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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

最終回 みんな脚本家になれます。

 このコラム、題名が意味するように「誰もが脚本家になれる方法」を、書くつもりだった。連載当初、「アニメ脚本家になった自分を語るより、自分なりのアニメ脚本作法のようなものなら書けるかもしれない。それが、もしかしたら、アニメ脚本家志望の方たちの参考になるかもしれないし……」とアニメスタイルの担当の方に言ったことから始まった。
 その時は、まさか、5年も続くとは思っていなかったし、その内容のほとんどが、自分の書いたものの解説になるとは思わなかった。
 書いたものを読み直して、いささかげんなりしたのは、このコラムに書いたことがこれから書こうかなと思うかもしれない作品の抱負ではなく、すでに書き終えたものへの弁解のように受け止められる節があることである。書いた本人がそう感じるのだから、このコラムを読まれた方がそれを感じても、「これは自作の弁解をしているわけじゃない」と、僕がこのコラムを読んでいる方たちに言えるわけがない。
 「誰でもなれる」と僕が書いたのは、脚本家になりたいとは、全然考えていなかった僕が、時に脚本家とか、もの書きが職業だと言われ、事実、今の僕の収入の大半はものを書くことから得たものが占め、名刺には日本脚本家連盟会員と小さく書いておいているからである。
 別に肩書などどうでもいいのだが、「僕の書いた脚本には、著作権および2次使用における権利が発生しますよ」という意味の表示をしておいた方が、仕事をする相手に対して親切だと思うからである。
 余談だが、もうひとつ、脚本家連盟に入るときに半ば強制的に(今は任意らしい)入らされた日本放送作家協会という親睦団体のようなものがあるが、そちらの方は名刺に書いていない。この団体、放送台本を書く人たちの親睦団体であるうちはよかったが、放送の台本は未来に残すべき日本文化であるなどと居丈高に言いだして、今はその肩書がみっともなくも恥ずかしくて消した。
 以前も書いたが、TV放送が始まった時、大宅壮一という人が、一億総白痴化という表現を使った。僕もそれに近いものを今も……いや、今になればなるほど感じるからだ。もっとも、日本放送作家協会会員という肩書があると、日本放送協会(つまりNHK)と間違われて何かと都合がいいという冗談を言う人もいるが(冗談であってほしい)、本気だったら履歴詐欺のようなものである。
 自称脚本家になるのは、簡単である。放送されようとされまいと、映画化されようとされまいと、何かの脚本を書いたことがあれば、名刺に脚本家と書いても嘘ではない。
 脚本家連盟と似たような組織に日本シナリオ作家協会がある……昔、シナリオ作家は映画脚本を書く人で、TV脚本なんかを書く人とは格が違うという、今となってはほとんど無意味な格差をつける人がいて――これ、実写とアニメは格が違うという今も残る風潮と似ている――今も、日本脚本家連盟とシナリオ作家組合は別々に存在している。文化庁がこのふたつを一緒にできないかと提案した時もあったが、それぞれの団体の持つ利害とふたつの組織のお偉いさんたちのどちらかの面子がぶつかって実現しなかった。脚本家が映画の脚本収入だけでは生活できない現在、日本脚本家連盟と日本シナリオ作家協会が、それぞれ別に存在しているのは、ナンセンスにしか思えないし、意思の疎通が悪くて不都合なことも多いと思うのだが……実際に問題が起こっている……古き時代の因習としか言えない感じで両団体は存在している。
 自称脚本家ではない、いちおう、どちらかの組織に所属している脚本家になるには資格がいる。
もちろん、どちらの組織にも所属していないで放送化や映画化されている脚本を書いている方もいる。ぶっちゃけた話、日本脚本家連盟もシナリオ作家組合も脚本家の著作権や2次使用に関するとりたて代理業だから、手数料を取る。その手数料だが、他の著作権代理業と比べかなり高い。仕事をしている相手が、しっかり権利金を払ってくれるなら、なにもわざわざ手数料を取られる余計なとりたて代理業者はいらない。逆に、著作権や2次使用料などいらないと、自分の脚本の権利を相手に買い取られてしまって構わないという方も、肩書きのためだけに日本脚本家連盟やシナリオ作家組合に入る必要はないだろう。
 そういう人たちはともかくとして、ふたつの脚本家関係の組合のどちらかに所属するには、細かく言えばいろいろあるだろうが、大まかに言って公に放送されたか映画化された脚本が2本以上、そして所属したい団体の推薦者が2名いればいい。
 インターネットだけや携帯配信の作品が増えている現在、公に放送された作品という意味が分かりづらいが、団体加入の主目的が著作権保護や2次使用の手数料ならば、団体に加入することを拒まれることはあるまいと思う。
