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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第213回 僕の『ポケモン』映画は『結晶塔の帝王』でおわり

 『結晶塔の帝王』には本当にてこずった。
 プロット自体は簡単だったのだが登場人物の造形に困り果ててしまったのだ。
 この作品に必要になる要素は、「家族の絆」であり、父親の娘に対する思いである。そして、「引きこもり」状態の少女を解放する要素もある。
 ミーの父親代わりのエンテイは、命がけでミーを引きこもり状態から解放しようとする。
 自分を生みだしたアンノーンを倒してすら……つまり、親殺しをして、自分の架空の娘を助けようとする。
 親を殺して、子供を助ける。このエンテイの心理状態が難しかった。
 エンテイは、ミーのために生まれてきた。しかし、自分を生み出したのはアンノーンである。
 余談になるかもしれないが、僕は父親代わりのエンテイのようにカッコよくはない。頼りにもならない。娘に見せている日常は不規則で、書くことに詰まると飲んだくれてしまう、どうしようもない親父である。
 いちおう仕事場と住居は分けているが、勤め人とは違い、昼間に海辺でぼーっと立っていたり、近くの山にふらりと登って行ったり、夜、家に帰ってこなかったり……要するに一般の父親像とは違いすぎるのだ。
 娘にとっては、何をしているか分からない風来坊なのである。
 かっこいい父親アニメをつくっても、本人の実践がちっともともなっていないのである。
 いい父親ぶるなら、おこずかいを増やせといわれかねない。
 しかも、年齢は40も違う父親である。
 こんなことがあった。
 アニメ『ポケモン』が始まったころ、僕よりずーっと若い、既婚者だが子供のいないプロデューサーがいた。
 「子供を作らないの?」と聞いたら、「ええ、たとえば保育園や幼稚園で父兄参加のかけっこなんかがあるでしょう? 僕の今の体力じゃ駆けっこに勝てるわけないし、そうしたら自分がみじめだし、何より子供が、駆けっこに負けた父親を観て傷つくでしょう? だから子供は遠慮しているんです」
 はあ、そんな考え方もあるんだなあ……と思いつつ、僕自身も父兄参加のかけっこなんか出たことがなかった。
 『結晶塔の帝王』の数年後、娘が小学校に入ったころは、「パパ、一緒にお風呂に入ろうよ」と誘ってくれて湯船で遊んだが、それ以降はほとんどお呼びがかからない。小学校上級生になった娘と一緒にお風呂に入る気は流石に僕もないが……まあ、いささかさみしいことも確かである。
父親が娘をどう思い、娘は父親をどう思うか、色々なケースを考えて、相当苦しんだ。
 そして、もうひとつ、エンテイはミーの母親代わりに主人公サトシの母親をさらってくる。
 サトシは父親不在の少年である。サトシが母親を取り戻そうとするのは当然である。
 そこで、結晶塔とサトシ達が母親をめぐって絡んでくる。
 プロット上は、自然であると思う。
 そこに、ミーという引きこもりの少女の夢――この世界においてはポケモンマスターになること――も加わってくる。
 しかし、ここで忘れてならないのは、サトシの母親の存在である。
 サトシの母親がエンテイにさらわれた時は、自分の意識を失っている。
 しかし、意識を取り戻した時、サトシの母親は、自分を母親だと思い込んでいるミーと、実際の息子のサトシとの板挟みになる。
 サトシの母親の性格からして、両親を亡くし、彼女を自分の母親にしたいミーに「あんたは、わたしの子じゃないのよ」と冷たく言い放てるだろうか。
 サトシの母にとって、サトシは大事な一人息子である。かといって、自分の娘じゃないからと、架空ではあっても孤独な状況で自分を母と思いこんでくれる女の子をほっておけるか?
 ここで、エンテイとミーの父と娘の話に、サトシの母親のドラマが侵入してくるのだ。
 当然、ミーの父親代わりであるエンテイとサトシの母親との関わりも出てくるだろう。
 エンテイはサトシの母に頼むだろう、ミーの母親でいてくれ、と。
 そんな時、サトシの母はどういう態度をとるだろう。
 おまけに、サトシの母親は、ミーの行方不明の父親と、実際に知り合いである。
