web animation magazine WEBアニメスタイル

 
アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第29回 バルディオス愛憎改造計画……?

 このエッセイの27回に、『宇宙戦士 バルディオス』について、番組タイトルのロボットが、第4話まで登場しないのは、おそらく他のロボット物にはなかっただろうと書いたが、読者から、なんと12話まで主役のロボットが登場しないロボットアニメがあったという指摘があった。1977年に放映された『惑星ロボ ダンガードA』という作品だそうである。たぶん、製作会社や放送局に、スポンサーの関係や原作ストーリーの関係で、あえて、ロボットを出さないで採算がとれる理由があったからだろうが、もしも、この作品のスポンサーにロボット玩具メーカーがついていたとしたら、商売になるロボットを12話まで、出さないその我慢強さにあきれるというか、その商売ッ気のなさに、恐ろしささえ感じる。
 いずれにしろ、このエッセイには資料的な意味もあると思うので、この種の御指摘は感謝し歓迎します。
 ただし、こちらが答えに窮するような細かい指摘は、個人的にメールで返答する場合はあるかもしれませんが、このエッセイ内では書かないこともありますのでよろしくお願いいたします。

         *  *  *

 さて、話を『宇宙戦士 バルディオス』に戻す。
 ストーリーも中盤を過ぎると、さすがにメインのストーリーを避けて、ゲストで登場する人間を中心に書いていた僕にも、終盤に向かうために、地球側についている主役のマリンという青年と侵略側の女性司令官のアフロディアの愛憎関係と、僕の書いているエピソードのすり合わせが必要になってくる。
 画面上では、両者とも毎回のように登場しているから、視聴者からすれば、おなじみになっているが、実際は、敵味方に分かれて、ロボットや戦闘メカに載っているから、顔を会わすことはめったにない。
 たまに顔を合わせるエピソードがあっても、周りにいるのが憎悪しあう敵味方であるから、アフロディアも、別れ際に「いつかお前を殺してやる」などという殺伐な捨て台詞を言うか、それらしい傲慢無礼な態度をマリンに見せなければならない。これでは、愛憎の愛のほうがいっこうに進展しない。
 おまけに、この作品はスポンサーの都合でバルディオスというロボットを中心に描かなければならないから、現実には圧倒的に地球側が負けているのに、バルディオスが負けるところはあまり見せられない。
 少なくとも本編中で、バルディオスの格好の悪い所は、ロボットのおもちゃの売れ行きに影響するから見せられないのである。
 仮に負けそうになっても最後はバルディオスが勝つ。そんな場面の連続になる。エピソードの裏では、侵略側が勝っていても、番組で描かれるバルディオスは勝っている。当然、バルディオスに負けて悔しがる場面はアフロディアが担当することになる。「おのれ! マリン。今度こそ覚えていろよ」という言葉通りの台詞は言わないにしろ、しょっちゅう悔しい顔を見せるのはアフロディアである。
 戦いは有利……つまり、アフロディアは優秀な司令官なはずなのに、笑顔も見せられず、冷徹な顔、たまに表情を変えるとすれば、バルディオスにしてやられて悔しがる顔ばかりである。ついでに、いつも会うのは、むさくるしい総統ガットラーの冷酷な顔と声……そんな男に忠誠を誓って男勝りの軍人として生きているアフロディアは、冷静に考えれば変な女である。物語のヒロインとしては、かなりかわいそうな性格設定である。
 おまけに、弟をマリンに殺されているという過酷な設定。その失った弟を思う気持ちは、ちょっと過剰すぎて、大人の目からみれば、いささか近親相姦的な感じすらする。