 つまり、昔と比べ、放送局が増え、ネットや携帯などの通信手段が放送と表現してもおかしくなくなりつつある現在、脚本家になれる人の幅は、どんどん広がっているといえるだろう。
 僕がわざわざ言わなくても「誰でもなれる脚本家」の時代は、すぐそこまで来ている気がする。
 だからといって、僕の書いているこのコラム「えーだば創作術 誰でもなれる脚本家」の内容が赤塚不二夫氏風に「これでいいのだ」では、無責任である。
 つまり、このコラムでいう「脚本家」は、脚本を2本書き、推薦者が2名いるだけの「脚本家」ではないはずである。
 少なくとも、脚本を書くことで一生、食べていけるだろう「脚本家」であり、それも、アニメスタイルのコラムである以上、アニメの脚本家ということである。
 ……ここでちょっと脱線するけれど、ちょうど昨日アニメとアニメーションのニュアンスの違いをアニメスタイルの編集者アニメ様がお書きになっているが、商業ベースか非商業ベースかで、アニメとアニメーションを呼称分けするのは、いささか抵抗を感じる。表現方法としてのアニメとアニメーションの呼称分けも、「そうかなあ?」と思う。1秒24コマ(映画の場合)を使ってものを動かして見せるというなら、実写だって同じだろう。ようは、ストーリー性があるとか、作者の個性的表現とか芸術性とかを、重視しての呼称分けだが、売れた売れないの商業ベースと作品の持つ芸術性(それを芸術と感じるかどうか、作者の個性的表現と見るかどうかは見る人次第)は、呼称を変えて比較できるのだろうか? この世の中には芸術と呼ばれながらも売れている作品がいっぱいある。ようするに、作り手に商売っ気があって作ったものがアニメで、自己表現の手段として作ったものがアニメーションというのだろうか?
 実は「まんがはじめて物語」という番組の「アニメーション」というエピソードを書いたことのある僕は、アニメとアニメーションの違いをかなり意識しながら無視した。所詮、アニメだろうとアニメーションだろうと、静止したものを動かして見たい欲求から生まれたものと決めつけたからだ。
 そして、絵や写真は、動いているものの素敵な瞬間を静止する表現だと決めつけた。
 抽象画は、作家が描く対象物の瞬間を、作家の感性で描いたものである。
 ……以上、余計なことを書いてしまったが、アニメであろうがアニメーションであろうが、いわゆる実写でないものが動いている映像の脚本で一生食っていける方法を、「誰でもなれる脚本家」という僕のコラムで書こうと思ったのだ。
 食っていこうということは、商業ベースじゃないか、という突っ込みがくることは予想される。
 強引だが、食っていくことと、商業ベースは違うという前提を立てておく。
 商業ベースとは、儲けることである。
 自分と家族が食っていく以上の、余剰なものを求めるのが儲けることであり、それが商業ベースだと強引に言ってしまう。
 「誰にもなれる脚本家」というテーマを、僕に書く資格があるか?
 少なくとも、このコラムを書きだした頃、そして、今もある。
 今、仮に僕が死んでも、家族は何とか食っていけるだろう。
 10年以上先のことは分からないが……。
 脚本で食えなくなって「誰でもなれる脚本家」なんてコラムを書いていても信憑性がないから、今のうちにこのコラムを店じまいしたほうがいいと思い、今回のコラムを書いている。
 「誰でもなれる脚本家」……僕がなれたのだから、あなたもなれる。
 まず、脚本で儲けようとしないことである。
 人の受けを狙わないことだ。
 どうせ書くなら自分自身を表現しよう。他にせいぜい書けそうなのは自分の好きな人のことだ。
 相手のいいところを見つけよう。それを相手に示そう。
 好きな人には好かれたいからね。ただし、その表現は相手に分かりやすくだ。
 相手があなたを嫌いでなければ、自分のいいところを他人から指摘されて嬉しくないはずはない。
 しかし、その指摘が分かりにくいと、混乱を招く。
 「何言ってんだか……」で、終わりである。
 自分の指摘が、相手にとって分かりやすいかどうか、つまり、どういう言葉や態度であれば相手にうまく伝わるかは、相手を観察しなければ分からない。
 で、好きな人のことは、どうしてもしっかり観察してしまうから、そのうち自分でも相手が分かるような気になる。
 で、あなたの観察が正確ならば、相手もあなたを分かろうとする。
 ここで、相手が好きな自分と、そんな自分と相手を冷静に見つめる目が必要になる。
 その冷静な目は、自分が本当に相手が好きかどうかの再確認になる。
 もしかしたら単なる思い込みかもしれない。
 思い込みで好きになった気でいたのなら、相手にとって迷惑である。
 もっとも、若い時、好きな人が異性である場合は、観察するより先に、口説いたり、手を出したりしてしまうけれど、それはそれで事後に相手を見つめ再観察する。そこでも冷静な目が必要である。自分が口説いたこと、手を出したことが間違いだったかもしれない。
