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第185回 『ポケモン』映画2作目へ
『ミュウツーの逆襲』のアメリカでのヒットのご褒美ともいえるラスベガス旅行に、僕が参加しなかったことについては、いろいろ言われたらしい。
スタッフの方たちも、僕が旅行を断ったことが意外だったらしい。
飛行機が嫌いなの? と、あるプロデューサーから聞かれたが、確かに他人が操縦する飛行機は好きではないが、結構、外国には飛行機で行っているのである。
ただし、観光旅行は一度もない。自分にとって必要な取材とか、どうしても会わなければならない人が外国にいるために外国に行かなければならない旅行だけ。周りに愛想をふりまかなければならない招待旅行の類はごめんである。
特に、今回の旅行は『ミュウツーの逆襲』がらみである。
この映画のテーマについての話題が出るだろう。
ろくに英語もできないのに『ミュウツーの逆襲』についての解説を求められたら、考えただけで頭が痛くなる。
それに、旅行に参加しなかった理由にしたスケジュールの問題もあった。
当時、規模は小さいが、ミュージカルを書いていたのである。
ニュートンとエジソンとキューリー夫人とアインシュタインが時空を超えて自己存在を語り歌うというちょっとシュールなミュージカルである。
ミュージカルは歌詞と曲と踊りのコンビネーションで、かなりな手間がかかるのだ。
しかも、舞台は毎回、生ものである。
何が起こるかわからない。
実は脚本も歌詞も曲もその時にはできていた。
「『ポケモン』のヒットとミュージカルの規模じゃ比較になりません。ミュージカルのホンはできているんだし、あとはスタッフに任せて、アメリカに行ってきたらどうですか?」
ミュージカルのスタッフだけでなく知人からも忠告されたが、僕にとってはそのミュージカルも『ミュウツーの逆襲』も僕の書いたものとしての差はない。
しかも『ミュウツーの逆襲』は、完成して結果が出ている。
ミュージカルは現在進行形である。
客の反応、演技者の乗りで台本を書き直す必要も出てくるのである。
もちろん、信頼できる演出家もいるし、舞台監督もいる。演技するキャストとも充分話している。
それでも、作家が必要な時もあるのだ。
事実、公演の第1回で問題が出た。
フィナーレで、作曲家は最も自信のある曲を持ってきた。いい曲である。
しかし、フィナーレとしては、盛り上がりに欠ける。
客の盛り上がりがいまいち足りない。
スタッフが集まる。
フィナーレに歌われた曲は作曲家にとってそのミュージカルの中で、最高の自信作である。すでに、その曲をフィナーレにしたCDまで作っていた。
しかし、生の観客のいるミュージカルのフィナーレには、どうもそぐわない。
スタッフが迷っている。
こうなったら、作家がどう思うかしかない。
僕は作曲家の意見を押し切ってフィナーレの曲を別の曲に変えた。
2回目の公演で、客の反応ががらりと変わった。
作曲家本人が驚いたほど、フィナーレが盛り上がった。
そのミュージカルは小品である。DVDはなく、ビデオが残されているだけだ。
しかし、そのミュージカルにとっても、僕にとっても、アメリカに行かなくてよかったのである。
それでも、僕がラスベガスに行かなかったことは、いろいろ噂になったようだ。
困った噂としては、それまでもいろいろ作品内容に否定的な意見を言っていて、いざヒットしたとなるとご褒美の旅行を企画した御前様の顔をつぶす嫌味な行為、と思われた節もあったようだ。
御前様にとってみれば、ポケモンピカピカ事件の処置でさんざん苦労した後の大ヒットである。
はしゃぎたい気持ちもわかる、
出版社の社員としての評価もぐーんとあがったろう。
だから、僕が旅行に参加しなかっことは、そんな御前様の気持ちに水をぶっかけたような感じにとられても仕方ないのかもしれない。
実際、御前様もいい気持ちはしなかったらしく、以後の会議では、なんとなく僕を否定する発言が露骨になってきた感じはある。
でも、僕が御前様にあえて逆らったというのは誤解である。
作品をヒットさせる方法論がかみあわないのだから、雇われシリーズ構成の僕が何を言っても無駄ということなのだ。ある日、総監督に言ったことがある。
「僕は会議では何も言わないから、総監督が御前様には適当に答えてよ」
だからといって脚本を書くのは僕である。
自分の気に入らないものを書いて、自分の名前が出るのはごめんである。
逆らう気はないが、御前様の意見をかなり無視したことは確かである。
それに、ミュージカル以外にもポケモンの次回作の映画のことも考えなければならない。
ラスベガスで遊んでいる余裕はないのである。
なぜなら、『ミュウツーの逆襲』完成後、TV版『ポケモン』の状況は変わっていた。
ゲーム版の「ポケモン」の完成が遅れたのである。
よりよいゲームを作るため、ゲームの完成が遅れることはよくある。
僕が原作だった「永遠のフィレーナ」という小説のファミコンゲームも、気が遠くなるほど完成が遅れた。
そのために、ビデオと小説とゲームがリンクして発売される予定が意味のないものになった。
ゲームの完成時期があてにならないことを「ゲーム時間」と呼ぶそうである。
よりよいゲームを作りたい……それはゲームの製作者としては、当然の姿勢である。
だから「ポケモン」ゲームの製作者を責めるわけにはいかない。
とはいえ、TVアニメは最初のゲームの内容を消化してしまった。
あるプロデューサーがぼやいた。
「こんなことなら、もっとゆっくりポケモンを紹介していけばよかった」
当時のポケモンは151匹……1匹ずつエピソードを作れば151話できるはずだったのである。