 さらに、以前に、アフロディアとマリンが熱烈に愛し合った関係でもあれば別だが、そんな設定はほとんどない。
 本来なら、マリンに対する憎しみが膨れ上がる一方で、その気持ちが愛情に向かうのは難しすぎるヒロインである。
 それが、マリンを憎しみつつも愛するようになるのが、シリーズ構成の酒井氏のストーリー・ラインであり、その愛憎のラストが悲劇に終わるかハッピーエンドに終わるかは、まだ酒井氏の胸のうちであった。
 どっちにしろ、中盤までの展開では、その後のアフロディアの気持をマリンへの愛へ転換させるのは強引である。
 たとえ、マリンがアフロディアの命を助けるというようなエピソードを入れたとしても、それだけでアフロディアの気持ちが愛に変わるとも思えない。そんな展開は安っぽすぎるしリアリティがなさすぎる。
 つまり、アフロディアがマリンを憎む気持ちががっちり設定されすぎていて、マリンに対する凍った気持ちが簡単には溶けていかないのである。
 そろそろ、アフロディアの硬い肩を柔らかく揉んでやったほうがいいんじゃないか……そのほうが、終盤のアフロディアのマリンへの気持ちが描きやすくなるとおもうのだが……と、アフロディアとマリンの関係のエピソードには関わらないつもりだった僕が、何となく酒井氏に言うと、「そうだね。そういうエピソード、首藤君やってよ」ということになった。こっちとしては、おいおい……である。
 僕としては、その時、地球側のレギュラー、クインシュタイン博士の、女性的な部分を描くエピソードを書くつもりだったのである。
 結局、クインシュタイン博士の話は後回しにして、アフロディアの硬い気持ちを柔らかくするエピソードを、書くことになった。
 20話から21話の「蘇った悪魔(前後編)」と22話の侵略側内でおこる悲恋悲劇「特攻メカ・ブロリラーの挑戦」がそれである。結局、連続して、3本書くことになった。
 これはどんな作品でも言えることだが、いがみ合っている二者の関係を緩和するには、共通の敵、つまり第三の敵を作ることが手っ取り早い。
 いがみ合う二者は不本意ながら協力して、共通の敵と戦ううちに、互いを敵視する気持ちが緩んでくる。
 そして、緩んだところで、自分たちの敵味方の誰もいないところで、2人だけにする。
 だが、危険が去った訳ではない。第三の敵が、2人を狙っているのだ。
 2人は、第三の敵から身を守るために協力せざるをえない。
 そこに、いがみ合いとは違う、今までにない感情が生まれてくる。「お前と敵同士でなければ、違う関係になれたかもしれない……」
 と、2人に思わせれば、このストーリーは成功である。
 ただし、互いの気持ちはそこまでである。
 あくまで、本来の互いは敵同士であることを忘れてはならない。
 互いの気持ちが友情や愛情まで発展しては、行きすぎである。
 軽薄でおめでたく安易なストーリーになってしまう。
 さらに必要なことは、共通の敵に存在感があることも大事である。
 『バルディオス』には、地球側と侵略側の戦いが生みだした、いわば戦いの被害者たちが、第三の敵として登場する。
 戦いの被害者とは、民間人もそうだが、なにより戦争の先陣で戦う兵士たちである。
 戦争開始を決めたのは上層部で、実際に殺し合うのは下層の兵士達である。彼らはなんの恨みもない相手と、敵というだけで殺し合わなければならない。「蘇った悪魔(前後編)」は大規模な戦闘の行われた戦場でかろうじて生き残った敵と味方の兵士が20世紀の負の遺産、ロシアの地下に眠る核兵器基地を発見し、敵味方が手を組んで、第三帝国を名乗り、地球側と侵略者側を、核兵器で脅迫するというストーリーである。
 第三帝国にとっては、戦いたくもない戦争にかりだされた多数の犠牲を強いられた恨みを、地球側へ対しても侵略者側に対しても持っている。
