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●『わんぱく王子』と新しい気運
── ロックアウトが昭和36年のボーナス闘争前ぐらいで、翌年の夏に『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』が公開になるんですけど、永沢さんは結局、『シンドバッド』にはその後も作業的には復帰しないで、1本飛ばした感じで『わんぱく王子』に参加されたわけですか。
永沢 そうです。
── 『わんぱく王子』の準備は、『シンドバッド』が完全に終わってからのスタートだったんですか。
永沢 ダブってるんじゃないですかね。『シンドバッド』の間に芹川さんと森さんを中心に、ストーリーボードやキャラクターを作ってたんだと思います。
── 永沢さんは『モトロ』で原画をやられたわけですが、長編での原画デビューは『わんぱく王子』になるわけですね。
永沢 そうです。
── この時期、会社として辞令が出て「次、原画」みたいな感じだったんですか。
永沢 辞令が出たかなあ。なんか呼ばれて、「原画やれ」とか言われてたような。
── 『モトロ』で原画やるのと、長編で原画やるのとでは、社内的には全然違うものなのでしょうか。短編の原画なら、役職は動画でも描けるとか。
永沢 そうですねえ……。原画になったら給料がバンと上がるとか、そういう感じはなかったですからね。それほど感動的なものではなかったように思いますね(笑)。
── あ、そうですか(笑)。
永沢 でも1作やっているとその間に、次に原画になるのは誰かっていうのは空気で決まってたと思うんですよ。スタッフが増えていましたから、原画の絶対数も足りなくなっていたし。
── そうなんですか。先ほどから永沢さんはUPAの事を意識されたりとか、リミテッド手法を『西遊記』で試みたりされた流れからすれば、『わんぱく王子』で試みられたこのデザインは、永沢さんの目指されたものになってますよね。
永沢 そうですね、ええ。
── そういう時代の流れというか、これは東映の中でも気運みたいなものがあったんでしょうか。
永沢 そうです、ええ。
── この作品に関わられたどの辺の方達が中心になって……?
永沢 作画の上ではもちろん森さんですが、虫プロができたという影響があったと思います。
── ほうほう。
永沢 坂本(雄作)さん、中村さん、紺野さん、ギッちゃん(杉井ギサブロー)達がバーッと虫プロへ行ったでしょう。それで社内の空気も変わったんですよ。虫プロの方がなんとなく、絵柄も含めて新しい、何かそういう感じで。
── それは『ある街角の物語』(1962)などを見て感じられたという事なんでしょうか。
永沢 そうですね。あるいは、虫プロがマスコミにも採り上げられたりして、アニメ界の新しい動きみたいな雰囲気が出てきたでしょ。だから東映としても、ここで何か新しい事を、対外的にも、それから社内のスタッフに対してもやらなきゃいけないという気運が強かったと思いますね。それと映画界の不況から、撮影所出身の若い演出家が入社してきたでしょう。アニメ業界以外の人も入ってきて、それまでと違った新しい空気がありましたね。
── 確かに昭和36年の段階で坂本さん達が移籍しているんですけど、『ある街角の物語』がお披露目になったのは、昭和37年の11月なんですよ。その頃だと『わんぱく王子』はほとんど完成してる時期なんですが……。
永沢 ははあ。『わんぱく王子』のスタートはどのぐらいですか。
