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●東映動画以降の仕事
── 今日の取材は、東映長編時代のお話が中心ですが、少しそれ以降についてもうかがわせて下さい。東映を離れてからも、いくつかの作品に関わられていますよね。『おそ松くん』(1966)に演出チーフとして参加されたのは、どのような経緯で?
永沢 東映を辞めた後に、3年間、女子美短大の講師をやっていたんですよ。その間に山本早苗さんが東映を辞めて、チルドレンズコーナーという会社を作ったんです。そこで『おそ松くん』やるので、やってくれないかと言われて、チルドレンズコーナーへ行ったんです。蒲田の方の、ちょっと遠いところにあったんですよね。
── チルドレンズコーナーは、三幸スタジオの建物を使っていたそうですね。
永沢 そうです。オンボロの工場跡みたいなところだった。(行った時には)もう何人かアニメーターもいたんですよ。10代ぐらいの若い人達を掻き集めてやっていましたね。
── 『おそ松くん』で、永沢さんがアニメ用のキャラクターデザインを起こしたりはしていないんですか。
永沢 それはやっていません。あの作品はスタジオゼロが制作だったんじゃないですか。
── ええ、そうですね。
永沢 スタジオゼロでは鈴木(伸一)さんが作監をやって。そこだけでは作れないのでチルドレンズコーナーが外注として参加する事になったんじゃないですか。
── ゼロとチルドレンズコーナーで、監督が2人立っているみたいな感じだったんですか。
永沢 そうですよ。多分、半分ずつくらい作ったと思いますね。互いに別個に作業をやって、ゼロはゼロでフイルムを仕上げて、チルドレンズコーナーはチルドレンズコーナーで仕上げて。
── 前後関係が分からないんですけど、永沢さんが百人町スタジオというところにいらっしゃる時期がありますよね。あれはチルドレンズコーナーの後なんですか。
永沢 いや、前なんです。東映を辞めた後に、とにかく居場所を作ろうという事で、百人町スタジオを。
── それは新宿の百人町にあったんですか。
永沢 ええ。マンションを一部屋借りたんです。そこで、僕は短大の講師と雑誌の仕事とかをやっていたんだけど、『おそ松くん』をやる事になり、バイトのために東映のアニメーターなんかも出入りするようになってきて、居着いちゃったり。
── (苦笑)。具体的にはどなたですか。
永沢 クニ・トシロウ(白石邦俊)君と、それから、クラちゃん(倉橋孝治)とか。あと、タマちゃん(児玉喬夫)も、なんとなく来るようになったのかな。
── いつの間にかそこに動画机とかが並んで、皆が仕事するようになった感じですか。
永沢 そうです。
── それで、いつの間にか下請けのアニメスタジオ化したわけですね。
永沢 そうなんです。僕は、そことチルドレンズコーナーを往復していたと思いますね。その頃、ボロボロと東映から人が辞めだして、その人達に声をかけて、演出に立ってもらって。まず光延(博愛)さん。小華和(ためお)さん、近藤(英輔)さんに『おそ松くん』の演出を頼んで。それから、ソウさんも。
── ソウさんというのは?
永沢 あの、林静一。
── 林さんも『おそ松くん』やってるんですか。
永沢 やってますよ。
── その人達は、仕事をする時は百人町スタジオに来てもらってたんですか。
永沢 そうです。『おそ松』は15分ものの2本立てという形でしたので、演出も動画も数が必要だったんです。だから(作画に関しても)とにかく描ける人に頼んで。1本ずつ、受けた人が自分のコネで東映の社員とか、虫プロの社員とかに手伝ってもらって。あの頃は、みんな、昼は虫プロの仕事をやって、夜は東映の仕事をやるとかでね、メチャクチャだったんですよ。大塚さんなんかも、東映にいながら『W3』のオープニングやっているでしょ。
── おやりですよね。
永沢 だから『W3』だったかな、虫プロの作品で……。百人町スタジオのアニメーターが当時、『おそ松くん』と虫プロの作品を掛け持ちしていてね。夜中に置いてある原画を見たら、虫プロなのに口がハート形になっちゃってた。ノドチンコのところがハート型になるのは『おそ松』のキャラクターなんです(笑)。幸い、フィルムにはならずに済みましたけど。
── (笑)。
永沢 それぐらい錯綜していた。みんな、分かんなくなっちゃってね。金がなくて、バイトを必ずやっていたから。『殺生石』(1968)をやったのはその後ですかね。
── 時期的には『殺生石』の方が後ですね。ただ、『おそ松くん』の後番組が『かみなり坊やピッカリ★ビー』(1967)で、『ピッカリ★ビー』の後に『ファイトだ!! ピュー太』(1968)がくるんです。『ピッカリ★ビー』にも続けて参加されてるんですよね。
永沢 僕は『ピッカリ★ビー』は全然やってない。
── じゃあ、後番組の『ピッカリ★ビー』には参加せず、その後の『ファイトだ!! ピュー太』で再び参加されたという事ですね。で、『ピッカリ★ビー』の頃に『殺生石』に参加された?
