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第205回 「ほんとは目立ちたいだけだったんです」
『ルギア爆誕』でのロケット団トリオの「自己存在」意識は、この映画だけの他の登場人物とはタイプが違うのだ。
『ポケモン』世界全体での「自己存在」を主張したいのである。
いや、『ポケモン』の世界だけにとどまらない。
目指すは『ポケモン』世界のロケット団トリオではなく、世界のロケット団トリオとしての存在である。
世界中の人々に認められたいのだ。そういえばロケット団トリオ? ……たしか『ポケモン』とかというアニメの主役よね。「ガンダム」にもでていなかったっけ? ディズニーのアニメにも出ていなかった? たしか「三銃士」の名前って、ムサシとコジロウとニャースじゃなかったっけ……?
そういう風に思いこまれたかったのがロケット団トリオなのである。
現代の子供は、夢がこぢんまりしている。
将来科学者になりたいと思えば、せいぜい理想はノーベル賞受賞である。それですら、今そんなことを言えば、誇大妄想的と思われたりする。
ところが、ロケット団トリオとしては、そんなの小さい小さい……科学ならアインシュタインを超えて相対性理論の矛盾を発見してやる。音楽なら最低、ゆるゆるで俗っぽいがモーツアルトぐらいは認めてやる。絵画ならわけのわからないピカソの絵など、落書きである、と言いだしかねない。
つまり、誰が何と言おうと自分の「自己存在」に自信を持っている。一歩下がっても「自己存在」に自信を持つべきだと思っている。
自意識過剰だが、自意識の少ない人間よりましである。「自分は誰だ?」と聞かれ「自分は自分だ」と、きっぱり答えられる存在になる。
ロケット団トリオはそのための努力もしているのである。ただ、アニメに描かれていないだけで……。僕が書く脚本の中のロケット団トリオは、自らを向上させる努力と苦労の跡がちらりと見えることもある。それは、彼らを間抜けでドジな敵役に位置づけた、僕の罪滅ぼしでもある。
しかし、本来のロケット団トリオにとって、『ポケモン』の敵役に起用されたのが不幸だった。
もともと、ゲームにしろアニメにしろ『ポケモン』という作品は、野生のポケモンを捕まえて主人公のものにして鍛えて(育てて)別の相手のポケモンと戦わせ勝利し、主人公が出世していくストーリーである。自分は勝つための作戦を考えるが、実際に戦うのはポケモンである。
様々なポケモンを見つけて集めるという収集の楽しさを加わえてはいるが、その楽しみは余禄にすぎないだろう。
友情関係を結んでいるかに見えるが、所詮は、自分の兵隊であるポケモンをいかにうまく使って戦いに勝ち、出世するかがこのゲームとアニメの本道の楽しみだと思う。他の力や犠牲を利用して自分がのし上がる……これって正しいことなのか? 本当に正しいことなら、それを邪魔するのは悪いことである。しかし、それが正しいと言いきれないなら、このドラマにおいて主人公の邪魔をするロケット団トリオのやっていることも悪いとは言い切れない。
悪辣非道な悪役ならば、それはそれで格好いいし存在感もある。
しかし、ロケット団トリオはそんな悪役になりきれていない。
彼らの所属するロケット団自体は、ポケモンを悪用して商売や、もしかしたら世界征服をたくらんでいるかもしれないが、ロケット団トリオにとっては、ほとんどそれはどうでもいい。いささかせこいから、今でこそ生活のためにロケット団に所属しているが、ロケット団に特別に忠誠を尽くしているようでもなさそうである。
むしろ、彼らはロケット団への忠誠を口に出しながら、その場その場をしのいでいる気配もある。
ニャースなど、さかんにロケット団内でのポケモンとしての出世を口にするが、一度は人間になろうとしたポケモンである。その台詞の真意は怪しいものである。
つまり、ロケット団トリオは、完全な悪役とも言い切れないあいまいな立場で、このアニメの敵役にされ、ドジで間抜けで馬鹿にされながら負け続けるのである。
「自己存在」を意識しつつ自己顕示欲の強いロケット団トリオにとって、この立ち位置は我慢がならないだろう。
アニメ制作者と僕を含めた脚本家一同を、一堂に集め銃殺したい気分だろう。
かといって、サトシと少年とピカチュウを主人公にしたストーリーは変わらない。
「なんだかんだと言われても、笑いものの所詮パターンの負け犬だ」
こんな立場はもういやだ。
こうなったら「自己存在」などと言ってはいられない、自己顕示だ。目立つことだ。
ミュウツーだろうがルギアだろうが何でも出てこい。「ロケット団トリオ。我らはここにあり」だ。
氷原で、ロケット団トリオはサトシを助ける。
