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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第208回 『ポケモン』映画第2弾以後、第3弾以前

 『ポケモン』の話にもどそう。
 『ルギア爆誕』は脚本家としてはかなり凝った作りをして、疲れたには違いないが、それなりに楽しめた。
 しかし、考え込んでしまったことも確かである。
 「自分は自分であること、他者とは違うことを認識してこそ、互いに共存できる」というのは、よく子供たちに大人が言う「人種、民族は違うけれども、同じ人間同士なんだから仲よくしましょう」とはニュアンスが違う。
 そこに『ポケモン』では、ポケモンという人間とは異種の動物が加わる。
 人間と、人間にゲットされたポケモンとは仲がよさそうに見えるが、ゲットされたポケモンは、人間のいいなりになって戦う、いわば奴隷のようなものである。
 奴隷だからといって悲惨な生活を送っているとは限らない。歴史を見ると、優秀な奴隷は、普通の平民より大事にされた。優秀な技能を持つ奴隷は、古代では尊敬さえされた。哲学者や科学者に奴隷出身のものも少なくない。
 子供向きに言えば、『ミュウツーの逆襲』は自分とは何かを考えることであり、『ルギア爆誕』は自分はこの世界にかけがいのないたった1人の存在なんだから、他人にコンプレックスを感じたり、いじめられてしょげたりすることなどない、他人と自分との違いに気づき、他人の存在を尊重しよう……である。
 子供のころは何となく感じているにすぎない問いに、大人になって思い当たる……そんな映画にしたかった。
 つまり、子供向けを装っているが、対象にしているのは観てくださる老若男女含めた人たちみんなである。
 子供が、青春期を迎え、大人になり、子供の親になり、そして老いていく。人生の分岐点で、たとえば孫を連れて映画を見たお年寄りが、「子供向きに作ってあるが、うーん、自分にも、この映画のテーマらしきことを考え悩んだ時期があったな。そして今、年老いた自分はどうだろう?」と何かを感じてくれる映画が理想である。
 しかしである。
 そんな映画にするつもりの脚本家自身が、40半ばになりながら実は、自分の存在とは何か、共存とは何かに、はっきりした自覚や答えを持っていないのである。僕は宗教人でも、哲学者でも、悟りを開いた仙人でもない。
 僕の書いたものに、人間はこう生きるのが理想だ、人間はこうあるべきだとおしつけがましくテーマを提示したものはないはずだ。
 僕自身だって自信がない。「人間ってこうありたいね」という自分の理想論をつぶやいて、せいぜい「みんなはどう思う?」と、問いかけてみているだけである。
 怠け者の僕は、そんなことをを考えるのは、本当は面倒くさいのである。食べて寝て、そして(恋愛も含めて)物事に対する好奇心を満たし、生きることが楽しそうな人と会い、その人たちの生きる姿勢に感心し、面白そうな本や映画を見て楽しんでいければいいのである。
 でもまあ、一番楽そうな生き方だと思った物書きになってしまったとき(別になりたくてなったわけではなく、なりゆきである)、人に物を書くことで自分の思いを表現しなければなならなくなった。
 物書きは、読み手があって生活の糧を得る。
 すると、物書きには、読み手に対する責任が生じてくる。
 僕の書いたものが読み手にとってどれだけ影響力があるかはわからないが、「あいつのものを読んだおかげで(僕の場合では脚本家の仕事が多いから、僕の関わった映画やTVや芝居を観て)、俺の人生めちゃくちゃになった」などと思われては、多少の責任感がある僕としては困るのである。
 けれど、自分が思ってもいないきれいごとを他人様に伝えたくはない。
 そこで、思いつく好き勝手なことを書いて、読んでくださった(または観てくださった)方の気持ちに響いてくださればうれしいです……が僕の基本姿勢である。
 特に、アニメや映画は、1人の力では作れない。観客以前に作り手のスタッフの方たちの、作品への好感ないしは面白がりがなければ、手抜きボロボロのひどいものになるだろう。
 幸い、奇跡的にも、僕は、作品への面白がり方の上手なスタッフに恵まれてきたようだ。もちろんすべてのスタッフががそうだとはいえないだろうが……。
 だから、好き勝手なことを書きながらも、スタッフの好感度や好奇心を刺激するような努力はしてきた。……少しだけだけれどもね。
 ただ、書きたくもない表現、したくもないことは、極力遠慮させてもらった。
 しかし、繰り返すが、『ポケモン』の最初の2作の劇場版でテーマにしたのは、「自己存在」「共存」である。僕自身、この作品で語っていることに確たる自信がないのである。