永沢 そういう事になりますね。『殺生石』の時には桜台にアパートを借りてやっていました。
── 前に彦根さんに話をうかがった時に、虫プロを辞めて桜台のスタジオで仕事をしていた時に、そこに永沢さんや白石邦俊さんがいて、後で林静一さんも加わったと聞いたんですが。
永沢 そうです。
── 流れとしては、『おそ松くん』の時に百人町スタジオがあって、それから『殺生石』の時に桜台のスタジオに移られて。『ファイトだ!! ピュー太』の時には放送動画制作の中に入ってやれらていたんですね。
永沢 そうですね。東京中をみんなで動いてたんですよ(笑)。
── 『おそ松くん』や『殺生石』の頃に、『悟空の大冒険』(1967)でアイデアブレーンとして参加されていたそうですが。これは、ギャグのアイデア出しみたいな事をやられてたんですか。
永沢 そうです。
── 毎週、虫プロに行かれてたんですか。
永沢 毎週やってましたね。
── 鈴木良武さんによると、脚本を名うての方に頼んだけれど、全然使えないので、ブレーン会議をやったという事なんですが。どういうつながりなんでしょうか。
永沢 これはギッちゃんに呼ばれたんです。
── 杉井さんですね。ギャグアイデアマンとして永沢さんは買われていたという事になるわけなんでしょうか。
永沢 どうなんでしょうか。あれも不思議な作品でね。あの、『悟空』も手塚さんの原作だけど、虫プロとしても「なんか新しいものを作らなきゃなんない」っていうところにきてたんじゃないですか。で、虫プロの中では、新しいものをやるんだったらギッちゃんという事で、とにかく、ギッちゃんが全部任されていて。それで、そういうブレーンシステムをやった。
── あくまで、そういうブレーンとして意見を言うって立場で、脚本とか演出には一切タッチしない関わり方だったんですか。
永沢 主には、話作りだったと思いますね、個別のギャグよりも。あんまり覚えてないけれど……結構、遊んだような記憶ありますね。
── 『ファイトだ!! ピュー太』についてもちょっとうかがわせてください。何をおいても、あのオープニングが凄いですよね。オープニングでは、永沢さんは何をやられているんですか。
永沢 コンテのアイデアは出したけど、最終コンテは光っつあん(光延博愛)だったと思います。
── 作画はどなたなんでしょう。
永沢 作画は小華和(ためお)さんや竹内大ちゃん(竹内大三)じゃないですかね。
── ええっ?
永沢 違うかなあ。あの頃ね、やっぱりあの、もうメチャクチャやりたい人がいたんで、小華和さんとか、竹内君とか。もう、動かしたくてしょうがない人達に頼んだ記憶ありますね。
── 1秒で3カットみたいなところありますよね。あれはコンテでああなってるんですか。
永沢 とにかく、細かいカットでやったんですよね。徹底的にやってみようと思って。あの頃は、僕も『笑点』のオープニングとかね、同じような事をやってますよ。
── 『笑点』のオープニングもやられたんですか。
永沢 ええ。
── あの、似顔絵が出てくるヤツですか。
永沢 そうです。
── 何代も変わりましたよね、あれ。
永沢 最初の似顔絵が出てくるガチャガチャしたヤツは、僕がやって大ちゃん(竹内大三)が動かしたと思いますね。その後は大ちゃんがコンテ切ってんじゃないかな。
── そうなんですか。
永沢 全部、『ピュー太』のオープニングの流れでやってますよ。
── (『ピュー太』のオープニングを鑑賞)当時としては、こんなにスピーディなオープニングはないと思うんですけど、小華和さんなんですか、これ?