 反省するなら、お早めに……。
 昔は、ストーカーなどという言葉はなかった気がするが、自分の思い込みにのめりこみ、相手に対する観察をおろそかにすると、今ではストーカーにされる。
 もっとも、相手が本当に好きで、相手があなたを好きなら、ストーカーにはならない。相手は、強く愛されていると感じるだろう。
 あなたと相手がもてる人の場合、普通は、第三、第四の関係者が登場し、そっちに気配りが必要になる。いわゆる三角関係、四角関係だが、これはこれで観察するには面白い。
 で、本人が望まなくても大惨事になりがちである。これは、並みの脚本より面白い。
 なにしろ、あなたが主役の展開であるから、文字どおり、他人事ではないリアルドラマになる。
 本当はもっと複雑な関係がありがちなのだが、ややこしくなるので、ここでは例にしない。
 これらのことは、あなたと相手とのことだから、あなたにしか、当事者にしか書けない。
 当事者たちがそれぞれの目線で書くと、三角関係の場合、最低、みっつのドラマができあがる。それぞれの目線によって真実が変わって語られる「藪の中」形式である。
 しかし、冷静な観察者でもあるあなたには、他の当事者の気持ちが分かる気がする。
 ひとつの出来事が、あなたには、みっつのドラマに見える。
 ただし、このみっつのドラマは、当事者には深刻でも、他人にはどうってことはない。
 当事者以外に書いたり話したりしても、他人事としか受け取ってくれない。他人に受けるわけはない
 でも、本当に親しみをもって書けるのは、これぐらいである。
 僕を例にすれば、僕の場合、書くことが嫌いである。したがって、知らない他人の受けを気にするようなものが書けるわけがない。自分の書けそうな物しか書いてこなかった。
 要は、いろいろ書いたところで自分自身に起こったことの変化球しか書けない。
 ロボットものの登場人物にしろ、魔女っ子ものの登場人物にしろ、結局、同じものからの変化形である。
 しかし、ひとつの三角関係からみっつのドラマが生まれたとしても、しかし、あなたのドラマはひとつである。それは、あなたにしか書けないドラマである。
 三人の関係者の中で、あなたにしか書けないドラマがひとつある。
 そのドラマも、あなたの気分が憂鬱の時、平常の時、陽気な時、気分次第で姿を変える。
 しかし、あなたは、他の誰でもない。あなただ。それを、見失わないことだ。
 アニメに限らず映像作品は、現実に見える時があるが、所詮、虚構である。
 映像の切れっぱしをモンタージュした作りものである。
 現実の三角関係で、最低でもみっつのドラマができるのだから、虚構の世界では、無尽蔵と言っていいほどドラマができるはずである。
 しかも、この世界は、三角関係の三人だけではなく、何十億もの人がいて、それぞれがみんな違うひとりひとりの個人である。
 そして、あなたの話は、あなたしか描けない。
 世の中には、大ヒットした映画、アニメ、ドラマがいっぱいある。
 今、現在、ヒットしているアニメが、あなたは好きかもしれない。
 熱狂的なフアンかもしれない。
 しかし、同じ作品の同じ熱狂的ファンをよく観察してみるといい。
 その作品の同じ部分に、同じ感じ方で熱狂しているのだろうか?
 もしそうだとしたら、どちらかがどちらかのクローンとしか考えようがない。
 そんなことはあり得ない。
 あなたは、あなたである。
 大ヒットした作品とは、大勢の同一意思が大集合した作品ではなく、個々の意思が、てんでばらばらに自分の好みを見つけた結果、たまたまそれが一つの作品だった――そうした結果論だと僕は思いたい。
 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の結果だとは思いたくない。
 アニメは、1人では作れない。
 一部を除き、アニメ業界で創作に関わる人たちの低所得と生活の悲惨さは、最近よく知られてきた。
 にもかかわらず、アニメは作られ続け、少なくとも日本の映画界を支えている。
 DVDの売り上げも多い。
 質も上がってきているようだ。
 それは、制作スタッフそれぞれの、個人の創作意欲に関わるところが多い気がする。
 アニメ(アニメーション)制作は食わねど仕事仕事、「武士は食わねど……」どころではないだろう。
 それは、それぞれが、いつか自分自身の作りたいアニメ(アニメーション)を作りたい気持ちの集積なのかもしれない。
 はっきりいって、アニメ業界で、脚本家は恵まれている方であろう。
 にもかかわらず、他の制作スタッフには申し訳ないほど、しょうもない脚本が量産されている。
 脚本家なんかいらないよ、あるとかえって迷惑だ、というような作品も、時々見受けられる。
 そんな中で、今後のアニメ脚本はどうあるべきなのか……。
 僕が出会った実例がある。
 30年以上昔のことである。
 まだ、企画状態の『まんがはじめて物語』の制作会議だった。放映予定は半年、しかも裏には大相撲中継がある土曜午後5時半だった。
