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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第57回 『ミンキーモモ』残り4話で、最終回にまとめる方法?

 42話で、打ち切られるところが、読売広告社の大野氏らの尽力で46話まで、最終話が伸びた。
 おかげでシリーズ構成として、脚本家のみなさんに発注したエピソードの42話までは、そのままの形で、製作される事になった。
 しかし、43話から46話までの4本で、最終回をむかえなければならない。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の初代が放映された1980年代の現状を、考えて見れば、いくらファンタジーとはいえ、夢の国フェナリナーサが、地球に降りてこれるような状態であるとは思えない。
 ミンキーモモが集める、王冠に入れる宝石など、僕としては、無責任かもしれないが、どうでもよくなっていた。
 もともと、原形になった「フィナリナーサから来た少年」のラストも、夢の国を地球に戻す事に挫折し、次世代の地球の人々に期待するという内容だった。
 「いつかきっと」夢の国が、地球に降りてくる日が来るだろう……少年は、自分の期待する夢、つまりイメージの中で、フィナリナーサが地球に降りてくる姿を見るのが、ラストのつもりだったのだ。
 だから、もしも『魔法のプリンセス ミンキーモモ』が予定の52話まで続くとしたら、ミンキーモモは、人間の夢や希望を阻む何か悪夢のようなものと戦い、その戦いには勝つものの、自分自身も傷つき疲れ果て、1000年の眠りにつく。
 そして、眠っている夢の中で、フェナリナーサが地球に降りてくるイメージを見るというラストにするつもりだった。
 つまり、1000年後の地球の人々に期待し、眠りにつく「スリーピング・ビューティ(眠れる森の美女)」のようなエンドにするつもりだったのである。
 つまり、43話から52話にかけて、夢や希望を阻む悪夢のようなものとの戦いが、メインのストーリーになるつもりだったのだ。
 しかし、4話分で、それを描くのは、とても無理だった。
 別のラストを用意しなければならない。
 その当時の若かった僕は――今も気持ちだけは若いと思うが――、4話打ち切りが延びたとはいえ、関連商品が売れなくなったから、即打ち切りというスポンサー側の態度に、相当な反発を感じた。
 いくら「番組全体が、商品のCMです」という建前は分かっていても、僕の本音としては納得できなかった。
 しかし、決められた事は変えようがない。
 残り4話で、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を終わらせる方法は、色々考え、悩みもしたが、どう考えても、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のファンの皆さんがよく知っているあの46話の内容しか、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の大団円として適切なものはないと思った。
 したがって43話から45話までは、最終回への布石になるエピソードで固めた。
 46話でミンキーモモが交通事故に遭うエピソードは、スポンサーや視聴率の都合でいつ打ち切られるか分からないアニメをシリーズ構成するにあたって、いつでも終われるように、最初から考えていたエピソードのひとつだったのである。
 この奥の手は使わずに済めばそれに越した事はないが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品自体を、打ち切りという断絶感なしに視聴者の気持ちの中に残すには、その方法しかないと思った。
 こんなラストがあっていいのか……という反感が出るのも、当然予想された。
 だから、46話をどんなエピソードにするかは、ぎりぎりまで誰にも言わず黙っていた。
 43話は、僕がはじめて書いた脚本ともいえる「十八歳の童話」というシナリオを――後に『街角のメルヘン』という名前でOVA化された――脚本家の土屋斗紀雄氏に読んでもらい、その脚本からインスパイアされた作品という形で「いつか王子さまが」を書いてもらった。
 内容は、普通の大人の女の子に変身していたモモが、アニメ作家志望の青年と会い、淡い恋心を抱くというものだったが、病気になったアニメ作家を助けるために、アニメ作りを、モモがこっそり魔法で手伝うシーンが出てくる。