 今現在ですら考え続けているテーマの一つである。
 人間は、自分は、世界は、どう生きて朽ち果てていくか……かなり相当マジで考え書かなければならない。
 最初のTV版の立ち上げのとき、そして2本の映画と、かなり疲れた。
 2本目の映画は、脚本が決定稿になったところだから、まだ作品が完成していたわけではない。だが、当時の1本目の映画のヒットとTVやゲームの人気、関連グッズの売り上げを見れば、2本目のヒットも予想できる。
 さらに、「ポケモン」のヒットによって、そのヒットにあやかりたい便乗組(誤解しないでいただきたいが、バブル崩壊後の日本で、ヒットしたものについていきたいのは当然である)も増えた。
 もはや「ポケモン」は、ゲーム、アニメを問わず、製作者と観客だけのものではない巨大プロジェクトに変貌しつつあった。なにしろ、旅客機の機体にもポケモンが描かれるし、JRは各駅でスタンプラリーをしている。
 さらに言わせていただくなら、正規の商品でない「ポケモン」グッズも氾濫していた。お祭りの出店には謎のグッズがごろごろ。
 小田原のちょうちん祭りの提灯の三分の一には、ピカチュウが描かれている。
 20代の初期、セールスのアルバイトをしたときのことだ。訪ねた六畳一間のアパートには、家族4人が住んでいた。お父さんは近くの工場に勤務、奥さんは、当時はやりの人形のぬいぐるみを作ることを内職にしていた。もちろんバッタもの(にせもの)のぬいぐるみである。狭い部屋の中には、それでも、子供向きの学習図鑑が並んでいた。教育関係のセールスが売りつけたのだろう。
 奥さんは、昼ごろになってお父さんが昼食に帰ってくるからと言って、ガス台ひとつの炊事場に立った。そして鍋に入れて作ったのは、当時35円のチキンラーメンだった。卵も入れていない。それが、その一家のお父さんが、わざわざ工場から帰って食べる昼食だった。
 バッタものの内職は、その家庭の生活を支えていたのである。
 今なら、そのぬいぐるみは「ポケモン」のバッタものかもしれない。
 今、「ポケモン」人気がなくなれば、バッタものの「ポケモン」も売れなくなるだろう。
 良し悪しはともかく、『ポケモン』は苦節の末のヒットで恩恵を得ている人たちのほかに、日本の低所得者層の生活も支えているのである。
 そのもとになる『ポケモン』が良質の作品であれば、それにこしたことなはい。
 はたして、そんな良質の作品の脚本を書いたのだろうか、かなり複雑な気分でビールを久しぶりに飲んだ。
 いつもは小田原に住んでいるが、打ち合わせの時だったので東京の実家に来ていた。
 久しぶりの酒で少しは酔っていただろう。
 総監督に電話をした。
 「後、何年『ポケモン』をやるつもり?」
 「後、10年……」
 かなり平然と言う。
 もともとはこの総監督の紹介での、シリーズ構成である。
 13年以上続いた番組のシリーズで、構成的役割をした経験もある僕である。
 『ポケモン』には、続けることが不可能ではない人気もある。
 さらに長年継続させるにはそれに向いた実力が必要だが、この総監督には、その実力も粘りもあると常日頃思っている。
 『ポケモン』のTVシリーズの場合、基本的なストーリーパターンはできている。ときどき目先が変わるが、ワンパターンも慣れれば強い。視聴習慣がついてしまえば、「水戸黄門」や『サザエさん』にもなれるだろう。『ポケモン』は長期間続けられるだけの安定したパターンを持っているのだ。準レギュラーを変えるなどして目先を時々変える工夫をすれば続くだろう。
 それに、ゲーム側も次々と新しいポケモンを出してくるだろう。ゲームのスタッフも優秀だから、いろいろ工夫したポケモンやゲーム方式を考え出してくるに違いない。事実、当初151匹だったポケモンは、現在400匹を超えている。
 しかし、主人公と最大の人気キャラ・ピカチュウは変えられない。過激な変更は、今までもやったことがあるが、水戸黄門的常連ファンの反発を買う。
 だが、10年続けば主人公は20代である。その間、精神的に成長しないでポケモンバトルの勝った負けたで一喜一憂しているだけの主人公でいいのだろうか。
 当初、僕としては、主人公はポケモン世界で成長し、やがてポケモン世界から卒業し、良くも悪くも大人になり、ある日、純粋だった子供時代の自分を懐かしむ、というラストを想定していた。
 だから、成長の過程として、初手から劇場版では大人にも分かってもらえると思うテーマを、僕はぶち込んでしまった。
 そんなテーマを、1年1作として10も見つけるのは、僕には不可能だ。