さらに事件収拾に突っ込んでいく。
ところが、『ルギア爆誕』のストーリーは、ロケット団トリオの思惑どおりになっていない。
サトシにさらに窮地が迫る。
そこにルギアが救出に飛んでくる。
そこにロケット団トリオがいる。
ルギアはサトシとピカチュウを乗せて飛ぶので精いっぱいだ。
ルギアはサトシとピカチュウを乗せて飛ぶ。
ロケット団トリオは、ルギアの足にしがみつく。
ルギアは、サトシとピカチュウはともかく、ロケット団トリオの重さが加わっては正常に飛び続けられない。
ロケット団トリオは文字どおり、ルギアの足手まといになってしまう。
それに気がついたロケット団トリオは――ルギアの足手まといになりたくないと――ルギアの足にしがみついていた手を離し、氷上に落ちていく。
トリオに待っているのは。氷上に激突する死だろう。
、ルギア、サトシ、そして地球を救うための、ロケット団トリオのいわゆる自己犠牲的行為に見えるかもしれない。
「地球を救うため……」
ロケット団トリオも、それらしいセリフを叫びながら落ちていく。
だから、このシーン、観客にはロケット団トリオの自己犠牲精神の表現に見えるかもしれない。地球がなくなったら、ロケット団トリオは悪いことも正しいこともできなくなる……ロケット団トリオが活躍すべき地球もなくなってしまう。
だから、ロケット団トリオが「地球を救うため、サトシたちを助ける」と言うのは、嘘ではない。
しかし、格好のいい建前めいた言葉である。
本音は、主役として目立ちたかったのである。
ロケット団トリオが、ルギアの足手まといになり続け、いままでの『ポケモン』アニメの展開どおりいけば、ロケット団トリオは助かったにしろ、氷原の山にぶつかって滑り落ちてしまうなど、ドジでこっけいな助かり方になるだろう。
それでは、いままでの「やな感じ〜」と同じである。
ロケット団トリオは『ルギア爆誕』では、あくまで格好よく主役でいたいのである。
だから、ロケット団トリオは、自己犠牲より、自分たちが主役で格好よくありたいという見栄で、ルギアの足手まといになりたくなかったのである。
彼らの「自己存在とは何か?」の答えは「自分が世界の主役である」だ。
そして、あくまで、格好よくいたいと思う。
ロケット団トリオは、落ちて行きながら、サトシに叫ぶ。
「あんたが主役!」
相手に「あんたが主役だ」と口にする台詞は、裏で「実は私が主役だ」という意味を持つ場合がある。
だからこそ、どこから見ても主役に見えるサトシに、「あんたが主役!」というロケット団トリオは切ない。
だが、それゆえに、このシーンだけで観客にとってロケット団トリオは主役になれる、と僕は思ったのである。
で、こんな主役トリオを殺すわけにはいかない。
助けるのは脚本を書く僕である。
硬いはずの氷上に、なぜか穴があいていて海面になっている。ロケット団トリオは海面に落ち、命は助かる。
まわりにポケモン達がいるから、ポケモン達が穴をあけたように見えるが、いつどこに落ちてくるのか分からないロケット団トリオのために、タイミングよく、ポケモン達が穴をあけられるはずがない。
本来ドラマとしての『ルギア爆誕』にはお呼びでないロケット団トリオの自己存在を主役にしたシーンと裏腹に、ドラマに沿ったシーンで、それぞれの「自己存在」を語る会話もある。
おぼれたサトシをカスミと巫女のフルーラが助けようとするシーンである。
カスミはフルーラに言う。
「あなたには笛を吹く役目がある」「私の厄介者は、わたしが助ける」……2人はうなずきあい微笑む。
自分のやれること……つまり「自己存在」の確認である。
さらにサトシの母は、母親としてサトシに言う。「世界を救うなんて無茶なことをを考えるんじゃありません。あなたがいなくなれば、あなたの世界はなくなる。あなたはあなたのやれることをやりなさい」といった意味のことを……。
ただ、自分で書いて引っかかる台詞もある。
ルギアは言う。
「私が幻であったことを願う。それがこの星にとって幸せなことなら……」
父性のルギアなら格好をつけて言いそうな台詞だ。しかし、自分の「自己存在」を否定したい台詞にも聞こえる。
僕なら、その台詞を聞けば、「だったら、いくら地球の危機だからといって、子供の喧嘩にでてくるなよ」と言いたくなるのだ。
しかし、ルギアが母性だったら、ポケモンの母性として子供の喧嘩の仲裁に出てきても自然な感じがする。
当然、台詞も違ってくるだろう。
下町のおばさん風なら、「おうちの中で兄弟げんかなんかするな」的な――もちろん、もっと気のきいた言い方をするだろうが。それとも子供たちの喧嘩に悲しい表情をするだけかもしれない。
それぞれの自己存在が、それぞれ自分なりのことをやっていてそれで共存が成立する。