 こんな風に人間関係がごちゃごちゃしてくると、ミーの実際の父親とサトシの母との間で、過去に何らかの関係があったのではないかという妄想も膨らんでくる。
 すると、本来の父と子との関係という『結晶塔の帝王』のテーマが大混乱をきたす。
 僕は「家族」――父と母、父と娘、父と子供、母と子供についてかなり考えた。
 完全にノイローゼ状態になっていたと思う。
 何とかつじつまを合わせれば、お涙ちょうだいのいわゆる感動ドラマになったかもしれない。
 しかし、それぞれの登場人物が、それぞれの「自己」をもっているとすれば、つじつまあわせのなれあいドラマにはしたくない。
 さらに、孤独な引きこもり少女ミーの気持ちも、重要な要素になってくる。
 このままではいけない……引きこもりの世界から脱出しなければいけない。
 サトシは、ミーに対してそう思う。しかし、ポケモン世界に引きこもっているのは、サトシ本人も同じではないか?
 『結晶塔の帝王』のプロット(あらすじ)は簡単である。しかし、よく考えるととんでもない難しいドラマだったのである。
 序盤はすいすいできた『結晶塔の帝王』も、実ははそこから先が大変だったのである。
 色々考えた。ミーの孤独なイメージに「かまくら」――地名ではなく雪の山を作ってそこに穴を掘り(エスキモーの家のようなものである)火鉢で暖をとる日本の豪雪地帯の習慣行事――を入れてもみた。これは、訳が分からないという理由でカットされた。訳が分からなくてもいいのである。僕の単なるイメージシーンだからだ。
 プロデューサーや監督から電話がかかってくる。ともかく、脚本が出来上がらなければ、その検討もできない。制作も滞る。
 記憶は確かではないが、海外に渡航しているプロデューサーからは、飛行場から電話がかかり、外国からも電話がかかってきた。
 「脚本はできましたか?」である。
 『結晶塔の帝王』について深く考え始めると、底なし沼になってしまう。
 結局、簡略にしようとした。
 『結晶塔の帝王』は父と娘の話である。さらわれたサトシの母親の感情は無視しよう。
 その他の登場人物の個性も簡略化した。架空の父エンテイとミーの話に集中しよう。
 竹中直人氏の声による、エンテイという父親の気持ちを中心にした。
 サトシの母親は、意識を失ったままにした。
 クライマックスは、すべての元凶になるアンノーンとの戦いとエンテイの戦いに集中させた。
 そこまで、決めた時、僕の体はガタガタだった。クライマックスは詳しく書いたプロットを、妻に口述筆記のように書いてもらった。
 妻は言った。エンテイの戦いがしつこすぎる。
 サトシの母の存在が薄すぎる。
 当然の意見だろう。
 父と娘の話にこだわり、サトシのママの存在は、話をまとめるための木偶人形にすぎないからだ。
 妻としては、サトシの母の存在があまりに希薄なのだ。
 それもそうだ。エンテイとアンノーンの戦いは、3分の1ほど削った。
 こうして、『結晶塔の帝王』の1稿はできあがった。
 原稿をFAXで送ると、すぐ入院した。僕は本当に死にかかっていると思った。
 病院から監督に電話した。
 「サトシの母親が、エンテイにさらわれた状況に気づくシーンがない」というのが、監督の意見だった。
 予想された意見だった。監督はこの『結晶塔の帝王』に「家族の絆」のようなものをもとめていたようだ。
 それはそれで間違ってはいない。
 そればかりか、この脚本にはヒットするだけの派手さがない。
 様々な反対意見が出てくるだろう。
 僕自身には、この脚本を手直しする気力も体力もない。充分、この作品と立ち向かった気もしていた。
 入院中で直しの脚本会議に出る気力もなかった。
 そこで、直しの脚本家を指定させてもらった。
 他のレギュラーの脚本家に比べ、若く子供もいて、人との付き合い方もうまいし、他人の言うことに融通がきかせられる脚本家である。
 それに劇場版『ポケモン』の短編も書いていた。かなり器用である。
 監督の了解をとった上で、第1稿の入ったフロッピーを送った。
 『結晶塔の帝王』については、その後その脚本家とは何も話していない。
 完成した映画を見ただけである。 
 その第1稿を直した脚本家が、共作者になっている。
 プロット自体はさほど変わっているとは思わなかった。アクションシーンが変わっている気がした。
