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『時をかける少女』応援企画

[再録]自作を語る『ひみつのアッコちゃん』
「わたしの好きなアッコ」細田守


 しかし、わたしのような者が、第3作「ひみつのアッコちゃん」の演出を担当するとは夢にも思っていなかった。
 自慢じゃないが、わたしは原作の存在は知っていたが、読んだことがない。手にとったこともない。見かけたこともない。初代「アッコ」の再放送か何かをテレビで見かけたことはあるが、当時小学生だか幼稚園児だったわたしは「ひみつのアッコちゃん」などという女の観る番組などはなから馬鹿にして観ようとしない、今にして思えば、器量の狭い人間だった。あのとき恥を忍んで初代「アッコ」を観ていたなら、と、悔やまれて仕方がない。という訳でもない。第2作の「アッコ」に至っては近年までその存在すら知らなかった。当時、地方の美術大学生になっていたわたしは、アニメなどという女子供の観るような番組などはなから馬鹿にして観ようはとしない、今にして思えば芸術家気取りの生意気な童貞だったのである。もしあのとき恥を忍んで第2作「アッコ」を観ていたなら、油絵の制作を通じて芸術の深淵に触れたり、偉大な作家の作品に出逢ったり、友人達と芸術論を戦わせたり、可愛い女の子と美術館へ楽しくデートに行ったりなどということもなかったであろうから、別に観ていなくてもなんにも損をした気にはならない。そんなわたしがどうして第3作「アッコ」の演出をすることになったのかは大いなる世の中の不思議な巡り合わせとしかいいようがない。というほどでもない。たんなる成りゆきだ。
 だが、そんな軽い気持ちで参加した第3作「ひみつのアッコちゃん」の第6話で、わたしにとってひとつめの幸運な出会いを果たした。幸運とは関プロデューサーのことである。関プロデューサーはわたしを見つけるなり、「あんたみたいなヒヨっ子のしょんべんたれになにができるのさ」と言わんばかりの勢いで、「はじめまして。関でぷー」とにこやかに言った。わたしは瞬時に思った。これは今まで以上に気合いを入れて取り掛からないと、捕って喰われる、と。あまりの緊張感と恐怖でわたしのきんたまは縮み上がってしまい、シナリオ打ち合わせの時に一言も声を発することができず、ライターの方や代理店の方の声も耳に入らなかった。あとであらためて決定稿になったシナリオを読み返したが、このアッコという人物がよくわからない。ゆえにコンテで苦労した。わたしは後悔した。しくじったと思った。幼稚園のあの頃や大学生のあの頃に、恥を忍んで初代「アッコ」や2代目「アッコ」を観ていたなら、とはまったく思わず、シナリオ打ち合わせの時によく聞いておけばよかったと思ったのである。だがいまそれを言っても始まらない。そこでわたしは、手元にあったエイゼンシュテインの「映画演出法講義」(未来社)や、YU・M・ロトマンの「映画の記号論」(平凡社)や、松浦寿輝「映画nー1」(筑摩書房)や、蓮見重彦の「監督小津安二郎」(ちくま文庫)を手に取ろうとしたがアッコとは関係ないのでやめて、ひたすらシナリオと格闘した。夜寝る間も惜しんでコンテを描き、昼に寝た。その甲斐あって、捕って喰われることもなく五体満足でいられるのも、寛容な関プロデューサーのおかげというよりは、わたしの努力のたまもの以外の何物であろうか。
 だが大きな問題も残した。わたしは、アッコの「魔法の鏡の力を借り」て、「人助け」をするという、どこか教訓的で道徳的な行動に抵抗があった。わたしは生まれてこのかた人助けなどということをしたことがなかったからだ。それどころか日頃から悪いことばかりしている。思い切って告白するが、禁止されているにも関わらず、公園の芝生に土足で立ち入ったことも2度や3度ではない。こんな反道徳的な行為に身を染めたわたしに、「アッコ」の演出が務まるのだろうか。
 それに、「魔法の鏡の力」自体にも居心地の悪さを感じずにはいられなかった。もともとアッコは「魔法の力」を得た「特殊なひと」であった。観てもないのに言うのもなんだが、「アッコ」は初代のころから、「魔法の力によってひとが幸せになれる」というプロットだったはずだ。「女の子たちの夢を育」む物語の主人公としては、そうでなくちゃならなかっただろう。だが今の世の中、それ本来の象徴的機能を果たし得るとは考えにくい。「魔法」という言葉を、例えば「科学技術」という言葉に置き換えてみれば明らかである。「科学技術によって人々が幸せになれる」と信じられていた時代は、せいぜい70年代までのことであり、いま、そんなことを言う奴はただのバカである。にもかかわらずなお物語の主人公として常に「特殊なひと」であらねばならないアッコは、現在においてどのような象徴的役割があり得るのか。現在、3たび「アッコ」が復活する現在的意義はあるのか。
 そんな疑念を振払ってくれる、2つめの幸運な出会いがあった。幸運とは「アッコ」14話の脚本家、吉田玲子さんのことである。14話のシナリオにはその第1稿からして、件のわたしの疑問に答えてくれる、必要なすべてのことが描かれていた。
 「アッコは困っているひとのために、善意と魔法の力によって行動する。だがその行動が見当はずれなため、魔法と善意が空回りする。困っているひとは、自力でその苦境から脱出する。アッコはそれを見て満足する。」
 要するに「アッコ」とは、「魔法の力を借りた善意の人が人助けをする」物語ではなく、「魔法の力に振り回されたバカな子が、結果的に人助けの助けをしてしまう」物語である、ということだ。とくに、「善人」から「バカな子」へとアッコ像の認識が変化していることは重要だ。物語の主人公であるアッコが、「特殊なひと」たり得るのは、「魔法の力」を持っているからではなく、「バカな子」だからでなければならないのではないか。このように「アッコ」の物語を曲解することによって、道徳的な言説から解き放たれ、また同時に主人公としての異形の人格が、鮮明な輪郭と共に立ち現れるのではないか。なにも「バカな子」を笑い者にしようというのではなく、「バカな子」を徹頭徹尾馬鹿馬鹿しく描くことで、「バカな子」の内部に潜む突き刺すような鋭い哀しみや、寄る辺ない痛みや、暴力的な情熱があぶり出されてくるのではないか。何にでも変身できるなどという程度の「魔法の力」などテレビの中にいくらでもひしめき合っているくらい凡庸であるいま、「魔法」が、「変身」が、今だったらなんの比喩に当てはまるのか、演出だったらちょっとは頭ひねって考えてみなさいよ。バカねえ。
 とまあざっとこんなようなことを吉田さんはわたしに言いたかったのだ。と断言すれば吉田さんに怒られるかもしれないが、わたしのなかで、アッコとは何者であるのかということが、「バカの地平」の彼岸に、おぼろげながら見えてきたのだった。(了)

※アニメスタイル第1号(BT/美術手帖増刊Vol.51 No.786、2000年4月15日発行、美術出版社)より再録
※明らかな誤字を修正した上で、掲載された原文をそのままテキスト化した。強調してある箇所は、原文では傍点がふられている。

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(06.07.07)

 
 
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