 しかし、モモが魔法で手伝ったアニメのシーンは、映写機で映すと、なにも写っていなかった。
 つまり、モモの魔法は、アニメ作家の夢を実現できなかったのだ。
 この作品のテーマは、モモの淡い恋心ではなく、魔法では他人の夢をかなえる事はできないという事にモモが気づくというものだったのだ。
 これは、46話へ続く大切な伏線のつもりだった。
 そこのところだけは、しっかり描くように、土屋斗紀雄氏にはお願いした。
 余談だが、この作品には、ミュージカル風のシーンがあるが、ミンキーモモの製作途中で作ったLPの中で歌われている新曲を、使いきろうという意味も若干あった。
 46話が最終回である事は、もちろん総監督の湯山邦彦氏も、製作スタッフも知っていたから、最終回まで秒読みのスタッフにとっては、やけっぱちともいえる、全力投球のような作品ができ上がった。
 続いて、44話「天使が降りてきた」(脚本、谷本敬次氏こと武上純希氏)は、地球上のパパとママが、いかに愛し合っている夫婦であるかを、再確認する作品だった。
 そして、本来、子供のいないパパとママに、子供ができる事を予感させて終わるエピソードにした。
 パパとママに本当の子供ができれば、ミンキーモモの存在は必要がなくなる。
 子供を望みながら、子供がいなかった地球上のパパとママの間だから、ミンキーモモは2人の子供として存在できたのだ。
 44話の時点では、パパとママの間に生まれてくるだろう子供が、ミンキーモモが転生した赤ん坊だとは、脚本を書いた谷本敬次氏も、知らなかったはずである。
 44話についた予告編に、僕はこう書いた。
 予告を語るのはモモである。
 「……わたし、最近、思うんです。いったいわたしは何のために、地球にやって来たのか? わたしの使う魔法って、いったい何のためになるのか? ある日、グルメポッポが消え、シンドブック達ともはぐれ、ついに、魔法のペンダントが……。次回、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』魔法の消えた日。わたしはいったいどうなってしまうのかしら……ミンキーモモの世界もいよいよのようです……」
 最終回には当然予告はつかないから、これが、ラストの1本前の予告という事になる。
 44話の脚本ができ上がった頃、最終回の概略を、総監督の湯山邦彦氏やプロデューサーの大野実氏に話した。
 この最終回の展開に、みんな驚いたようだが、不思議な事に反対意見は出なかった。
 ある程度予測していたのか、それ以外の最終回は考えられなかったのか……それはわからないが、最終回を見終えた後に、後味の悪いものが残らなければ、それでいいという思いだったようだ。
 続いて45話「魔法の消えた日」(脚本・金春智子氏)、魔法のペンダントが破壊されてしまう回だ。
 金春智子氏にお願いしたのは、ミンキーモモが自分自身を忘れるほど激昂したり、興奮した時には、魔法のペンダントがなくても、モモの魔法のエネルギーが炸裂するシーンを付け加えておく事だった。
 自制心のある時は、魔法のペンダントがなければ、魔法(大人になる魔法)は使えないが、我を忘れ興奮した時には、自分が予想もつかない魔法のエネルギーが発動してしまう。
 自分が極めて危険な魔法少女である事を、モモはこの回で自覚してしまうのだ。
 モモは、自分が魔法少女である事に、疑問を感じる。
 しかも、その魔法は、他人の夢をかなえるためには機能しないのだ。
 このモモの複雑な思いを、「魔法が消えた日」では深く追及していない。
 あえて、その時のモモの心境は、語らないようにした。
 最終回に、橋渡しするエピソードで、陰々滅々としたモモを引きずりたくなかったからだ。
 モモ自身も、それを意識しないように振る舞わせる事にした。
 しかし、最終回にいたる伏線だけは、しっかり強化した45話にはなったと思う。
 そして、モモは、できるだけあっけんからんと、最終回をむかえる。
 45話についた、実質上、最後の予告編は、できるだけあっさりと書く事にした。
 この予告編では、最後という事もあり、モモ以外に三匹のお供にも喋ってもらった。
 以下が45話につく、46話の予告である。
 モモ「もうなにもいえません。普通の女の子になったあたしは、ある日、突然……シンドブック、後、続けて……」
 シンドブック「もう、わし、胸がいっぱいで……えー、モチャー(と、モチャーに振る)」
 モチャー「こんな事って……やだっ……ピピル(と、ピピルに振る)」
