web animation magazine WEBアニメスタイル

 
アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第23回
「街角のメルヘン」の誕生 2

 「十八才の童話(メルヘン)」こと「街角のメルヘン」の話を続ける。
 僕が18才の1968年から時間をすっ飛ばして、1984年のことである。
 その頃には、一応、プロのライターとして食べていけるようにはなっていた。
 そして、その年に始まった日本アニメ大賞第一回……手塚治虫賞とも言われていたと思う……の脚本賞をいただいた。普通、脚本賞の対象作品というのがあるが、その年「まんがはじめて物語」「ミンキーモモ」「さすがの猿飛」が候補の作品の中に挙がり、その3つの原案やらシリーズ構成やら脚本を書いていたのが僕だったから、受賞対象作品はこの3つだった。「なんといっても第一回だ。名前が残るぞ」などと、はげまされたが、いつの間にか、アニメ大賞自体が消え、今はやっていない。
 脚本賞なんかもらったら、普通胸を張り、決意もあらたにがんばりそうなところだが、張り切るどころか、その頃、僕は脚本に疲れていた。
 おまけに、「戦国魔神ゴーショーグン」と言う自作アニメのノベライズの仕事も受けていた。
 3つの作品の脚本は同時進行していて、しかもそれぞれの持つテーマが違っていた。1週間に3本、別の種類の作品のことを考え、さらに「ゴーショーグン」のノベライズも続編を書くことが決まっていて、その続編以降の構想もできていた。
 忙しくて目が回りそうだったし、ついでに毎夜のようにお酒も飲んでいたから、睡眠時間もほとんどなく本当に目が回っていた。
 よく体が壊れなかったものだ……それこそ若さゆえ……である。
 こんなことを続けていていいのか? 他にやりたいことはないのか?
 お前、本当に脚本家を続けていけるのか? 本当は書くことが嫌いじゃなかったのか? これが首藤剛志の人生でいいのか? 結構、困ってしまった。いや、悩んだといっていいかもしれない。
 脚本賞を取った矢先だし、いまなら、いさぎ良く脚本家を止めるのに、格好良い時期だと思った。
 他人から見れば、絶好調に見える時、僕には「これで良いのか?」と考え込んでしまうことがよくある。これは、ほとんど僕の持病といっていい。だが、僕が脚本賞を貰ったその頃は、オリジナルビデオの勃興期で、その風は、アニメにも吹いて来ていた。何本かがオリジナルビデオアニメが製作もされつつあったが、そのほとんどが、テレビアニメ用の企画が流れたものだった。
 「そんなもののどこがオリジナルなんだ」
 現状に満足していない人も多く、そんなプロデューサーの一人に当時、キティフィルムのプロデューサーの宮田智行氏がいた。
 宮田氏とは、彼が「竜の子プロダクション」のプロデューサーだった頃からの知り合いだったが、それより、むしろ、同年代の飲み友達として、新宿の飲み屋で、映画の話をよく語り合っていた仲だった。
 そんな彼と、行きつけの飲み屋で酒を飲んでいた時、たまたま「十八才の童話(メルヘン)」の話が出た。
 「それがそこそこ売れれば、日本のアニメは変わる。こういうアニメを俺は作りたかったんだ」
 彼は、僕の脚本を握って離さなかった。
 「今のアニメでは無理だ」
 僕は言いかけた。
 「やってみなければ……いや、やれるはずだ」
 彼は可能な限りの優れたスタッフを集めた。今思えば、驚くほどのメンバーが揃った。
 若き日の天野嘉孝氏がメインのキャラクターデザイナーで、今でも斬新に見える主人公の二人を描き、イメージシーンには、それぞれ別のデザイナーが個性的なキャラクターと原画を作りだした。
 小林七郎美術監督を中心とした美術と背景は、春夏秋冬の新宿西口をロケハン……いや、アニメハンティングしまくった。
 総監督は、当時「みゆき」というアニメを監督していた西久保端穂氏に決まった。
 みんな、若く、そして、張り切っていた。
 僕と総監督とプロデューサーは、西口の高層ホテルの中で、予算の関係もあり、一番安いホテルのシングルルームに三人で泊まり、西口を見下ろしながら脚本の修正をした。
 1968年から1984年に道の風景が変貌しただけで、シナリオの修正自体に時間はかからなかった。
 その冬は奇跡も起こった。新宿の西口に雪が降ったのだ。脚本には、冬の夜の雪のシーンが必用だった。作画監督の田中平八郎氏が、この時の事を、この企画に賛同して出してくれた近代映画社の「ジ・アニメ」という雑誌のムック「街角のメルヘン」の中で感慨深げに書いている。