 第三帝国側にも一理はあるのである。
 その第三帝国を攻撃するために、地球側からマリンの率いる特殊部隊が出動し、侵略者側からはアフロディアの率いる特殊部隊が出てくる。
 だが、特殊部隊の面々も、自分が犯罪を犯して殺されるのは仕方がないとしても、他人の戦争で死ぬのはまっぴらご免の荒くれ者(殺しのプロ)が選ばれている。そして、互いの特殊部隊の戦闘で、彼らは関わりたくもない戦争で、次々に死んでいく。さらに、人間達の始めた戦争に全く関わっていない原野にすむ動物、狼までが、テレトリーを侵害された怒りで、特殊部隊に襲いかかってくる。
 結局、地球側も侵略側も特殊部隊が全滅し、マリンとアフロディアだけが生き残り、2人だけで洞窟の中で一夜を過ごす。
 その洞窟の中で、2人が何をして、何を語り合ったかは、くわしくは書かなかった。視聴者の想像にまかせるが、この洞窟の中で、アフロディアの内部に何かが生まれればいいのである。「蘇った悪魔(前後編)」の結末は、結局、マリンとアフロディアの活躍で、第三帝国は滅び、マリンとアフロディアはいつものように敵対した形で別れるが、この前後編の狙いは、アフロディアの心の内部にいるマリンの存在を変えるだけなく、軍人としてのアフロディアの戦争に対する見方が、少しだけ変わる事も意識して書いたつもりである。
 つまり、アフロディアにとってこの戦争はなんなのか? そして、マリンはどんな存在なのかを、アフロディアに考えさせる話なのである。
 そのために、第三帝国やら、荒くれ特殊部隊の死にざま(アフロディアは目撃していないが……モンタージュ効果でアフロディアの気持ちとつながるはずである)など、全編でよってたかって、アフロディアの硬い気持ちが、少しだけ軟化したと、視聴者に思わせるように書いたのが「蘇った悪魔(前後編)」の本来の目的である。その効果があったかどうかは、視聴者の感じ方にまかせるしかない。
 さらに、22話。アフロディアの従者である女性が、その恋人と心中同然に死んでしまうエピソードがある。
 他の脚本や小説を書くときにも、役にたつのだが、自分が自分でも気がつかずに、心のどこかに閉じこめている愛に目覚める時を描くのに、いい方法がある。
 直接、恋人の対象になる相手に会って、心が動揺する様子を描くよりも、他人の恋愛模様を目の当たりにして、自分の中にある愛を意識させる方法である。
 つまり、他人の恋愛を見て、うらやましいなあ……わたしにも、あんな恋愛ができないかなあ……と、思うことに似ている。
 もっとも『バルディオス』のアフロディアは、軍人を自認する硬い女だから、他人の恋愛を見ても、軟弱だとしか思わないだろう。
 だが、もっとも身近にいて、しかも信頼し寵愛している女性の、死を賭けた愛……しかも心中同然の結末を知って、心が動揺しないだろうか? 自分の中にある愛を意識しないだろうか……。他人の愛を知り、自分の愛を知る……間接的ではあるが、露骨に、好きだ嫌いだという恋愛を描くより、効果的だと思う。
 卑近な例をあげるが、好意を持っている相手に、高価なプレゼントをするより、数組の恋人達が愛を語らっている夜の公園を、何げなく一緒に散歩するほうが効果がある時もある。
 もし、あなたが好意を持っている相手がいたら、試してみるといい。 もっとも、それが、あなたと夜の公園を歩くこと自体を嫌がる相手だったら、止めておくほうが身のためである。
 ともかく、マリンを憎悪する硬派軍人女性、アフロディア軟化作戦には、苦労させられた。
 たぶん、アニメでない本物の女性相手の方が、数段、楽なことは確かだろう。
 アフロディア軟化作戦が、その後のアフロディアに効果があったかどうかは、視聴者の評価にまかせる。