── 『わんぱく王子』は長編ですから、制作に1年くらいはかけますよね。逆算すると、『シンドバッド』が昭和37年7月に公開だから、『わんぱく王子』の作業が本格化するのはこれより後だと思うんですね。
永沢 坂本さん達は『シンドバッド』以前に虫プロへ行ったんですね。
── ですからたぶん、デザイン面とかこういう作品を作るんだという方向性を決めていった時期というのは『シンドバッド』より前か製作中の頃じゃないかと。『シンドバッド』が終わって取りかかった時にはもう決まってましたから。『街角の物語』の完成品を見る前に、東映は東映でデザインを一新しようと挑戦は始めてたと思うんですよ。
永沢 そうですね。
── まだ作品は見えないけれど虫プロというのが出てきた、台風の目みたいなものがある、みたいな意識って事でしょうか。
永沢 意識というよりもね、東映のアニメの中堅以上の人自身が「行きたい」と言い出したわけでしょう。それで最初に行ったのが雄作さんじゃないかなあ。
── そうですね。
永沢 結局、雄作さんからの流れで、中村さん、紺野さん、りん(たろう)ちゃんとかギッちゃんが辞めて虫プロへ行ったんですね。当時はりんちゃんもギッちゃんも、セカンドぐらいやってたけど……りんちゃんなんかはまだ動画だったんじゃないかな。それでも、虫プロへ行ったら1本コンテを描くとか、演出もやるとかね、そういう事をやってんだっていう話を東映に来ては話したり、夜はみんなで飲みに行ったりして、そういう動きは伝わってきてたんですよね。だけど、東映にもいろんな人がいますから、虫プロに行って手塚治虫の画を描きたい、という人も限られてはいたんですよ。あるいは労働条件にしても、東映にいて動画をやってるより、虫プロ行って1本任された方が収入も増えるとかいうリアルな事もね、情報として出てたと思いますね。
── 現場の方も虫プロができて、そちらに魅力も感じつつ、それを抱えてる東映も、うかうかしてると人材に逃げられてしまう、みたいな危機感は確かにあったんでしょうね。
永沢 ええ、あったと思います。
── アートアニメーションみたいなものを当時、ご覧になっていた方って、他にもいらっしゃいます?
永沢 東映でもフィルム借りてきて上映会をやったり。そういう事を盛んにやりました。
── それは具体的な作品としては、どこら辺の作品になります?
永沢 『やぶにらみの暴君』(1952)とか『雪の女王』とか。チェコのトルンカなんかもやってましたね。そういう新しいものを見る人と、虫プロへ行く人も入り混じっていたんですよね。いろんな層がいたわけです。
── 別にそういうものを見た人が虫プロへ行ったってわけでもないんですね。
永沢 と思います。
── むしろ、そういうものを見て、社内に残った人が『わんぱく王子』の原動力になったんですか。
永沢 まあ、そんなはっきりした区分けはないですよ。
── そんな単純な話ではない。
永沢 ええ。でもアニメの世界に染まってない芹川さんやパクさんなんかが入ってきて、コンテに参加しだしたっていうのがいちばん刺激になったと思いますね。東映の従来のチャンバラ的な路線じゃなくて、あるいはディズニー的なものでもなく、虫プロ的なものでもなくて、どちらかというとヨーロッパ系のグリモーとか、『雪の女王』みたいなラインが次作へのラインとしてはいいんじゃないか、というイメージが漠然と出てきたたように思いますね。それが後の『ホルスの大冒険』なんかにつながっていったのではないでしょうか。
── ちょっと気になっている事があるんですが。当時アニメーションのスタイルとして「モダン」という言葉はありました?
