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第94回 「海モモ」を支えてくれた人たち3
ミンキーモモのドラマCDは、いうまでもなく音だけのドラマで、アニメの絵はない。
声優の声と効果音と音楽だけで、ドラマを作らなければならない。
音だけのドラマは、ラジオドラマをはじめ、朗読など、昔からある。
アニメを題材にしたドラマCDやレコードも山のようにあるし、僕自身もいくつか書いている。
だが、ほとんどの音響ドラマは、絵をつけてアニメ化が可能だった。
映像化が不可能な音響ドラマは、ほとんどないといってもいいだろう。
だが、大月俊倫氏からミンキーモモのドラマCDの企画をうかがった時、まず、考えたのは、アニメでは表現できないドラマを作りたいという事だった。
「ちょっと変わった、CDドラマでしかできないと思う『ミンキーモモ』でもいいですか?」
大月氏は、そのドラマの内容も聞かず、あっさり答えた。
「お任せします」
これには、いささか驚いた。
普通なら予算の問題から、登場人物は何人必要かとか、どんな音楽が必要かとか、脚本料とか、いろいろ相談しなければならないことがあるだろうに、「首藤さんにお任せします」で、終わりである。
『ミンキーモモ』のシリーズが終わってから、随分後になって聞いた話だが、予算の管理に厳しい人で、アニメ界で怒らせるとベスト3に入る人であり、さらに音楽プロデューサーとしては、1990年代の声優ブームを作り上げた立役者だった人だそうである。
「海モモ」の声をやった林原めぐみさんの才能を評価し、声優界のみならず歌手としてのスターにしたのも、この人であり、『エヴァンゲリオン』などのアニメ製作のプロデューサーとしても辣腕をふるって、現在にいたっている人である。
ようするにやり手のプロデューサーの筆頭といってもいい人なのだが、少なくとも僕に対しては温和で、にこやかでさえあった。
『ミンキーモモ』以後の活躍を遠くから見ていると、あくのつよい個性的なクリエーターとの作品を多く手がけているようである。
つまり、気に入った感性のクリエーターには、自由にやりたいように作らせる場を作ってくれるタイプの人なのだろう。
その代わり、気に入らないものはきっぱり駄目を出す性格の人なのかもしれない。
きっと大月氏の中では、やりたいものとやりたくないものがはっきりしているのだろう。
僕に対して好意的な態度で接してくれたのは、大月氏にとって、僕の作風が好きだというより、『ミンキーモモ』という作品の個性的な部分が、彼のプロデューサーとしての感性をくすぐっていたのかもしれない。
大月氏とは、電話では何度か話した事があるが、直接的にはあまりお会いしていない。
ただ、1度か2度、食事をしたことがあり……その頃、僕は禁酒していたので、大月氏も酒は飲んでいなかったと思う……その時、お話した大月さんの言葉と表情は、びっくりしたというか、あきれたというか、おそらく僕は一生忘れないだろう。
そこには脚本家の面出明美さんも同席していた。
大月氏は、自分の大事な秘密を親友に話すように、少しだけ声をひそめて、けれどいたずらっぽい顔で、それでいながら自慢気にうれしそうに、こう言ったのである。
「首藤さん、実は僕のうちに実物大のウルトラマンがいるんですよ」
実物大といっても、もちろんそれは、人間大の着ぐるみの事だろうが……。
「はあ……」
僕と面出さんは顔を見合わせて、しばらく呆気にとられていた。
大月氏は、そんな僕らの様子にかまわず、にこにこしながら、しばらくの間、ウルトラマンについて話していた。
別に仕事の打ち合わせではないから、何を話してもいいのだが、音楽プロデューサーから、実物大のウルトラマンモデルの話がでてくるとは思わなかった。
つまり、大月氏はオタク的趣味も持ちながらそれに溺れるだけでなく、実務的な計算の必要なプロデュース能力も持っている、僕から見れば珍しいタイプの人だった。
監督の湯山氏に言わせると「大月氏は、ただ者ではないオタク」……僕もそのとおりだと思う。
自分の感性にあった脚本を書いて仕事になる脚本家も幸せだが、自分の好きな企画をプロデュースできる人も、大変な努力と才能が必要だと思うが、うらやましい存在である。
ただ、この話は「海モモ」制作当時の昔の事だから、今の大月氏がどうかは存じあげないが、きっと、自分の感性にあった作品をプロデュースしている事だろうと思う。
それはともかくとして、『ミンキーモモ』のCDドラマ……つまり絵のない音だけでなければ不可能なドラマとは、以下のような内容のストーリーだった。
目の見えない画家が、大人に変身したミンキーモモの存在感を全身で感じて、大人のミンキーモモをモデルにして絵を描く。
目が見えないから、それが、具象画にしろ抽象画にしろ、大人のミンキーモモの実際の姿とは違うだろう。
やがて、2人の間には淡い恋心のようなものが芽生えるが、画家の恋するミンキーモモは、魔法で大人になったミンキーモモで、実際のミンキーモモとは違う。
大人のミンキーモモを描いた絵はみんなから評価され感動を呼び、画家は目の治療をして、目が見えるようになる。
画家は、モデルになった大人のミンキーモモを探そうとするが、実際のミンキーモモは子供である。
魔法で大人になったミンキーモモは、現実に存在するミンキーモモではない。
2人の恋は叶うはずもなく、「四月の雪」のようにはかなく消えていく。