 ピピル「あたし、いくらおしゃべりだからって、こんなつらい事……」
 モモ「(達観したように)だめだなあ……みんな……次回『魔法のプリンセス ミンキーモモ』……「夢のフェナリナーサ」見てください」
 これで、予告は終わりである。
 あくまで、モモは、冷静に予告をしている。
 46話「夢のフェナリナーサ」はすんなりと、湯山邦彦氏の手に渡り、アニメ製作作業が始まった。
 演出、絵コンテは、総監督の湯山邦彦氏自身、作画監督は上条修氏……八話の「婦人警官ってつらいのネ」他、大人になったモモを、魅力的に描く事のできる人だ。
 スタッフはスタッフで、これが最後のミンキーモモだというつもりで、最後の力を振りしぼった感じで作業を続けたようだ。
 僕は、脚本を書き上げた時点で、くたくたになり力尽きた。
 後は、作品の完成を待つばかりだった。
 そして、その時が、やってきた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 この連載が始まってから1年が経った。
 僕が初め、過去の名画を見ておくべきだ……といってから、僕の言うとおり、やっている人は、すでに、100本以上の映画を、劇場なり、ビデオなり、DVDで見ているはずである。
 かくいう僕も、去年、住んでいた小田原と違って、東京の渋谷にきてからは映画館やレンタル屋が多いせいもあって、7月現在で、今年は百数十本の映画は見ている。
 この調子だと、今年いっぱいで確実に200本以上は映画を見る事になるだろう。
 僕は、名画を選んで見ろといった皆さんと違って、片っ端から映画を見ているから、傑作と思われる作品は数少なく、愚作、凡作の山である。
 名作の名が高い映画ばかりを見ているだろうあなた達よりは、数は多くても、ひどい映画ばかり見ているといっていい。
 僕は、この連載の他にブログをやっているが、そこで紹介する映画は飽きれるほどひどい作品か、傑作とはいえないまでも、どこかしら特徴のある映画だけである。
 他の作品は、紹介するのも面倒だから、何も語らずほうり投げている。
 悪評でも、「映画秘宝」などというオタクっぽい雑誌の中で話題になった作品で、劇場で見損なった作品はDVDで借りて見る事にしている。
 悪評がでたりオタク的な見地で話題になるという事は、それなりの理由があるからだ。
 どうでもいい映画は、悪評すら、話題にすら、出てこない。
 一応、仕事場は、プロジェクターとスクリーンで、まがりなりにもホームシアター化してあるから、音響効果の悪い劇場や、客の入りで、思い通りの座席に着けない映画館よりは、ましな環境で見る事ができる。
 もちろん、そこまでをシナリオ初心者の人に要求する事はできないが、脚本を書く以上に、まず他人の作った名作を見る事を、くどいくらいの繰り返しになるが、さらに言い続けたいと思う。
 過去の名画といっても、見るのもしんどい芸術映画ばかりが名画というわけではない。
 優秀な娯楽作品も含まれているはずだ。
 僕は、そんな名作のストーリーや、テーマや語り口を真似して脚本を書けといっているのではない。
 それは、一種のパクリである。
 初心者には、パロディとかオマージュ等という言葉も、止めて置いた方がいい。
 自分自身の中から出てきた、オリジナルだと思うものを書こう。
 オリジナルといっても、なにかしらの作品の影響は受けているものだが、そこは目をつむろう。
 あくまで、気分はオリジナルである。
 さて、名作と呼ばれる作品には、ファーストシーンから、ラストシーンまで、それぞれのリズムがある。
 それに、みなさんは、充分身を浸してほしいのだ。
 様々な映画のリズムに慣れてくると、次第に自分流のリズムが、身についてくる。
 そのリズムに逆らわずに、脚本を書いてみよう。
 ワープロやパソコンが、そのあなたのリズムを損なう危険性がある事は、前回述べたとおりだ。
 脚本の書き方自体は、「えーだば創作術」に時々、付録についている僕の脚本を参考にすれば、充分である。
 さて、こうして、あなたは脚本らしきものを書いた。
 だが、それで終りではない。
 もう一度、その脚本を考えなおしてほしい。
 ここから先は、僕流のシナリオの書き方である。
 他の入門書には書いていないかもしれない――その種の本を全部読んだわけではないから、はっきりした事はいえないが。それを、これからお話しようと思う。

   つづく
 


■第58回へ続く

(06.07.12)

 
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