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 モンタージュの話である。
 例えば、爆撃シーンがある。
 次に、ころんで泣きわめく子供の顔がある。その顔だけ写す。
 ふたつつなげれば、悲惨このうえない戦争である。
 同じ、爆撃シーンがある。
 お祭りでもいい、運動会でもいい。はしゃいでいる子供の顔がある。
 ふたつつなげれば、大勝利万歳の戦争である。
 関連のないふたつの映像をつなげれば、違う意味が出てくる。
 大切なことは、映像と映像をつなげる人の意志で、色々な意味が作りだせるということだ。
 皆さんの見近な映像にTVニュースがある。
 事故や殺人などの事件が起こると、現場のシーンが羅列される。
 しかし、それが本当のシーンだと言いきれるだろうか。
 東名高速で、ひっくりかえった事故車の映像が写る。
 次の映像で首都高速の道路が写る。
 逆に首都高速の道路が先に写る。
 次に東名高速の、事故車の映像が写る。
 どっちも、首都高速で事故が起こったように見える。
 で、アナウンサーが、「首都高速で事故が起こりました」などというと、完全に、東名高速の事故が首都高速の事故になってしまう。
 映像をつなげる人次第で、事実を変えることは可能なのだ。
 それを考え出すと、TVニュースなど、どれも信じられなくなってくる。TVニュースを信じるためには、TVニュースを作る人と視聴者との信頼感に頼るしかない。
 広い意味で、映像と音との間にもモンタージュが成立する。
 戦艦大和が波をけたてて海を進む画面がある。
 いさましい、軍艦マーチ(昔、パチンコ屋で流れていた)のような、または、スター・ウォーズのテーマのような曲が流れれば、やれ進め、それ進め、がんばれ! 勝ってこいよと勇ましく……になる。
 しかし、全く同じ波をけたてて海を進む戦艦大和の画面があって、悲しげに「海ゆかば」(知っている人がいるかな)の曲か、葬送行進曲のような悲しげな曲が流れれば……ああ、生きて帰れない特攻……かわいそう……悲しい……涙なしには見られない場面になる。
 同じ画面が、音楽ひとつで、違う意味を持ってしまうのである。
 つまり、音を入れる人の気持ち次第で、画面の持つ意味が違ってしまうのである。
 これは、新聞記事でもおなじことが言える。
 「○○さんが亡くなった。死の知らせを聞いた人々の間に悲痛なため息がもれた」
 事実は「死の知らせを人々は聞いた」である。人々の間には、喜んだ人もいたかもしれない。にんまり笑った人がいたかもしれない。
 「悲痛なため息が漏れた」というのは、その記事を書いた記者の感じ方、思い込みに過ぎないが、記事を読んだ人は「死の知らせを聞いた人々の間に悲痛なため息がもれた」と、記事通りに受けとる。
 これでは、新聞記者の気持ち次第で書かれて、事実が正確に伝えられたとは言えないだろう。これも、一種のモンタージュと言えないことはない。
 こんな例は山ほどある。いや、むしろ当たり前のことと言っていいだろう。新聞記事の報道ですら、記者の意識が入っていて、真実を伝えているとは言えないものが多すぎる。……ほとんどかもしれない。
 新聞記事の中から真実を見極めるのは、読み手のあなた自身次第と極論してもいいだろう。
 特に映像を使うTVや映画に、モンタージュ効果が作用していないはずはないのである。映像をつくる方に、その気があろうとなかろうと、モンタージュ効果は機能してしまう。
 だから、ドキュメンタリーとか記録映画とかいうものは、言葉はあっても、本当は存在しないのである。ただ、ひとつずつの映像に写っているものが本物であるだけで、ふたつの映像をつなげるかぎり、完成した作品には必ず、作り手がそうは思っていなくても、作り手の意志が入ってくるのだ。
 そうとなれば、アニメドラマにしろ実写ドラマにしろ、映像の元になるシナリオを書く場合、脚本家は、モンタージュの機能、技法を、徹底的に駆使し利用すべきである(余談かもしれないが、現在、アニメとかドラマとか実写という言葉を使い分けている理由が、僕には、実はよく分かっていない。特にドラマとは何か? 辞書を引いてもピントこないし、分かっている人がいたら、わかりやすく教えて欲しいものだ)。
 では、脚本でモンタージュをいかに効果的に使うか、それは、モンタージュというものを、頭や本で学ぶより、体で感じるしかない。
 だから、映画を沢山見ろというのである。
 そして、名作と言われる映画ほど、モンタージュを効果的に使っている。
 前回も言ったが、シナリオは文章を書くのではない。映像と音(台詞、時としては音楽)を、文字にして書くのである。
 モンタージュを忘れてはならないと思う。

   この項つづく
 

■第30回へ続く

(05.12.14)

 
  ←BACK ↑PAGE TOP
 
   

編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
Copyright(C) 2000 STUDIO YOU. All rights reserved.