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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第40回 『戦国魔神ゴーショーグン』アフレコよもやま話

 『戦国魔神ゴーショーグン』の予告は、アフレコの本番30分前から、書き出すのを常にしていた。それまでは、誰に予告を喋ってもらうのか、その内容も決めていなかった。
 予告で、次回の説明をしても、自分の経験からして、ほとんどの人が覚えていないだろうし、だとしたら、次回の内容説明よりも、予告も含めた本編として、存在させてやろうと思ったのである。登場人物の個性をより明確にするために、予告を利用しようと考えたのだ。
 最初から、ひとりのキャラクターで予告を喋らせようとは思わなかった。
 それでも、はじめのころは慎重に、次回の紹介を少しは語らせていた。しかし、中盤以降は、アフレコ当日の、その場の乗りで、僕が思いついた事を、その回、僕が気になった登場人物に予告で喋らせるようにした。
 キャストの人達は、だから、予告の録音の時間まで、誰が予告を喋るのか分からないでいた。
 アフレコのテストが始まる前から、今日の予告を誰がやるのかが、キャストの皆さんの間で、話題になる時もあった。
 これは、僕達スタッフにとっても悪い事ではなかったと思う。
 キャストの皆さんは、何も『戦国魔神ゴーショーグン』の声だけをやっているのではない。他の番組も同じ週に多数やっている。
 ただ、『戦国魔神ゴーショーグン』の場合だけは、他の番組と違って、予告をやる人が決まっていない。
 少なくとも、他の番組とは違うという意識だけはスタジオに入る前に持っていただく……他の番組とは違うと特別視しながら「『戦国魔神ゴーショーグン』に参加していただくのに役立てば、うれしかった。
 さらに、アフレコのぎりぎりまで、脚本家が立ち会えば、脚本の台詞の責任も保てるし、竜の子プロで起こったように、脚本家の知らないうちに、内容が変質する心配も避けられる。
 『戦国魔神ゴーショーグン』のアフレコの現場では、不幸な事(?)に、完成が間に合わずフイルムに絵も色も、あまり入っていなかった。
 フイルムには、登場人物の口が動いている時間が、赤い線(女性の声)や青い線(男性の線)で、示されているだけで、絵コンテを参考にして、画面を睨みながら声を入れる状態だった。大袈裟に言えば、映像のない、ラジオの録音のような状態だったのである。
 登場人物の表情が分からないから、登場人物の口が動いているだろう時間内であれば、脚本にない台詞も何を喋ってもかまわないことになる。
 僕は、アフレコのテストの間に、同席する録音監督や、演出家の了解のもと、台本の台詞を変える事もした。
 それも一度だけでなく、アフレコのテストをやるたびに、台詞が変わる事もあった。
 当然、キャストの中から、テストごとに台詞が変わるのでは練習にならないという苦情もあったという。
 しかし、アフレコのテストは、声を入れるキャストのテストであると同時に、作品を作るスタッフにとってもテストである。
 互いのテストが一体化して本番になればいい。
 その当時の声優の人達は、少なくとも声優のプロである。
 一発で本番を決められないほど、素人ではないはずだ。
 なまじ練習などしないほうが、慣れという名のマンネリにならない台詞が出てくるはずだ。
 芝居ではない、一般の人が現実に喋っている台詞は、練習などしないその場限りの台詞である。それが、生きている台詞だと、その当時の僕は、思っていた。
 音響監督の松浦典良氏も各話の演出の方達も、それを面白がっていてくれたようだし、幸いにして、プロのキャスト陣もそれを楽しがって、次第に、声優の側からも、アドリブ風の台詞が出てくるようになった。
 『戦国魔神ゴーショーグン』の台詞に、他の番組にない特長があるとしたら、そこいらに秘密があったのかもしれない。
 何しろ、脚本の責任者であるシリーズ構成が、アフレコの現場にいるのだから、台詞は要所要所、自在に適応できる筈である。
 だいいち、台詞の鮮度が落ちないですむ。