そのためには、自分と他のものとの違いを分からなければならない。
それで滅びるものが出てくれば、それも共存のために必要なことだったのだ。
で、「自己存在」と共存がテーマである『ルギア爆誕』の、ストーリーの基本になる深層海流も姿を見せなければならないだろう。
ドラマとしてはあまり必然性はないのだが、クライマックスに深層海流を見せた。
大プロデューサーが使いたがっていたCGの見せ場にもしたかった。
フィナーレとして派手な見せ場が欲しかったのだ。
よく考えれば、なぜ深層海流がフィナーレで海上に出てくるのかわけが分からないが、このアニメでは、さほど脚本を書いた僕としても違和感がなかった。
フィナーレの御祝儀花火のようなものである。
深層海流については、今も研究が続いていて、地球の生命に関係する発見が明らかにされつつある。
身近には、飲料水としての深層海流水も需要が増えている。
『ルギア爆誕』は、登場人物のそれぞれが、地球の異変に対して協力など意識せずに自分なりのことをやったら、そこそこ収まった結末になった、という映画である。
世界中が危機に対応して大騒ぎになった印象も薄い。
目立ちたいだけのロケット団トリオも不思議に浮いていない。
浮いていないどころか、しっかり主役になって「いい感じ〜」の台詞が、本気で「いい感じ〜」に聞こえる。
ロケット団トリオも、少しは満足してくれたのだろう。
先日、10年ぶりにこのアニメを見たが、コレクターのジラルダンの存在感の薄さとルギアがオスなのがやはり気になりはしたが、最初にこのアニメを見た時ほど引っかかりはしなかった。
手前みそだが、まあ、面白くできているアニメだと思う。
ただし、エンドタイトルに流れた曲……もともとは巫女のフルーラが吹いた笛のメロディを基調にした歌(CDには収録されている)が用意されていたにもかかわらず、上映されたものでは、誰が起用したのか知らないが、10年前当時ヒット曲を連発していた作曲家と歌手のコンビの歌に変更されていた。歌手のほうは今もヒットを連発しているが。作曲家は著作権関係の問題を起こして、一時大騒ぎになり、最近はその人の作曲した曲をあまり聞かない。
ともかく当時のヒットメーカーコンビの曲だとしてもひどかった。
何を言いたいのか分からない聞き取りにくい歌詞と、うんざりするほど聞きなれたオリジナリティのないポップ調の曲が、まるで作品内容にあっていない。おそらく、アニメ脚本どころか、『ポケモン』がどんなゲームかすら知らずに作られた曲なのだろう。10年たった今も、聞くとがっかりする。
1作目の小林幸子さんのエンディング曲がよかっただけに、なおさらである。
もっとも、海外版は違う曲に変えられただろうから、『ルギア爆誕』のエンディング曲は日本語版に限られるだろうというのが、せめてもの救いである。
『ルギア爆誕』の全米興行成績は、日本映画(実写映画も含めて)の中では、『ミュウツーの逆襲』に続く2位……ただし、興行収入は半分近くに落ちていた。それでも2位である。
その理由は、僕なりには分かっているつもりである。
なお、以降の『ポケモン』映画は落ちっぱなし。ポケモン映画3作目が4位(ちなみに、アカデミー長編アニメ映画賞をとった「千と千尋の神隠し」は5位)。観客に受ける感覚は、日本と欧米ではかなり違うようだ。
で、『ルギア爆誕』の脚本の決定稿を書き上げた途端、僕は倒れて病院に入院した。倒れた原因はいろいろあったが、入院の前日、総監督といろいろ話し合った。
もともと1年半をめどに始まったポケモンアニメだったが、脚本を書く他の方は違うにしても、僕が『ポケモン』を書けるのは4年が限度だと感じていた。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
最近、TBS系の日曜9時に放送されている「JIN」というドラマが評判である。
視聴率もTBSとしては10年ぶりの高視聴率だそうである。
録画したものを先週分まで見たが、確かに面白い。
現代の医者がタイムスリップして幕末に行く話である。
昔はタイムスリップというとSFのイメージ(それもB級)がして、マニア受けしても、一般にはピンとこなかったようだが、ここ何十年かのアニメやSF小説、SF映画の普及が、いつの間にかタイムスリップを身近なものにしたのかもしれない。だが、「JIN」の人気はそれだけではないような気がする。
タイムスリップといえば、お決まりなのがタイムパラドックスである。
過去を変えたら現代、未来、が変わってしまうというやつである。
欧米の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「ターミネーター」では、タイムパラドックスが重要な要素になっている。
