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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第33回 『バルディオス』と『ゴーショーグン』の間に……

 『戦国魔神ゴーショーグン』――『逃亡戦隊バッキング(仮名)』が固まる間、書いていた作品を見落としていた。『まんがはじめて物語』シリーズがあまりに長大に続いたために、その間にやった、僕が忘れたら失礼な作品群があるのだ。『まんがはじめて物語』の棚から振り向くと、そこにかたまってシナリオが並んでいた。
 竜の子プロダクションで書いた1980年9月に始まった『とんでも戦士ムテキング』と1981年3月に始まった『ゴールドライタン』である。『とんでも戦士ムテキング』は『バルディオス』で僕が担当した部分が終わったら、交錯するように書き出した作品である。地球大破壊悲劇の『バルディオス』とうって変わった無茶苦茶なギャグもので、暗い内容の『バルディオス』で、なんとなく、しんねりむっつりしていた僕の気分転換に非常に役立った作品だった。
 と、同時に、フジテレビで、初めてやった番組でもあり、その流れは、後になって『さすがの猿飛』への目茶苦茶ぶりへと続いていく。いわば、僕のパッパラパー、ギャグ路線の先駆けとなった作品である。
 僕の作品群を、普通と違ったとんでもないアニメという印象を持つ方も多いと思うが、文字通り『とんでも戦士ムテキング』から、その兆候が現れ始めたと言っていい。と同時に、『ゴーショーグン』『ミンキーモモ』と続く、普通のロボットもの、当たり前の魔女っ子ものではない路線の布石にもなった作品と言えないこともない。
 「竜の子プロ」といえば、一見真面目な『ガッチャマン』で有名だが、さらに有名なのが『タイムボカン』シリーズの不条理、非道ギャグぶりだろう。『とんでも戦士ムテキング』は、ちょっと日本的で泥臭いギャグの『タイムボカン』シリーズを、少しだけアメリカンに、こじゃれて見せようとした意欲が、意欲余ってからまわりしたような作品だった。
 なにしろ、舞台はアメリカ西海岸風だが、世界征服を狙う悪役が、タコの頭に鉢巻きまいたクロダコブラーザースという、まぬけで憎めないけど、おシャレとはほど遠い、それでも、自分たちは、スマートだと思い込んでいる勘違いのタコの姿をした兄弟達だし、対する善玉も、主人公が正義の味方ムテキングに変身したときだけアメリカンでカッコいい、勘違い西海岸一家(そんな言葉があるのかな?)である。まぬけと真面目が対決するのが『タイムボカン』シリーズなら、まぬけとドジが対決するのが『ムテキング』だ。クロダコブラザースの世界征服作戦も、脚本家が考えられる限りの珍妙な方法で、真面目な脚本家が考えれば考えるほど、つまらなくなり、不真面目とはいわないが、変人奇人な脚本家がふざけて考えれば考えるほど面白くなるようなシリーズだった。確かこのシリーズも、脚本家の酒井あきよし氏の紹介で、脚本家の一員に入れてもらった覚えがあるが、根は真面目な酒井氏のことである。『ムテキング』の世界のあまりのアホらしさにつきあいきれずに、僕を紹介してくれたのかもしれない。
 僕は、本質的には真面目な人間だと思うが、時々、人が呆れるような無茶をやる二重人格どころか多重人格的なところがある。
 しばしば無茶苦茶なことをやって、「よくやるよ」と自分で自分に呆れる時もある。人畜無害とはいえないが、人畜有害、犯罪1歩手前……いや3歩ぐらい手前のことはやるから、今ではない昔の僕の様な人間と付き合うときは注意したほうがよいだろう。まさか警察の御厄介になることはないが、平穏な生活を願う人は、心やすらかではいられなかったと思う。
 特に、若いときの僕は、一見、大人しく見えるが、変わった奴という評判があったことを、自覚していた。ただ、自分を卑下しまくってもしょうがないから付け加えるが、ある種の女性にとっては、そこが魅力的だと言われていたらしいことも、確かであるらしいことも、らしい、らしい、とくどいけれども弁解として言っておく。どっちにしても、20年以上昔の話である。