このストーリーがなぜアニメにならないか……その訳は簡単である。
この話のキーポイントになる目の見えない画家が描いた大人のミンキーモモの肖像画がどんな絵なのか、視聴者が納得できるものを実際のアニメや映像では描けないからだ。
具象画なのか抽象画なのか……そして、みんなから評価され感動を呼び起こす絵とはどんなものか、アニメや映像では表現不可能である。
視聴者がアニメに出てくるその絵を見て、素晴らしいと感じてくれなければ、このストーリーは、たちまち白けてしまう。
画家とミンキーモモの心をつなぐ絵が、視聴者の感動を呼ぶような名画でなければ成立しない話なのだ。
そんな名画を描ける人がアニメ界にいるとは思えないし、仮にいたにしても視聴者の好みがあるから、その絵に感動してくれるかどうか分からない。
だが、音だけのドラマや文字だけの小説なら、その絵を見る事ができないから、ミンキーモモの肖像画を、それぞれ心の中で想像して思い浮かべる事ができる。
その絵が具体的に見えないからこそ、その絵が聞き手の心の中に存在できるのである。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のCDドラマ「雪がやんだら」は、そんなストーリーだった。
アニメでは表現できない、かなり実験的なCDドラマだった。
だが、絵がないだけに、音楽や効果音が、この作品の雰囲気を作るうえで重要な役目を果たす。
この作品のために「四月の雪」という岡崎律子さんの曲が作られた。
『ミンキーモモ』の挿入歌の中ではかなり評判になった歌だった。
プロデュースしたのは、大月氏である。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
先日、このコラムを書く参考に、実写ドラマの脚本家達の創作術のようなものを読んでいると、実写の世界でも、オリジナルの企画が少なく原作のあるものが多く、それを嘆く脚本家の声もあった。
だが、実写ともなると、やはり生身の俳優がやるから、文字で書いた小説の台詞やマンガのふきだしどおりに書くと、生身の人のしゃべる台詞と違って、どうしても無理がでる。
だから、原作どおりといっても、台詞まで原作どおりにする事は少ないようだ。
それでも、原作どおりに脚本を書くシナリオライターの事を、本当のシナリオライターとは呼べず、ダイアローグライターに過ぎないと怒る人もいる。
原作どおりに書けと言われて原作どおりに書いたら、ダイアローグライターに過ぎない等と悪口を言われるのは、いささか情けない。
もっとも、テレビの実写ドラマの場合、企画の段階で、主役クラスの俳優が決められている場合もあり、その俳優のイメージに合わせて台詞を書く脚本家もいるというから、そうなると、俳優のイメージが原作ということになり、俳優のイメージプラス原作のストーリーどおりということになり、これも結局はダイアローグライターということになってしまう。
それでも、俳優を使う実写ドラマは、原作と違う台詞も出てくるからダイアローグライターですむが、マンガ原作のアニメともなると、登場人物もマンガの絵そのままで、台詞もマンガのふきだしのまま使われることがある。
こうなると、ダイアローグライターと呼ぶことすらできなくなり、マンガを、脚本の形をした文章に書き換えるだけの、コピー屋さんにすぎなくなる。
アニメをマンガ原作のまま絵コンテに換えるなら、なにもわざわざマンガ原作を文章に置き換える必要もなく、そのまま絵コンテにしてしまえばいい。
アニメの絵コンテには、コンテを描く人や演出の意見が加わるから、マンガ原作どおりでいいのなら、シナリオライターは必要なくなってしまう。
実際、脚本なしで原作と絵コンテだけでアニメができてしまう場合もあるらしい。
そんな場合、仮に脚本に誰かの名前があったとしても、実際には無用の長物である。
今はまだそんなに多くはないが、才能のあるアニメ監督は、そのアニメが原作のないオリジナルの作品でも、脚本など必要とせず、いきなり絵コンテを書いてしまう場合もあるらしい。
そんな場合は、便宜上、その監督が原作脚本ということになる。
こうなると、脚本家は必要なくなる。
事実、アニメの場合、脚本は軽視されがちで、打ち合わせの人たち用の部数ですむ脚本はコピーで済ませ、印刷製本されるのは、絵コンテから書き起こした、アニメに音を入れるために大勢の人が読まなければならないアフレコ用の台本だけの場合もあるようである。
昔と違って、今は、印刷製本されない脚本がアニメには多くなっているのである。
それだけ、軽視されてきだしたアニメ脚本で、本読みで出てくるいろいろな人の意見を、いちいちはいはいと頷いて、そのとおり脚本を書くと、個性のないイエスマンライターとか、いいなりライターと言われて、誰が書いてもいいような脚本しか書けない脚本家と呼ばれるようになる。
それでもいいというなら、何も言う事はないが、もしもオリジナルで脚本が必要になった場合は、その脚本家は使いものにならない。
やはり、この世界で生き延びていくためには、常日頃から、他の人が書けない自分のオリジナリティを持ち、育てていくしかないと僕は思うのだが……。
つづく
■第95回へ続く
(07.04.11)
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