「JIN」にもその要素が多分にあるが、このテレビドラマが日本人に受ける要素は、そこではないような気がする。
突っ込みどころはいくらでもある。
まず、主人公の医者が万能選手である。脳外科が専門なのに、他の医療に対して知識がありすぎる。
江戸時代の技術でペニシリンなどの薬や医療器具を作るのは、いくらなんでも荒唐無稽である。
しかし、それを気にさせないドラマがある。
登場人物が、それぞれの立場で真面目なのである。医者にしろ、看護師の元祖のような娘にしろ、花魁にしろ、歌舞伎芸人にしろ、時代を改革しようとする実在した坂本竜馬のような人物にしろ、生き方がおちゃらけていない。歴史的にはフィクションだらけだが、人間像がしっかりしているから、人間同士の絡みがわかりやすく、浮わつきがちな恋愛模様も地に足がついている。特に医者の描き方がすがすがしい。
蘭学と漢方との確執があり、そこにタイムスリップした、江戸時代としてはうさんくさいにちがいない現代医学が加わる。命を助けるという医の本分に直面すると、それらのわだかまりがふきとぶ。
医療の恥部、巨悪を暴く「白い巨塔」も事実だろう。だが医学や看護を志す人たちの真摯な思いも事実だろう。真面目な医者や看護師を描いた現代の病院を描くシリアスドラマも多い。だが、そこにはどうしても、現代社会のゆがみが投影され、生真面目な医者が嘘っぽく見えてしまう。奇麗事に見えてしまう。そこに現代的な恋愛や犯罪がからむと、ますます作り話に見えてしまう。
人の命を助けたいという素朴な人間性が、江戸時代という過去だから純粋に見える。人間として格好いい。
このドラマ、やたらと人間の器という言葉が出てくる。
そういえば、人間の器が大きいとか小さいとかいう言葉をあまり聞かない。勝ち組とか負け組という人間の評価はいつも耳にするが……。
どうやら、われわれは、金銭がらみの勝ち負けにこだわるのに疲れてきたのかもしれない。
人間がどこかに持っている素朴な良心が求められている時代になってきている気もする。
それが、タイムスリップやタイムパラドックスなどの荒唐無稽なSF要素を薄め、昔の素朴な人情味が前面にたっていると見えるのかもしれない。そして、そんな江戸時代と現代を結ぶSFだから、人の気持ちをひきつけるのかもしれない。このままいけば、今年、最後にして現れた優れた脚本かもしれない。
どこがいいのか、参考にしてください。
原作漫画も読み、そちらも面白いが、生身の人間が出てきて、それなりの脚色をしたドラマのほうが、今のところ面白い感じである。
昔、「ある日どこかで」という恋愛映画を見た。リチャード・マシスン原作・脚本、ヤノット・シュワルツ監督(おそらく傑作はこれ1本)、昔のスーパーマン役の故クリストフアー・リーブ(美男)、ジェーン・シーモア(美女)共演、ジョン・バリー音楽(いつ聞いても泣ける)、おまけにラフマニノフのラプソディが効果的に使われているアメリカ映画である。
昔、描かれた美女の肖像画に魅かれた青年が、念力(?)でタイムスリップして、その美女の時代に行き、彼女と愛し合うというストーリーである。
SFといわれればSFなのだが、全然、SF臭さがない純愛映画である。これも脚本がすごい。とても参考になる。
観終わって、あれ、これ、SFだったんだと気がつくほどロマンチックな映画である。
つまり、人間が描けていれば、SFということが気にならない映画である。
下世話な話で恐縮だが、このレーザーディスクを僕は持っていて、見せた女の子はほとんど口説けた(今はダメ。おじさんは、この映画の美男子クリストファー・リーブにはとても勝てん)。
で、この映画で昔の世界に入り浸っていた青年が現代に引き戻されるきっかけが、現代の硬貨である。
このシーン、知る人にはあまりに有名な場面である。ちっちゃな硬貨の存在が、時代を超えた男女の愛を引き裂くのだ。
「JIN」にも平成22年の硬貨が出てくる。
「JIN」の主人公が現代に戻るきっかけに硬貨が使われるとしたら、「ある日どこかで」のパクリになる。
いままで、せっかくよくできていた脚本なので、お願いだから、このラストはやめてくださいね。
なお、「ある日どこかで」(Somewere in Time, 1980)、僕の見たなかでベスト10に入る映画である。
つづく
■第206回へ続く
(09.12.09)
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編集・著作:
スタジオ雄
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