 いずれにしろ、『ムテキング』は僕にあっていたらしく、水を得た魚とは行かないまでも、水を得たアジの干物ぐらいの元気は出て、かなりの本数を書いた。悪役のクロダコの娘が正義の味方ムテキングを愛してしまい悪の道から足を洗おうとして、体が、悪の象徴の色、黒と、愛の象徴、ピンクのマダラ模様になってしまう、題して「ああ悲恋! タコミの純愛」などという題名までおかしなエピソードを書いたのは僕である。
 脚本家がこうだから、作画、演出も、乗る人は乗る。あたかもこのころの竜の子プロは、『ガッチャマン』や『タイムボカン』シリーズもふくめ、新世代の台頭の時期とも言われていたらしく、プロデューサーには、後に『街角のメルヘン』を作ってくれた宮田知行氏……代理店、読売広告社の大野実氏……演出、絵コンテについてはよく知らないが、僕が知っている人では真下耕一氏他etc……若手がやりたい放題、張り切っていたという。
 確かに、その熱気は感じられたし、最初は、アメリカ西海岸風おしゃれのつもりだった『ムテキング』が、いつの間にか、気まぐれに純日本風に変わるなど、その無軌道ぶりも「とんでも」ない熱気のせいだったかもしれない。
 そのころ、僕がTBSで書いていた『まんがはじめて物語』も、卑弥呼が「わたし、いい女……」などと言って登場するし、聖徳太子は、「1万円札登場!(当時はそうだった)」と言って出てくるし、「あんたは古い、これからの1万円札は、私です」と胸を張って福沢諭吉、ルネッサンスの芸術家は、みんなニューハーフ言葉(事実、当時の芸術家はスポンサーつきの同性愛者が多かった)、テーマも、たとえば、人間、熱いときは休むのが当然……が、「夏休み」のはじめてで、「結婚」のはじめては、男が女性の部屋に忍び込む「夜ばい」(知っていますか?)が出てくるし、事実とはいえ、これが、文化庁や厚生省の推薦番組かと驚くようなものが続出。注射嫌いの司会のお姉さんが、虫歯を抜くのが嫌で、卑弥呼の時代から江戸時代まで駆け回り、華岡青洲の麻酔で歯を抜いてもらったら、間違えて虫歯でない歯を抜かれたり……そんな奇妙なエピソードを書いたのは、ほとんど僕で、「はじめて」ならば、なんでもやっちゃえ気分(ただし、歴史的事実は本当です)にしてしまったのも、『ムテキング』乗りといえないこともなかった。おまけに、ナレーターのロングおじさん(吉村光夫氏)が、超鉄道マニアときている。その関係の話になると、テンションが、がぜんあがるから、「はじめて」シリーズの少なくとも4本に1本は、エンターテインメント番組として見ても、面白いはずである。どこかで再放送があったら、見ておいて損はないと思う。
 もちろん、『とんでも戦士ムテキング』も、頭をカラッポにして見るには格好のアニメで、スタッフ・キャストが誰かなどという難しいことを考えずに見ていい作品だ。なにしろ、間抜けな悪役クロダコブラザースの長男の声を、竜の子プロでは常連ともいえる大平透氏が、よりのびのびと「とんでもなく」やってくださっていることでも、そのおかしさ具合はわかりそうなものである。
 さて、『とんでも戦士ムテキング』の中盤あたりから、竜の子プロで、ダブるように始まったのが『ゴールドライタン』である。
 シリーズ構成は、『宇宙戦士バルディオス』の映画版を作り終えた酒井あきよし氏だった。やはり地球征服を狙う悪と戦うロボット物だったが、ギャグものではなく、シリアスな作品だった。『ムテキング』の時は、あきれていたかもしれない筒井ともみさんも、脚本家の一員に入ってきた。『ゴールドライタン』は子供が拾ったライター(といっても脚本家のことではなく火をつけるライターである)が、巨大化して悪と戦うストーリーだった。……そのライターはダンヒルに似ていた……エルメスを知っている人ならダンヒルぐらい聞いたことはあるだろう。僕にとっては、計4個も落とした恨みのイギリス製高級ライターである。
 余談だが、これを女性からプレゼントされると大変である。
 ダンヒルのライターは表面にぎざぎざの模様があり、その模様が、一個一個、微妙に違うのである。もしもなくして、同じものを買おうとしてもなかなか見つからない。おまけに高価だ。ライターをなくして、愛情まで疑われてはかなわないから、輸入品が安いアメ屋横丁を探し回らなければならない。僕が女性からダンヒルを貰ったのは1回だけである。