 ……新宿に雪など降るのだろうかと? という心配もつかの間、ある日、ビル街は雪に包まれた。ちょうどその頃、私たちは作画に入ったのです……と。さらに、こうも書いている。この作品の作画はかなりの部分、女性スタッフによって作られ、いつもなら静かに作画に入る彼女たちが、始めから歯がみし(!)口をとんがらせ(!)吠え、叫び、髪を逆立て(!)熱し激した。思えば作画の段階でかくのごとく意見のとびかう作品もめずらしくそれだけ熱の入った作品といえよう……と。
 音楽は、僕が18才の頃、流行った「赤色エレジー」のあがた森魚ひきいるバージンVSの曲が、何曲も流れ……そこだけが、なんとなく1968年を感じさせてくれて……ミュージックビデオ風の性格もおびていた。
 その頃、ほとんど疲れ果てていた僕は、「さすがの猿飛」の次に予定されたいた作品のシリーズ構成を病気を理由にお断りし……本当に体がおかしくなっていた……静かに「街角のメルヘン」の完成を待っていた。
 でき上がったフイルムを見た音響監督の松浦典良氏(残念なことに今年、お亡くなりになった)は、音にこだわり、わずか10分ほどの男女二人の台詞のアフレコにダメ出しを続けて三日かかった。童話作家志望の18才の声は、若き日の永瀬正敏氏……「隠し剣、鬼の爪」(山田洋次監督)の主役、剣の達人は今もあの時のことを覚えているだろうか?
 題名も「十八才の童話(メルヘン)」から「街角のメルヘン」に変わり、ついに完成した。
 でき上がった「街角のメルヘン」は僕だけの作品ではなく、関わった人たちみんなの「街メル」(みんなはそう呼んでいたようだ)になっていた。
 こうして、映像化されるなどとは、夢にも思わなかった僕の最初のシナリオは、オリジナルビデオアニメとして完成した。プライベートアニメでも自主アニメでもなく、あくまで商業ベースを狙ったものだった。
 だが、そのビデオは、レーザーディスクにもなったが、売れたとは言えなかった。出来が悪いという人はいなかったが、首をかしげる人も多かった。
 だが、アニメ大賞の僕がとった脚本賞の対象になった「さすがの猿飛」をプロデュースした片岡義朗氏は「本当はこういうアニメを作りたかったんだ」と「街角のメルヘン」を見て言ってくれた。
 「この作品の脚本をどんなふうに書いたんですか?」と聞く人もいれば、「この作品に脚本があるんですか?」とさえ言う素人の人もいた。
 さらにまたまた「このアニメは、生まれるのに10年早すぎた」と言う人もいた。「68年に書いたものが、84年に、まだ10年早いって言われるの?」
 これには、ため息をつくしかなかった。
 けれど、この作品で、結局、僕はアニメから足を抜けなくなった。
 ちょっとだけアニメを書くことに疲れなくなったからだ。
 かなりアニメに詳しい人も、この作品の噂を聞いたことがあっても 当時、ビデオかレーザーを買った人以外、見た人はほとんどいないだろう。
 僕の書いた脚本で、一番多くの人が見ただろうアニメが、「ポケットモンスター」のファースト・ムービー(ミュウツーの逆襲)……世界一ヒットした日本映画だそうだ……なら、もしかしたら僕の脚本で、日本で一番見られていないアニメが、「街角のメルヘン」かもしれない。
 レンタルされている気配もないし、上映時間は約50分……テレビで放映するには半端な時間だ。CMを入れられそうな場所もない。
 事実、ケーブルやら衛星やら、これだけ放映媒体が増えているのに、どこかで放送されたという噂も聞かない。
 「ジ・アニメ」という雑誌も廃刊になった。
 だが、今になって、突然、また「街角のメルヘン」が現れたのだ。
 ある日、小田原に住んでいた僕の家に、2人の男の人が訪ねてきた。
 キティフイルムの権利を持っているファイブ・エースという会社が、DVDで、「街角のメルヘン」を出したいという。
 18才から数えて、40年近い年月である。
 大袈裟に言えば、およそ半世紀である。
 今、「街角のメルヘン」をご覧になる方がいたとして……また「この作品、生まれたのが10年、早いよ」といわれるのだろうか? 今度こそは、そんなことはないだろう……と願いたい。
 あ、そうそう、「街角のメルヘン」のシナリオ上で女の子のモデルになったガールフレンドは、完成当時、ドイツにいて、ドイツ人の人妻になっていたが、その後、偶然、日本で会ったときにビデオを見せた。
 最後まで、じーっと見ていてくれたが、「雰囲気いいけど……わたしに顔が似てない」
 「当たり前だろ……天野さんがお前に会ったわけないし、だいいち顔が似ていたら、この作品どうなっちゃう……」
 「ごめん、ドイツで、こういうアニメーション、見たことないの」
 彼女が僕にあやまったのは、めったにないことだった。
 これで、「街角のメルヘン」の話題は、ひとまず終える。