永沢 「モダン」っていうとマクラーレンとかね、抽象的な意味合いの「モダン」で。ちょっと広い意味でリミテッド手法のUPA風の作品を「モダン」とは思ってたけど。ただ、(東映動画内では)「モダン」という言葉は使っていなかったように思いますね。
── でも、UPA作品にあるようなモダンな方向性に興味を持たれていたわけですよね。
永沢 ええ。だけど、ああいうリミテッド的な作品に興味持ったのは、僕なんかよりも、もっと若い月岡君とか林静一とか、ああいう人達じゃないですかね。動きに興味を持った人と、画のスタイルに興味を持った人と2種類いたんじゃないでしょうか。美大出の人の中でもデザイン科出身の人達の方が……小田部(羊一)ちゃんとか、彦根君とか、玉ちゃん(児玉喬夫)がそういう、いわゆるモダンな画風には興味あったと思います。
── 森さん自身もモダンなムードを採り入れて、その後も『宇宙パトロール ホッパ』(1965)とかをやってますよね。
永沢 あ、『ホッパ』ね。そうですね。
── あるいは『ハッスルパンチ』(1965)とか。
永沢 そうですね。森さんはそういう新しい物に対する指向はかなりありましたね。だから、若い人達とも接点はあったんじゃないですか。
── 『わんぱく王子』の時、森さんがデザインする過程を、永沢さん達は横で見られていて、やはり新鮮な感じを受けらましたか。
永沢 受けましたね。変えていこうという意欲を感じました。キャラクターに直線を入れたいという事を言ってましたね。森さんは『わんぱく王子』より前にあった『水滸伝』(という企画)ではかなり新しいキャラクターを作ってましたよ。森さん自身も虫プロとか、アメリカのアニメの動きといったものに対する意識があったと思いますね。さんざん『安寿』をやった後でしたから、なおさら同じものはやりたくないというのは、森さんの念頭にあったと思いますね。森さんが東映動画スタイルが変わる中心にいたのは間違いないと思います。
── その『水滸伝』の企画と並行して『モトロ』があったんですね。細かい手法的な話ですけど、『わんぱく王子』や『ガリバー(の宇宙旅行)』(1965)なんかもそういう部分がありますけど、黒い実線の輪郭をなるべく残さないで、色トレスで括る事で色の面だけで構成されてるようなデザインにまとめてるじゃないですか。『モトロ』もそうですよね。ちょっと切り紙っぽいというか。
永沢 はい、そうです。
── ああいうものは、この頃の森さんや、永沢さん達が作りたいと思われていたデザインのひとつのサンプルだったんですか。
永沢 そうですね。ええ。それと実験的にやったリミテッドのつなぎ方を少しでも採り入れてったら、東映の長編の伝統に則りながら、虫プロともディズニーとも違う、新しいものができるんじゃないかっていう風潮が、会社の意向ともうまく一致したのが『わんぱく王子』の企画の時期じゃないですかね。僕が入社していちばんよい社内の空気だったですね。
── 『安寿』があって、その後労働組合でロックアウトまであったのに、そのように気運が上向きになったっていうのは、ちょっと不思議な感じもするんですけども。刺激剤はやっぱり虫プロなんですか。
永沢 違いますね。組合運動を通して、スタッフのみならず社員が、会社に対しても作品に対しても、受け身ではなくなったんですね。初めて主体的になったんです。それが空気を変えたんです。
── 例えば現場の風通しというか、現場の中のコミュニケーションというのも向上したようなところがあるんですか。
永沢 そうですね。労働組合では仕上げも撮影も一緒にやるでしょ。毎晩みんなで徹夜して、組合ニュースを書いたり、交流が活発になりましたからね。
── それまではどちらかというと作画は作画、仕上げは仕上げ、背景は背景というふうにお互いが交流する機会がなかったのが、労働組合がきっかけでその辺も円滑になったと。
永沢 はい。
── なるほど。それは実際に作品を作るというところにもフィードバックされていくという感じがあった。
永沢 そうです。みんな、本を読んだり、ものを考えるようになったんです。特にアニメーターが物を考えるようになったんですよ(笑)。そういう労働組合運動をする上で、みんな仕方なく本も読み、法律も勉強したりね。それから話し合ったりという事を初めてやったでしょ。画を描く人は大方、あんまり物を考えないとか、絵描きバカみたいなのが多いんですけど、それがちゃんと物を書いたり、考えたりするっていう事をあの時期に始めたような感じがしますね。その伝統が今でもアニメの現場には残っていると思いますよ。