 書いてみたい他のテーマがないわけでもないが、『ポケモン』には向かない。
 めったに見つからないマルチメディア的大ヒット作の影響力は大きい。直接制作に関わっていない方々の生活にも、『ポケモン』の浮沈は影響を与えている。ヒットした『ミュウツーの逆襲』の責任は、脚本の僕にもある。
 映画のより一層のヒットを狙うなら、作品内容のエスカレートしかない。
 つまり、主人公の出会う事件や敵が見かけの上で巨大になる、泣かせが増える……これはヒット作の続編によくつかわれる方法である。
 それは僕にもわかっている。
 しかし、それが『ポケモン』にとっていいことなのか、分からない。
 総監督が10年続けると言った以上、彼なりのアイデアも方法論もあったのだろう。
 だが、今(1999年当時だ)のままで、10年以上続く『ポケモン』は考えられなかった。
 それ以上続けるなら、ポケモン世界の住人ともいえるロケット団とピカチュウを残して、メンバーを入れ替え、最初から新たに始めるべきだと思った。ポケモン世界に希望を抱いて旅立つ新しい主人公なら、また今までと別の展開になりうる。
 もっとも、2010年になっても、御存知のように『ポケモン』は好調である。
 総監督も含め、色々なスタッフの努力の結果だろう。立派だなと思う。
 このまま果てしなく今(当時1999年)の『ポケモン』が続くなら、映画は3作目か4作目で止めるよ、と僕は総監督に言った……らしい。
 その電話の声が、両親に聞こえたらしく、「1作目でヒットした作品を降りるなんて、酔っているんじゃないか」と言われた。
 その日、冷蔵庫の前で「これでいいんだね、それでいいんだね」とぶつぶつ言いながら、冷蔵庫の中のビール20本以上も飲んでしまったらしい。
 実はその時、別のテーマの作品のことを考えていて、それを『ポケモン』のテーマとしてやるか別の作品としてやるか、困っていたのである。
 翌日、酔いはなかったが、肝臓のせいだろうか、かなり体がだるかった。
 母が小田原の妻に電話し、すぐ小田原に返すから行きつけの病院に連れて行け、と言ったらしい。
 で、肝臓と、ついでに体中を検査するためにその病院に入院した。
 検査数値もそれほど悪くなかったし、治療はほとんど点滴だけ、入院を聞いた制作会社の方がわざわざお見舞いに来てくれて恐縮した。
 そこで、ノートパソコンを持ち込んで劇場版『ポケモン』3作目のプロットを考え始めた。
 この3作目、公開された『結晶塔の帝王』とは全く別の作品であり、その内容については総監督とも簡単ではあるが話をしていたのであった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 不況が関係するのかどうなのか、新年になって面倒くさいことも起こる。
 昔、僕が原案構成とタイトルされている魔法少女ものが30周年だということで、舞台で実演のミュージカルになるそうである。
 けれど、タイトルは「鏡の国の少女」となって、そのミュージカルにはなんと原作者がいるのである。昔の魔法少女ものの制作会社(が改名した名前)になっている。で、もちろん僕はそのミュージカルの脚本を書いていない。
 主人公の名前は同じであり、キャラクターもそっくりであり、設定も似ていて、その主人公の30周年には違いない。
 その昔の魔法少女ものには原作者名はなかった。ただ、番外編などでは、僕が原作者と明記されているものもある。まぎらわしいものだから、年賀状やメールで問い合わせもあるので言うと、僕はそのミュージカルには関係していません。
 プロットを詳しくしたようなものがFAXされてきて、意見を聞かしてくれというので、少なくとも昔のものとは違いますといえば――どうすればいいと聞かれたので、どうしようもないけれど、あえて昔のものを意識するなら――と意見を言った。その後しばらくして聞いたら、脚本家が直しを受け入れないので、脚本のままやるそうである。
 つきましてはそのミュージカルの応援文を送れという。
 「鏡の国の少女」のミュージカルだったら30周年じゃなくて初演だろう。おまけに、こちらの意見も入れないで応援しろはないだろう。で、応援文を断ったら、生まれてから聞いたことのない悪態を言われた。
 もう面倒くさいから、権利問題など出るところに出てはっきりさせようかとも思うが、どうしてこう面倒くさがり屋の僕を面倒にまきこむのかなあ。
 これでもやんわり書いているんだけれど、ともかく僕はそのミュージカル上演自体には関係ありません。

   つづく
 


■第209回へ続く

(10.01.13)

 
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