でき上がった作品も、これもある意味、笑えるからいいでしょう、である。
 しかし、脚本に対して何も言わず、絵コンテができてびっくり、企画当時の全体のストーリーと違うものを作られて、名前が僕、というのはとても困る。
 二次使用の著作権が絡むから、僕の名前を消せともいいづらく……日本脚本家連盟としては、脚本の1行でも脚本家が書けば権利主張できるから、名前を消すなという姿勢らしい……でもって、ろくでもない作品に名前が出て、評判がたおち、名誉挽回しなければ死ぬに死に切れない。
 で、脚本家の要ともいえるシリーズ構成というのは、人によってやり方が違うようだが、今のところ、公式には著作権はないらしい。
 楽なシリーズ構成法もあるだろうが、僕の本来のやり方は手間もかかり疲れるのである。
 この歳になったら2度も3度もやりたくないし、どうせやるのなら、今までにない面白い作品にしたい。
 今日はクリスマス・イヴである。
 そういえば、サンタクロースの話も、ずいぶん書いていない。
 サンタクロースほど、じいさんにはなっていないつもりだが、せめて、書くものだけは、みんなからクリスマス・プレゼントのように喜ばれたいものである。

   つづく
 


■第170回へ続く

(08.12.24)

 
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