── 『わんぱく王子』は制作の体制としては、今で言う作画監督的な立場として――タイトルでは「原画監督」と言ってますけど――森さんが全体を見るという形でそういう役職を置かれた、最初の作品ですよね。また他方で、実際の作品の仕上がりを見ると、物語の構成でいろんな国を渡り歩くような事をやっているために、シークエンスごとの特色が出ていますよね。永沢さんのおやりになったアメノウズメのところもそうですけど、そのシーンだけでデザインも作画のスタイルも、ひとつの個性も保たれていますよね。
永沢 ええ。
── 作画監督を置こうという動きと、それぞれのシークエンスをある程度、力のある人に任せていこうという動きというのが、同時に起きていたんですか。
永沢 全体の空気が変わった事によって、みんながスッキリと森さんを支持するようになりましたね。森さんも今までになくやりやすかったんじゃないですか。コンテの段階でそういった事(シーンごとの特色を出すという事)も含めて、決めていったんだと思います。森さんは、大体原画の人の資質をつかんでますからね。
●アメノウズメの踊り
── ウズメのところを例にとると実際どんな感じだったんでしょうか。そもそも参加する前に、永沢さんが「キャラクターデザインから手がける」と決まっていたんですか。
永沢 いや、そんなハッキリしたものはないんですよ。
── シーンごとにキャラクターデザイナーが、自分の担当シーンのデザインをしたとうかがっていますが。
永沢 実際には、森さん自身、キャラクターの管理について凄く厳しい人ですから、そんな任せ方はしないですよ。任せてもいい人には任せるけど、一応形は作ってみてください、というようにやってもらって。他の人が作ったものでも、全部森さんがチェックして直してるはずです。
── じゃあ、最終的には森さんの画で完成形ができて。
永沢 いや、メインのキャラは森さんが作りましたが、各シーンは担当原画のデザインをかなり入れてくれました。
── ウズメもそうなんですね。
永沢 そうです。
── 前の段階で、永沢さんがあのデザインの原案を提出したわけですね。
永沢 ウズメの場合は確か、コンテの時から私がアイデアを出していて、「あ、それいいね」という感じで決まったんだと思います。
── シークエンスのコンテも永沢さんが清書されたんですか?
永沢 いや、最終コンテは芹川さんです。それ以前のストーリーボードの時ですね。大体担当のシーンをラフで描き合ったように思います。
── その時にもう担当が決まってたという事ですか。
永沢 私の場合は、かなり早い段階で「じゃ、ウズメのイメージを」と言われたのかな。ほとんどそのまま、森さんが「じゃ、これでいきましょう」というふうになったと思います。
── そもそも『わんぱく王子』の中で永沢さんが担当された箇所っていうのは、あのシーンだけなんでしょうか。
永沢 あそこだけだったかなあ……。いや、他もやってるとは思いますよ。後半、お手伝い程度にね。
── ただ、大きく受け持ったというのは……。
永沢 ウズメのシーンです。
── 具体的にはウズメが踊りを踊る前からのシーンなんですか。アマテラスがお隠れになったところから?
永沢 戸を閉めるあたりからだったと思います。あれはスポッティングをやる特別なシーンでしょう。僕も初めての経験です。演出助手のパクさんがずっとつきっきりという感じで助けてくれました。
── それはなぜ高畑さんだったんでしょうか。具体的で、より細分化された作業だからという意味ですか。音楽に造詣が深かったからとか。
永沢 芹川さんが「ここはちょっとパクさんやって」という感じだったんじゃないですかね。
── 高畑さんって近年ではジブリの作品で音楽監督や音響監督やったりとか、アニメの演出を離れても音響に一家言ある方だから、そういう時に自らやりたいという意志が働いたんでしょうか。
永沢 そんな事もあったかも知れないですね。凄く乗ってやってくれたんで、僕も助かったんですよ。
── さっきも話されたように、芹川さん高畑さんと伊福部さんのところに行って、作曲プランの段階から永沢さんも参加されて。
永沢 そうです。あの時、彦根君はセカンドになったのかな……原画になってますか?