 その1個のライターを落としたために、どれほど苦労したか……女性はライターの模様の違いがすぐ分かる。奇跡的に同じ模様のものを見つけたがそれもすぐ落とした。3個目のダンヒルは少し模様が違っていた。
 「そのライター、誰から貰ったの?」
 と、女性から疑われる。ライターが原因で、女性からふられたライターでは、洒落にならない。結局、3個目も落とし、意地で4個目を買った時には、もう、その女性とのつきあいは終わっていた。おまけに4個目もすぐ落とした。
 女性からライターをプレゼントされるのはよそう。
 100円脚本家には100円ライターが似合っている。……あ、禁煙すればいいのか。もっとも、禁煙できる意志の強さがあったら100円ライターなんかやっていない。いまごろ、高級脚本家である。
 なんの話をしていたのだろう……? そうそう、子供が拾ったライターがロボットになる話だ。子供がライターなんか持っていていいのか。
 このアニメのスポンサーの玩具屋さんは、何を考えているんだろうと思ったが、お構いなしで、話は続く。ストーリーは子供向きでもシリアスである。
 しかし、悪の親玉の名前が、イバルダ大王、手下の参謀三人の名前が、ウヨッカー、サヨッカー、マンナッカーである。右翼、左翼、真ん中……これ、くどいようだがシリアスロボットものである。竜の子プロには、いつも感心するが、素敵な名前をつける人がいる。竜の子系はこんなのばっかりである。
 当時、企画中の『戦国魔神ゴーショーグン』は、竜の子プロの分家のような葦プロの作品である。だから、カットナル、ケルナグール、ブンドルという名前の悪役が出てくる。この名前を聞いたとき、正直、ため息が出た。
 名前はともかく『ゴールドライタン』は、オリジナルのロボットものとして、好きなものが書けた。脚本以外でも、アニメ通には評判のよい作品だったようだ。
 なにしろ、『ムテキング』で乗り乗りのスタッフの油が、ますます乗ってきた。
 スタッフ名には疎かった僕でも、今も記憶に残っている人たちが、いっぱいいる。総監督が真下耕一氏……僕は、僕より少し年下の同年代のアニメ監督三羽ガラスの1人だと思っている。
 他の2人は、湯山邦彦氏、押井守氏である。
 僕は脚本家だから、監督演出とは、自分との相性しか感じないが、この3人は、当時、お互いを、それぞれライバルとは言わないまでも意識していたと思う。これは、僕の憶測ではなく、僕自身、違う脚本の仕事関係で、それぞれ3人に会っているので、いやがおうにも感じてしまうのである。『ゴールドライタン』には真下耕一氏の他にも、逸材がいっぱいいた。
 演出に、『街角のメルヘン』の西久保端穂氏、若くして亡くなったが『ミンキーモモ』の石田昌平氏……自分の仕事でもないのに、『ようこそようこ』の参考用に森高千里を教えてくれたのは彼である。
 メカ設定に、スタジオぬえの河森正治氏、原画作監のなかむらたかし氏、井口忠一氏……その他、伸び盛りの若い人たちが、ここぞとばかり、力を出した作品だったようである。
 自分が脚本に加わった作品なのに、ひとごとのような言い方をするのは、少しだけ訳がある。彼らが、頑張りすぎて脚本を変えた作品があるという噂を聞いていたからである。
 竜の子プロは、現場、つまり、演出や作画の力を重要視する伝統のあるプロダクションだという。
 脚本家が局や代理店やシリーズ構成と、なんだかんだと煮詰めながら作った脚本を、放映近い土壇場で変えられた脚本家が何人もいるというのである。放映寸前だから、脚本家が何を言っても間に合わない。 TVの場合、試写もないし、脚本を渡してしまったら、つまり、苦労して本読みさえ通れば、もう、あとはおまかせで、どうなってもいいというライターが多いのに原因もあるだろう。僕なんかは、そんなライターの姿勢が一番問題だと思うのだが、当時の僕は、脚本はほとんど1稿、余程のことがないかぎり2稿以上書いたことはないし、本読みに苦労したこともなかった。脚本も変えられたことはなかったし、こちらも、脚本の一言一句も変えるなというほど強圧的な態度ではなかった。