 さらに、ラッキーだった事として、『戦国魔神ゴーショーグン』のアフレコが夕方で、その後、別の番組のアフレコがなかった事があげられる。
 音響監督の松浦典良氏は、毎回、夕食と飲み会を兼ねて、主要キャスト陣と、アフレコ後、飲み屋で遅くまで語り合った。
 それまで、お酒が飲めなかった小山茉美さんが、酒が飲めるようになったのは、この飲み会のせいであるという説もあるくらいだ。
 当然、その場に僕も参加し、『戦国魔神ゴーショーグン』に関する感想を含めて、声優さん個人個人の声を聞く事ができた。
 話題は『戦国魔神ゴーショーグン』にとどまらず、声優さん達の生活や生の話題にまで及んだ。
 僕が、そこで出てきた声優さん達の性格や個性を、『戦国魔神ゴーショーグン』の登場人物に反映するようにつとめたのは、言うまでもない。
 この意見に反論を述べるのは、ほかならぬブンドルの声だった塩沢兼人氏である。
 そりゃそうである。あの驚異的個性美偏執愛者ぶりを、塩沢氏本人の性格と思われては、ご本人は困ってしまうであろう。
 もっとも、ブンドルの持つ特有なナルシシズムは、塩沢氏の中にも、確かにあると思ったのは、僕の思い過ごしだろうか……?
 逆に、レミー島田の小山茉美さんの場合、かなり本人に近い個性らしく、レミー島田を丁寧に描く僕のことを、「首藤さん、きっと私(つまり小山茉美さん)を好きなんだわ」と座談会で公言され、それが文章になった時には、今度は僕がおおいにあわてた。そんなつもりじゃあ……である。
 『戦国魔神ゴーショーグン』の登場人物は、脚本家が作ったキャラクターに、演出、デザイン、動画が動かしたキャラクターが重なり、さらに声優達のやりたい事と生の個性が乗っかった三身一体のものだった。これは、アニメのキャラクターとしては当たり前の事なのだが、『戦国魔神ゴーショーグン』のキャラクターほど、それを徹底しようとした作品は少ないと思う……。さらに、そのキャラクターに、音響監督の松浦典良氏の音の演出が加わる、四身一体の登場人物達の登場する作品になった。
 脚本家の描くキャラクターと声優の性格の同一性を探すという方法は、その後の僕のシリーズ構成法の基本になった。
 以来、『ポケットモンスター』より前にシリーズ構成した作品は、できるだけ、担当の脚本家と声優を飲み会等で会わせるようにしているというのは、脚本家に声優の生の個性をつかんでおいてほしいからだ。
 だが、これらの方法を陰で支えてくれていたのは、制作の方達だ。『戦国魔神ゴーショーグン』の場合、制作サイドからは、なんの苦情も意見も、僕の耳には入ってこなかった。
 おそらく、スポンサーや局、その他から、色々な注文があっただろうことは予想される。
 それを、制作の葦プロの社長佐藤俊彦氏も代理店サイドのプロデューサー大野実氏も制作サイドのプロデューサー相原義彰氏も加藤博氏も、何も意見らしき事は言わなかった。
 もしかしたら、僕ら制作サイドへの様々な雑音や騒音の壁になっていてくれたのかもしれない。
 ともかく 僕の好きなようにやらせてくれていたのである。
 今思えば、その事をとても感謝しなければならないと思っている。
 ただし、この方法で一番大変だったのは、作画関係の面々だったと思う。
 できた映像の後で声を入れるアフレコのつもりが、画像のできの遅れで声が優先し、音に画像をつけるプレスコのようになってしまった。
 脚本通りとは限らない台詞に、後で絵で喋りを合わせる場合が多かったと思う。
 声を入れるアフレコと効果音や音楽を入れるダビングが終われば、放送はすぐである。
 絵を音に合わせるためどれほどの苦労をしたか……想像に難くない。
 ご苦労様と言うより感謝のしようがない。
 では、次回も、『戦国魔神ゴーショーグン』について、お話を続けようと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 少し前の事になるが、英国で同性の結婚が認められ、有名人の同性愛者が続々、結婚しているという。
 同性愛は、僕のような自由業には多いようだし、同性愛の存在も知っているし、信じるし、認めてもいるが、僕には、その経験も感性もいまだにないから、言うべき資格はない。
 僕が語ろうと思うのは、脚本家が異性をどう描いたらいいかだ。