── いや、原画にはなってないです。動画とクレジットされてるって事は、たぶんセカンドでしょう。
永沢 彦根君と誰か他にも……2班か3班あったような。
── ちなみにこの時「動画」と出る方は月岡さん、小田部さん、竹内さん、彦根さん、小田克也さん、生野さん、堰合昇さん、大田朱美さん、中谷恭子さん、小林和子さん、吉田茂承さん、勝田稔男さん、児玉喬夫さん、菊地貞雄さん、斉藤賢さん、福島信行さん、森英樹さん、平田敏夫さんなんですけど。
永沢 じゃ、あのシーンは僕と、セカンドは彦根君だけだったのかな。なんとなく『モトロ』の班を主体としてたのかも。
── そんな感じですね。
永沢 うん。彦根君は音楽も踊りも好きなんで、四人のダンサーが踊るところなんかは彼が全部やってます。
── よく『わんぱく王子』のデザインの基本にあるのは、日本神話という事で、埴輪とか土偶といった日本古来の美術スタイルを上手く採り入れたんだと書かれているんですけど、見ている側からすれば、ウズメなども目の処理とか、プロポーションといった部分に、そういう点が生かされていると感じるんです。やはり意識はされたんですか。
永沢 それほど意識はしなかったんですけど。
── あの足の短さなんかは?(笑)
永沢 そうですね。ただ大体、線は『モトロ』を引き継いで、なるべく単純にしたかったんですよ、僕は。東映のそれまでのキャラクターは回転させる事を考慮してるんだけど、そういう事を考えないで、もう正面と横だけでも動かせるようなデザイン。そういう事しか考えなかったですね。それは『モトロ』でいろいろ実験してたんで、大丈夫だと思ってやったんですけどね。
── あのシーンでたくさんの星が舞うのが仕上げ泣かせだったと言われてますよね(笑)。仕上げの女性が苦情を述べたというエピソードをどこかで読みました。
永沢 あれは全部塗ったんじゃないかなあ。追い込みの時、僕も色塗りやトレスを手伝ったように思いますよ。
── 動画で全部描いてあるものを塗ったんですか。
永沢 全部描いたんですよね。
── 色トレスしていったんですか。
永沢 それにエアブラシをかけて、撮影も特殊な事をやりました。
── あれはかなり繊細な作業に見えました。
永沢 ええ。
── 担当なされたシーンはシンプルと言いつつも、『わんぱく王子』の中でいちばん肉感的な部分が出ていますね。そこら辺はご自身の持ち味という事なんでしょうか。
永沢 とにかく『安寿』とかなんとかで、僕は、東映の色気がないキャラクターっていうのが凄くイヤだったんです。つまんないと思ってたんですよ。
── 『安寿』のような題材でも色気が出せず、堅くなってると。
永沢 堅いですよね。お子様向けっていう感じでしょ。なんだか講談社の絵本の伝統みたいなものがあるでしょ。
── ああ。
永沢 森さんの画に色気がないでしょ。大工原さんの方がまだ『白蛇』の白娘とか『佐助』の夜叉姫なんかに色っぽさがありますよね。森さんは清く正しいっていうかな。絶妙の可愛らしさはあるし、そこが魅力なんですけどね。アメノウズメっていうのは色気で岩戸を開けさせたんですから、やっぱり色気がなかったらつまんないなあと思ってたんですよ。
── 日本最初のストリップとも言われているウズメの踊りですが、例えば永沢さんなりに、そういった踊りのスタイルに関して、取材はされたんですか。
永沢 ライブアクションを参考にしてますよ。ウズメそっくりな人が現れたんですよ。
── そっくり、ですか?(笑)
永沢 当時プロデューサーやってた籏野さんっていますよね。
── ああ、亡くなられた籏野(義文)さん。
永沢 その人のお姉さんで、籏野恵美さんが、バレエ団をやってたんですよ、モダンバレエの。その人に振り付けを頼んだんだけど、お弟子さんの中にタエコちゃんというウズメそっくりの子がいたんですよ。
── ポッチャリとしてるんですか。
永沢 写真があったはずです。ちょっと待っていてください。
※奥の部屋から、写真を持ってきて下さる。
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▲『わんぱく王子の大蛇退治』制作風景。