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 渋谷の仕事場に引きこもっている僕に、目新しいことは何もない。
 セリーグ優勝した阪神も、日本シリーズが1勝もできないあの結果では、言葉もない。
 脚本家で、阪神ファンの金春智子さんに、「お気の毒様」というのもかえって気の毒だ。
 で、話題を変えて、映画の話でもしようと思う。
 「脚本家になるためには、どんな映画を見たらいいですか?」
 よく聞かれる質問である。
 どんな映画でも、みんな見ろ……といいたいが、土台、そんなことは無理である。僕にだって、そんな無茶苦茶はできっこない。
 しかし、お勧めしたいことはある。
 大きな本屋に行けば、「世界の名作映画ベスト100」とか「これだけは見ておきたい200本」とか、すごいのになると「死ぬまでに見ておきたい1001本」なんてものまである。
 あわてて買って読んだが、日本未公開以外のものは、ほとんど見ていたのでほっとした。
 最近は、昔と違ってレンタルビデオがあるから便利である。
 レンタル代など、シナリオ学校の授業料と比べればたかが知れている……最近の授業料を聞いてびっくりした。これで脚本家になれなければ、お金をドブに捨てるようなものだ。最近は、500円の名作DVDも売っている……全てが名作というわけではないけれどね。
 ほんの一年間でいいから、テレビ番組や、今、上映中の話題の映画を我慢して、名作と言われるものを200本は見ておいて下さい。
 200本なら、一年でも不可能ではないはずだ。誰が推薦している映画にしろ、余程、変な人が推薦している映画でないかぎり、50本や60本は名作がだぶってくる。
 特に古典と呼ばれる映画群は、たかだか100年ちょっとの映画の歴史だから、数はしぼられる。
 ところで、お急ぎの方も、そうでない方も日本映画は、当分はずしておいていい。描かれている風俗や感性が古く現代に通用しそうにない。録音も悪くて台詞が聞き取りにくいし、画質も悪い。乱暴な割り切り方だが、世界的に通用して日本に入ってきた洋画の方が厳選されているし、その分信用もできる。世界的名画と言われているアキラ・クロサワ、ヤスジロウ・オズ、ケンジ・ミゾグチさんの作品も日本映画である以上、後回しにしていいと思う。
 ただし、洋画の字幕は、本当の台詞とは、違うと思って見るように……字幕の字数は限られているから表現に限界があるし、翻訳者の勘違いや無知識で、とんでもない訳が出てくることもある。台詞の意味を伝えているだけだと思いながら見るように……。余裕があれば、自分ならどんな字幕を書くだろうか考えてみるのもいいだろう。
 アメリカ映画の名作といわれる「風と共に去りぬ」のラストシーンに「Tomorrow is another day」と言う台詞があるが、「明日はもうひとつの日だ」と「明日は明日の風が吹く」では、同じ訳でもかなり感じが変わってくる。もしかしたら、むしろ声優を使った日本語版のほうが良い場合があるかもしれない。
 ついでに言っておくが民放のテレビで放映している映画は、本物とは別物と考えていい。放送時間やCMの関係で、原形を留めてはいない。
 それから、見ている間に邪魔が入らぬように、一人で見ることだ。トイレも我慢すること。できるだけ映画館で見るような状態を維持するようにしよう。
 ただし、いくら古典的名作だからといって、古い順から見るのは止めよう。最初から「戦艦ポチョムキン」を見たら、いくら映画史上の傑作だといわれても、あまりの古さに飽き飽きして挫折してしまう。
 トーキーでカラーの名作と呼ばれるものから見始めるのが妥当な線だ。
 なぜ、昔の名作といわれる外国映画を見ておくことが大切か……これからお話していこうと思う。

   この欄もつづく……
 

■第24回へ続く

(05.11.02)

 
  ←BACK ↑PAGE TOP
 
   

編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
Copyright(C) 2000 STUDIO YOU. All rights reserved.