 しかし、他の人の脚本を読んで放映されたものを見ると、結構,変えられているものが多いのである。本当に、この脚本で作ったの? と言いたくなるほど変貌しているものもあった。
 だが、どれも、僕の脚本ではない。僕の脚本に火の粉がかからない限りは、でしゃばることもないと思っていた。自分の脚本を変えられて、なんとも感じない人は、そういう性格なのだからそれでいいと思っていた。だが、そんな僕の脚本にも、ついにその日がやってきたのである。
 僕は、『ゴールドライタン』で、僕の脚本を少しだけ変えられた。
 それは、次に控えていた『戦国魔神ゴーショーグン』の僕のシリーズ構成法の考え方を大きく変えた。
 僕がどういう態度に出たかは、次回に述べようと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 新年である。東京の渋谷に引っ越した僕の仕事場にも年賀状が来る。
 住所変更をしたために、前に住んでいた小田原経由で、渋谷に届く年賀状の数も、10日を過ぎると少なくなってくる。
 もう、僕に送られた年賀状は、ほとんど僕の手元に届いただろう。
 だが、さみしいのは、来るはずの年賀状が、少しずつ少なくなっていることだ。
 特に、『まんが世界昔ばなし』や『まんがはじめて物語』関係の、制作以来20年以上たった作品の関係者の年賀状がめっきり少なくなった。 僕が脚本を書き始めたころのスタッフは、当然ながらほとんどが僕より年上だった。
 だから、順番といえば順番なのだろうが、2年前、小田原で開いた『21世紀まんがはじめて物語』の打ち上げを兼ねた同窓会で、出会った先輩達はみんな元気だった。『はじめて物語』の第1回を担当したTBSのプロデューサー、鈴野尚志氏も、その後を継いだ井上博氏も。ロングおじさんこと吉村光夫氏も、あのナレーションの名調子が健在だった。
 だが、誰より元気だったのは、みんなの記念写真を撮りまくっていた曽我仁彦監督だった。
 その曽我氏が、昨年、突然、亡くなった。
 曽我氏と僕は1978年5月6日に放映された『まんがはじめて物語』の第1回目の第1作「汽笛一声新橋を…」を作った仲だった。
 予算の少ない作品で、お姉さんとモグタンが、いつも同じ部屋の中でおしゃべりするところから始まる予定の作品だった。
 それを知っていながら、お姉さんとモグタンが新宿駅ホームの雑踏の中にいるところから始めるようにと、強引な脚本を書いたのは僕だ。
 新宿駅のロケは、当然、手間と暇、お金がかかる。
 曽我氏も困ったはずだ。第1回目の2作目になる「電話」のエピソードは、部屋の中で撮影した。部屋のセットはもうできているのである。
 フイルムさえ回せば、「汽笛一声新橋を…」も、部屋の中ですぐ撮れる。
 しかし……
 「第1回目の第1作目だ。ぱーっとやろう」
 曽我氏はプロデューサーの丹野雄二氏と話し合って、新宿駅ホームのロケを決行した。
 大変なロケだったはずだ。1回目のお姉さん、うつみ宮土里さんのスケジュール、ぬいぐるみでなく、人間が動かす人形のモグタン、照明、カメラの位置、雑踏の人の目線、人の整理、ともかく公共の場の撮影は難しい。かなりの予算が、あの1本のために吹っ飛んだだろう。
 あの時、だれもこの番組が13年も続くと思わなかったから、赤字覚悟の決断だったに違いない。
 それを、やりとげた第1作の監督が亡くなった。
 2作目の監督の、野崎貞夫氏もすでに亡くなっている。
 プロデューサーの丹野氏も永井憲二氏ももうこの世の人ではない。
 僕より年下の人も随分亡くなった。
 関係者の間で年賀状を出す人も、受け取る人もいなくなって、いつかフィルムだけが残る日がくるだろう。
 それでも、見てくれる子供達はいつまでもいるはずだ。
 第1作目を書いた僕だから言うのではないが、『まんがはじめて物語」、そして、同じスタッフがかかわった『まんが世界昔ばなし』は、作ってよかった作品だったと今、つくづく思っている。

   つづく
 

■第34回へ続く

(06.01.18)

 
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