手前はウズメのポーズをとる籏野恵美。
奥の眼鏡の男性は芹川有吾。右端が永沢 |
永沢 (写真を持って来て)これ、そうですよ。
── これはお綺麗な……。これはスケッチ風景ですね。ライブアクションをやった場所は、どこかの旅館とか、そういうところですか。
永沢 いや、スタジオの中にあった畳の部屋でやったんだと思います。
── そうなんですか。
永沢 (写真を示しながら)これが籏野さんで、こっちがそのお弟子さん。まんまるい顔で、小柄で、ぴったりのモデルでした。
── 籏野さんはポーズのモデルとなり、もう一人の方がモデルになったんですか(笑)。
永沢 そうです。籏野さんが振り付けをやってね。
── クレジットでは「舞踊振付」って出てますね。
永沢 そうです。このそっくりの子にウズメと同じようにポーズをとってもらって。
── 芹川さんが書かれたコラム(「演出家ノート―VOL.3― 私のテレビ・アニメ考 懐かしき日のアニメ生活雑談」)を読むと、かなり大かがりなライブアクションをやられたありますが。
永沢 そうだったかな。フィルムに撮ったのは、おぼえていないです。ポーズをいろいろやってもらってそれをスケッチした記憶はありますが。
── 確かに、ウズメの動きって、それこそフルアニメながらリミテッド的というか、キメのポーズというものが非常にメリハリがあって決まっていますものね。踊り自体の組み立てはともかく、動き自体はライブアクション的なリアルなものではないですよね。
永沢 ええ。大体、私がリアルな動きって苦手ですし、やりたくなかったですから。ポーズ主義っていうか。そういう点にUPAなんかの影響が入ってるんだと思うんですけどね。
── ご自身の指向と影響の両方なんですね。
永沢 ええ。このウズメのシーンをやった人はやり終わって、ほとんど辞めちゃったんですよ(苦笑)。
── ああ、そうですね。彦根さんは虫プロへ行かれちゃうし。
永沢 そうです。
── 『わんぱく王子』は永沢さんのアニメーター時代の代表的なお仕事なんじゃないですか。
永沢 そうかもしれないですね。カンヌだかどっかでやった時に、あのシーンが話題になって、記事になったかなんかしましたよね。
── 永沢さんとしても、この時期のお仕事としては、思うような事ができたシーンなんですか。
永沢 ええ、初めてですよね。『モトロ』では作監やったけど、あんまり面白いとは思わなかったですからね。アニメっていうのはやっぱりキャラクターからやらないと面白くないですよ。
── でも『モトロ』ではキャラクターもおやりになっているわけですよね。
永沢 やってるけれど、やっぱりコンテが、ちゃんとできてたんで。
── ああ、なるほど。『わんぱく王子』に関してはコンテ作りにも完全に参加できたという事で。
永沢 そうですね、コンテに入ってますからね。
── 例えば細かく言うと、このシーン自体のカット割りとかそれぞれのカットの構図も、永沢さんが決める事ができたんですか。
永沢 かなりやらせてもらえましたね。ストーリーものだとどうしても流れに沿ってやるでしょう。芹川さんも森さんもそういうのだとあんまり仕事しないと思って、僕にやらせてくれたのかもしれないですね(笑)。
── (笑)。
永沢 『西遊記』などの経験があって、妖怪がパーティをするシーンなんかをやった事で、そっくり任せられるっていうのが分かったんでしょうね。そうでもしないと、私に限りませんけど、アニメに対する意欲がある人でも、つまらないシーンだとやっぱり乗れないし、エネルギーが作品に出てこないんですよね。そういうアニメーター管理の上でも『わんぱく王子』というのは、それまでの経験を活かせる、うまいシステムだったと思います。他のシーンでも、それぞれに合ったシーンを作ってるでしょう。たぶんストーリーボードの段階から入ってもらってという形でね。大塚さんのオロチのシーンでも、カット割りを大塚さんがやってると思うんですよ。
●永沢詢インタビュー(5)へ続く
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