 このエッセイのようなものの読者には女性もいると思うから、異性と書いたが、男である僕にとっては、もちろん異性とは女性の事である。女性にとっては、それを男性と入れ替えて考えてくれてもいい。
 女性を魅力的に描くには、まず、自分自身が、生きている女性と大勢お付き合いするにこしたことはない。
 つまり異性をいっぱい知っておくことである。
 断っておくが、異性を知るとは、俗に言う、男と女の関係になれとか、恋人同士になれとか、言っているわけではない。
 男女関係とか恋人同士になると、異性のまた別の部分が見えてきて、ややこしくなるから、ここで言及するのは避け、異性の知りあいや友人をいっぱい持てということである。
 僕の場合といえば……。
 幸い、僕の家は、父と高校一年の時亡くなった祖父を除いて、みんな女性であった。大家族で、男の子は僕1人、妹が2人の他、子供の頃は父の妹達も同居していたから、見渡す限り女性ばかりであった。
 だから、子供の頃から女性に対し、照れる事も臆することもなく、話ができた。
 小、中、高と転校はしたが、どこも男女共学だったから、幼稚園の時から女の子の友達が絶えた事はなかった。
 どんな女の子でも付き合える自信はあった。
 人間、1人ひとりが様々であるように、女性ももちろん、だれ1人同じ女性はいない。
 その違いを、僕は子供の頃から自然と知っていたし、女性と付き合うのに苦労した記憶もない。
 さすがに、40歳を過ぎると、面倒くさいし疲れるなあと思う事がしばしばだが、アニメの脚本を書く限り、おばさんやおじさんの性格を深く描く必要はあまりないと思うから、上限は、35前後までの異性にかぎってもいいと思う。
 人間は結婚や年齢とともに変わって行くから、ここは乱暴にかつ大胆に、35歳前後と壁を作って話していこう。
 お断りしておくが、別にそれ以上の歳の男性や女性に偏見を持っているわけではない……アニメの視聴者層を意識しての事だからお許し願いたい。
 ともかく、片っ端から異性と付き合い、話合ってみる事だ。
 そして、それぞれの違いを比べてみる事だ。
 ただし、比べる時に、どんな異性にも良いところがあるという希望的観測を忘れない事。……そりゃあ、だれだって異性に対する好みはある。
 相手の容貌、雰囲気、人によって様々である。どうしても好きになれないタイプの異性もあるだろう。
 しかし、それは、付き合ってみない限り、遠くから見た景色としての異性でしかない。とりあえず接近してみよう。そして、話し合ってみる。
 手当たり次第でもいいと思う。
 ともかく、数が多くなければ比較のしようがない。
 こんな人はいないと思うが――初めて付き合って、話し合って、愛し合って、結婚して、子供ができて……本人にとって付き合った異性は1人だけでした……では、お幸せなお二人ですね、とは口では言えるが、異性知らずもはなはだしい――というよりない。
 少なくとも、人間の半分を占める異性を語る資格はない。
 つまり、脚本家には向いていないとしか言いようがない……と、僕は思う。
 ところがである。驚いた事に「おたく」とか「萌え」とかいう言葉が、流行ってくると同時に、異性とどう付き合っていいか分からない。何を話したらいいか分からない、どう声をかけたらいいか分からない、という人が増えているらしい。それも、膨大な数の増え方だという。
 そんな人は、みんな、脚本家になるのをあきらめて、二次元キャラクターや、フィギュアと仲よくしていなさい……と言うのは簡単だが、それでは「誰でもできる脚本家」というこのエッセイのようなものの題名が泣いてしまう。
 なんとか、異性と付き合う方法を、考え、お教えしなければなるまい。
 異性の友達はいっぱい。恋人だっている。そういう人は、これから続ける、首藤剛志というおじさんの語る異性交際法は必要ないから、飛ばして読んでください。
 まず、親戚以外に異性にこれといった知り合いがないという人は、自分がこの世界に1人しかいない人間だという、当たり前の事を自覚してほしい。自分の存在は1人だけだ。……その自信から、全ては始まると思う。

   つづく
 


■第41回へ続く

(06.03.08)

 
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