しかし、いまさら言ってもしょうがない。
次のゲームができるまで、オリジナルのストーリーを作らなければならない。
いろいろなアイデアが脚本会議で出た。
シーブヤを皮切りにシーナガワからキョートまでトーカーイドー53の町を旅する話……これ、僕のアイデアだったが、最初のみっつの町ぐらいで終わった。
続いて、海にすむラプラスというポケモンが好きな総監督は、海の島々を旅する筋書きを考えた。
これが、いわゆる、オレンジ諸島編である。
つまり、次のゲームができるまでのつなぎシリーズであり、考案者は総監督である。
本来アニメで、水と炎は描写が難しいと言われていた。
これは特撮でも同じことが言われている。
CG全盛の現代も、なんだか水と炎は違和感のある方が多いだろう。
しかし、『ポケモン』のアニメ描写は、いかにもアニメ(マンガ)チックである。
海をリアルに描く必要はない。
だから、海や島が舞台でも、まあいいか、と少なくとも僕は思った。
映画の2作目は、オレンジ諸島編の間に上映されることになる。
ということは、『ミュウツーの逆襲』の続編は、舞台は海と島が舞台にならざるをえない。
『ミュウツーの逆襲』はヒットしたが、当初は、暗い、重い、爽快感がないと言われていた。
まあ、いってみれば、『ミュウツーの逆襲』はピカピカ事件のどさくさにまぎれて作ってしまい、結果的にヒットしたようなものだ。
まだ、ヒットが確定的でなかった時点では、じゃあ、次は冒険活劇にしましょう、なんて適当に言っていたのである。
だが、『ミュウツーの逆襲』がアメリカでヒットした以後は、適当に言っていられなくなった。
アメリカは冒険活劇映画の本場である、
冒険活劇アニメで日本のアニメが勝負できるか?
僕は冒険活劇が嫌いではない。だから、なおさら、アメリカの冒険活劇作法のうまさがわかる。
正直、頭が痛くなった。
おまけに「自己存在」をテーマにした『ミュウツーの逆襲』の続編である以上、さりげなく「共存」のテーマを入れ込みたかった。
いや、そういうテーマがなければ、アメリカ映画に冒険活劇だけで勝てるわけがないのである。
どうすればいい? 当時、あるプロデューサーにかなりヒステリックに言った覚えがある。
「冒険活劇って難しいんだよ。そんなときにラスベガスでへらへら遊んでられる?」
そのプロデューサーには本当に申し訳ないと思っている。
さらに困ったことが起こった。
レギュラーメンバーのタケシが、上層部の意向で消されてしまったのである。
理由は、タケシの目が細いということである。
細目は東洋人を意識させる。
東洋人の出るアニメは、欧米では受けない。だから登場させるな、である。
人種差別とはいわない。しかし、僕は、東洋人が欧米で受けないという感覚が古いと思った。
だれが言い出したか知らないが、馬鹿じゃないかと思った。
その後、タケシが意外に欧米人に人気があることに気がついた上層部は、タケシを復活させた。
しかし、映画の2作目には楽屋落ち程度にしか登場できなくなった。
タケシというキャラクターは『ポケモン』アニメの最初から、考え抜いて作ったキャラクターである。
冒険活劇は、しっかりしたキャラクターが冒険し活劇せざるをえないから面白いのである。
僕が、『ポケモン』で自信の持てる人間キャラクターは、サトシとカスミとタケシ……そしてムサシとコジロウである。
ついでにいえば、サトシのママである。
タケシの不在に、一時、僕は途方にくれた。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
著作権の話をつづけよう。
僕の書いた脚本が、違う方の名前で放送された。
理由は悪意のないタイトル担当者のケアレスミスである。
これにはみんな困ってしまった。
まず、僕は、昨日の放送の脚本家名は間違っていました、お詫びして訂正します、とTVで公表しろという姿勢だった。
本気である。間違いを放送したのはTV局の責任だからだ。しかし、そんな抗議、面倒くさい。
が、自分が書いた脚本を守るのは、書いた脚本家の責任である。書かれた脚本の作家名が違うというのは、その脚本がかわいそうではないか。
間違えられた脚本家の方も、自分が書いてもいない脚本を自分の名前で発表されるのは、その方の作家性を疑われる。
けっして、いいことではない。
TV局も困った。
今ならニュースも「やらせ」が常識の時代だが、フィクションと分かっているドラマならともかく、本来、放送局は間違いを報道してはならないはずである。
まして、当時、その局はドラマと報道で知られた放送局である。
脚本のタイトルが間違っていたなどということは、局の名誉としてあってはならないことだ。
脚本家のタイトルを間違えるような制作会社に局の作品を作らせるとはなにごとだ……ということになる。
制作会社も困った。
当時、その制作会社は、子供向けの良心的番組で放送局の時間枠を取ろうとしていた。
その良心的番組が、脚本家の名前を間違えてしまった。
もう、その制作会社に仕事は来ないかもしれない。
制作会社の社運をおびやかすような事件だった。
まして、その制作会社の社長は、誰が何を作ったかに対してこだわる人だったのである。
僕をその番組に紹介してくださった先輩脚本家も怒った。
人を紹介するということは、自分がその人の責任を取るということである。
紹介したはずの人間の名が別の名前で発表された。
つまり、みんな、困ってしまったのだ。
それは、金銭問題ではなく、それぞれの立場の名誉(?)にかかわることだったからだ。
つづく
■第186回へ続く
(09.05.20)
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