 エンドタイトルに、ミーと行方不明だった父親と一緒に見たことのない女性がいた。
 3人とも幸せそうだった。
 この女の人だあれ?
 『結晶塔の帝王』のフィルムコミックのようなものが企画された。そのラストには、その女性が描かれていた。
 その女性が誰であるかわからないので、文章は、第1稿を直した共作者にお願いした。
 彼の書いた文章には、その女性はミーが孤独だったときに、病気で入院していた実の母親だとあった。びっくりした。
 自分の母親が病気で入院して死んでいないのなら、エンテイにサトシの母親をさらってもらうことなどせず、ミーは実の母親に会いに行き、病気を治してもらおうとするだろう。
 『結晶塔の帝王』は、少女の孤独が世界を結晶化させるような大事件である。
 『となりのトトロ』で、母が病気療養中で、そのさみしさから、トトロや猫バスがでてきて、母のお見舞いに行く、というファンタジーは納得できる。
 だが、母が病気療養中なのに、その寂しさで世界が結晶化してしまうというのは、ちょっと作品世界を勘違いしているのではないか?
 もっとも、エンドタイトルに出てきた女性は、映画の中ではミーの母親とは説明されていない。ミーの父親の後妻であってもいいのであって、映画だけを観ているぶんには意味不明である。
 なにはともあれ、すくなくとも『結晶塔の帝王』が、父親と娘の感情を描いていると観ている方に感じていただければいいのだ、と僕は思う。
 この映画、外国でヒットした日本映画では第4位だそうである。
 で、この映画で、僕は『ポケモン』の映画の脚本を書くことを止めた。
 正直疲れてしまったのである。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 脚本家の宮内婦貴子さんが、亡くなった。20歳近く年上の方である。アニメファンには御存じのない方も多いと思うが、僕が物書きになったのはこの方のおかげである。18歳の時に書いた脚本を評価していただき、色々な方に紹介していただいた。
 実写畑の方で、この方の作品歴はネットで検索してください。
 デビュー作の「大江戸捜査網」を書かせてもらえたのもこの方におかげだし、その作品の出来に頭にきて「脚本なんか書いていられるか」とぶうたれて何年も書かなかった時に「出来が悪ければ私が責任もつから」と、あるアニメ会社に紹介してくださったのもこの方である。
 当時の著名な脚本家に方たちにも会わせていただいた。
 実は、書くタイプの作品が違うので、この方から脚本を教わった覚えはない。
 しかし、物書きとしての姿勢はとても教えられた。
 この方の生活は、常識的な人からは型破りにみえるかもしれないが、書くものへの真摯な姿勢があって、僕をずいぶん励ましてくれた。
 自分が書いたものの責任を自覚している人だった。
 宮内婦貴子さんとの出会いは偶然だったかもしれないが、継承した姿勢は守らなけれないけないと思っている。
 これは、宮内婦貴子さんへの追悼文ではない。
 宮内婦貴子さんへの感謝は別でする。
 ここはアニメに関するコラムである。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品がある。
 僕1人で作り上げたものではない。
 制作に携わった様々な人の力の結晶だと思う。
 つぶれかかった会社の会長と社長の2人のために作ったものではないことは確かだ。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』30周年をでっちあげたこの人たちに、情けなさを感じる。
 あなたたちは『魔法のプリンセス ミンキーモモ』がどんな作品か分かっているのでしょうか?
 結果はそのうち出るでしょう。
 アニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を知っている方は、いっけん巧妙に見えるけれど、穴だらけのこんな商売に引っかからないように気をつけてください。

   つづく
 


■第214回へ続く

(10.02.24)

 
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