 誰も視聴率など期待していなかった。
 大きな会議場に局やらスポンサー、制作スタッフほか、商工会議所の何十周年記念作品ということで会議の人数はやたら多くて、番組監修者として有名なSF作家もいらしていた。
 それぞれが名刺交換して、席の順に、番組に対する抱負を述べ始めた。
 「子供に楽しく分かりやすい学習番組」という意見がほとんどであり、それがこの番組としては当然のことに思えた。
 たまたま1話を書く予定の若くて生意気な脚本家らしき男に発言の順番が回ってきた。
 この脚本家、同じ局の『まんが世界昔ばなし』というアニメで、あまり知られていない昔話のストーリーを、好き勝手に変えてしまう男で、「もともと、昔話なんて原典がはっきりしないものが多いんだから、この脚本が気に入らないなら降ります」と、平気で言っているような脚本家もどきだった。で、プロデューサ側も監督も「どうせ知られていない昔話だし、面白ければ、ま、いいか」ってな調子で、いつの間にか『まんが世界昔ばなし』の脚本のレギュラーになっていた男だった。
 その男は、「子供に楽しく分かりやすい学習番組」など書きたくなかった。
 で、言った。
 「○○年に誰が何を発明した、なんて教科書で暗記させられるようなことは書きたくありません。そのものが、なぜ、この世の中に必要で発明発見されたのか、そのニーズ、必要性を書きたいと思います。といったって、昔の人の気持ちは分かりませんから、僕にとっての必要性を書きたいと思います。つまり、電気のない時代に僕が生まれたら、電気が必要かどうか。汽車のない時代に生まれたら汽車が必要かどうか。自分を中心に考えた必要性を面白おかしく書くつもりです」
 すると、小説で「日本」を「沈没」させた監修のSF作家の大家が言った。
 「もう、私の監修は必要ないでしょう。後は、首藤さんにおまかせします」
 びっくりした。名刺交換しかしていないのに僕の名前を覚えているSF大作家の記憶力に……。
 他の方たちは、SF大家のさっさとした決断力に驚いた。
 そして、みなさん、ほんとうにやりたかったのは「子供に分かりやすい学習番組」などというありふれたものではなく、他の「何か」だったのだ。
 結局、「こんな番組ができるの?」で始まった「まんがはじめて物語」シリーズは、大相撲に負けずに13年続いた。ちなみに、違う局で同時刻、ニュータイプの「ロボットもの」も始まった。僕が、小田原出身の富野氏とお会いしたことがあっても『ガンダム』のことを全然知らないのは、こんなわけである。
 打ち切りにならないようなロボットものが『ゴーショーグン』で、おもちゃの売れる魔女っ子ものが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』で、というふうには作ってない(実際の売れ行きは知らないが)。「こんなアニメできるの?」と聞かれたら「こんなアニメしか僕にはできません」が僕のスタンスで、現在まで来てしまった。
 アニメは1人では作れない。けれど、「こんなアニメの脈本ができるのなら、私も私のやりたいことをやってみよう」と、スタッフやキャストのやる気がそんな感じで膨らんで、作品がグレードアップしていった気がする。
 僕は書くことが嫌いである。だから、最低限、自分のやりたいものしかやらなかった。
 やりたくないものはやらないで済んでしまってきた。
 僕の名前の出ている作品は、「こんなことやれるなら、私もやる」という、スタッフ・キャストのやる気のたまものでもある。
 ね、こんなことなら、「誰でもなれる脚本家」という副題に嘘はないでしょう?

   おわり


●あとがき

 で、まあ、「えーだば創作術」はおわりです。
 何度もの休載があり、「えーだば」では済まないとは思いますが、我慢してくださった編集の方、なにより読者の方々に感謝の言葉もありません。
 この歳になり思い返せば、実際の話としては、初回のはじめてにして最後に脚本家になろうと決意するまでの話が、かなりドラマチックかつどたばた喜劇で「ほんまかいな?」が連続でおかしいのですが、その時代はもはや遠く、今の人が真似をできるはずもなく「誰でもなれる脚本家」の趣旨とは違ってしまうので、はぶきました。
 このコラムに書かなかった私生活の部分も、抱腹絶倒の悲喜劇が、連続していました。
 ま、僕の書くものより、そっちの方が面白いかもしれません。僕が客観視できればね。
 その時代の登場人物が死に絶えて、僕だけが生き残っていたら、じじいの戯言として聞いてもらうことがあるかもしれません。
 では……おつかれさまでした。
 正直言って、気楽にアニメの脚本家は目指さない方がいいと思いますよ。
 言っても無駄でしょうが……。
 


■おわり

(10.06.30)

 
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