永沢 うん。最後の方のグニャッとするのとかは、小華和さんの動きですね。でも、これは、いろんな人がやってますね。(これをやっていた)チルドレンズコーナーには、光延さんのつてで、東映でも長編じゃない人達、コマーシャル系の人がきたので、東映の伝統的な動きじゃない人がここに入ってるんですね。だから、面白いんですね。光延さんもその頃、プライベート作品を作ったりしてるんですよね。だから、たまたま(そういう状況が)虫プロとも東映とも違う動きを作ってる。それと、みんな『殺生石』をやったりした欲求不満がこういうところにでてますね。
── (笑)。『殺生石』は硬いアニメーションだったんですか。
永沢 そうですね、ええ。
── 『安寿と厨子王丸』のような(笑)。
永沢 特に前半なんか、それこそ、『安寿と厨子王丸』みたいなシーンが多いんですよ。そういう、民話をちゃんと作りたいっていうのがプロデューサーの中島源太郎さんの意図だったんでね。
── 『ピュー太』の後、昭和45(1970)年に池袋のマンションで永沢さんと彦根さんが2人で共同スタジオを作った事があったとうかがっています。そこには、中島潔さんや白石邦俊さん、倉橋孝治さんといった方々がいらしたと、前に彦根さんにうかがったんですが。
永沢 『ピュー太』がわりと早く終わったんですよ。
── 半年で終了ですね。
永沢 あの頃の僕らは、半年ごとくらいに「今度は、何をやって喰っていこうか」という感じだったんです(笑)。それで探したら池袋に安いマンションがあったので、そこをまず彦根君と2人で借りたんです。2人だから「共同スタジオ」という名前にして。
── ああ、本当に「共同スタジオ」という名称のスタジオだったんですね。
永沢 ええ。名刺を作って、僕の方には「永沢・彦根共同スタジオ」。で、彦根は「彦根・永沢共同スタジオ」と書いてあった(笑)。
── (笑)。
永沢 2部屋あったので、電気代とか全部半々にして。
── その時期は何をされてたんですか。CMですか。
永沢 僕は雑誌の仕事を始めたんですよ。「こどものかがく」とか「3年の科学」でイラストを描いたり、蝶々の図鑑をやったり。彦根君はCMの仕事をやっていて、キャラクターのデザインとCMのアニメ部分をやっていたんです。それをやっているうちに僕のところにもCMの仕事がくるようになって、キャラクターと演出をやるようになったんです。東芝のエアコンだとかサンヨーのキャビットシリーズ(石油ストーブ)というのがあって、そのキャラクターを作ったり。サントリーのものもずいぶん作りましたね。そういった仕事を4年くらいやりました。
── 倉橋さん達もそこで作業をしていたんですか。
永沢 いや、同じマンションの別の部屋を、中島潔さん、倉橋君、白石君達が借りていたんですよ。それから、渡辺省三さんも。部屋が次々増えて、全体がスタジオのようになったんです(笑)。
── 「キリンものしりシリーズ」や『まんが日本昔ばなし』などに参加されていた方々ですね。永沢さんは「ものしりシリーズ」は『マンガ人物史』からの参加ですか。
永沢 企画とキャラクターをやったのは『マンガ人物史』からですね。その前の『キリンものしり大学 明日のカレンダー』の時にも、本編中のイラストを受けて描いてはいたんです。まだモノクロの作品でね。
── シリーズ最終作の『あしたのカレンダー』は1984年までずっと関西で続いてたと思うんですけど、最後まで関わられてたんですか。
永沢 最後まで名前は出てますね。でも、途中から私、アメリカ行っちゃってますからね。
── ああ。でも、かなり後までアニメをやってらっしゃるんですね。ちょっとびっくりです。イラストレーターの仕事が比重を増していくのはどのあたりからなんですか。
永沢 それはやっぱり、アメリカへ行ってからですね。それまではアニメは半分、印刷媒体が半分という感じです。ただ、アニメはやってても、キャラクターとか演出とか企画だけだったですね。『あしたのカレンダー』みたいなものはミニ番組ですから、コンテだけチェックするとか。
── 作画はされてないんですね。
永沢 たまーにやってましたけどね。『あしたのカレンダー』やなんかになると、アニメ部分はもう最初に作っちゃって、バンクでやってますからね。だから、実感としてはアニメの仕事は『殺生石』と『ファイトだ!! ピュー太』で終わってますね。CMなんかになったら、僕はキャラクターと演出だけで、描くのは全然やってませんし。
── 作画までタッチされた作品としては、何が最後になるんですか。
永沢 『殺生石』ですね。
── 『殺生石』って、なかなか見る機会がないんですけど、どんなところを描いたんですか。
永沢 僕はあの、銅像が壊れるとこを中心にやったんですね。玉藻が巨大な銅像になって、それが最後に壊れるんですけどね。
── じゃあ、ラスト近くをやられたんですか。
永沢 そうです。前半は杉山卓さんが、作画やってるんですよね。あれは作監は杉山さんになってるんじゃないですか。あれも不思議な作品で、中島源太郎さんって、亡くなった……。
── ええ、中島飛行機の。
永沢 後に、文部大臣になった人ですけど。あの人の好みで始めた仕事なんですよ。
── 藪下さんはタッチはしてないんですか。
永沢 藪下さんはね、その中島さんが作った日本動画っていう会社にいて。顧問みたいな形で、現場の仕事はもうやってなかったですね。
── ああ、そうなんですか。
永沢 『殺生石』というのは関東の伝説を元にしているんですよ。それに思い入れがあったようなんです。
●最後に
── ちょっと話は戻ります。東映を辞められる時には、アニメーターを廃業するという意識だったんですか。
永沢 いえ、そこまではなくて。とにかく辞めたい、という思いですね。
── それは東映を辞めたい、という思いですね。
永沢 東映であり、共同作業そのものですね。
── あ、なるほど。むしろ、個人で活動したいと。
永沢 そうです。
── その後の、例えばアニメに関わるにしても、絵コンテとか、そういう関わりならばいいか、と。
永沢 そうですね。動かすのは、できればやりたくなかったですからね。でも辞めたら、動かすのもやらなきゃならなくなったんですが、なるべく企画や演出の方、中心にしていったんです。
── 演出をやる上でも、アニメーター経験っていうのは生きてるわけですよね。
永沢 ええ、そうですね。
── でも、実際にはアニメだけをやっていたわけじゃなくて、著書にも書かれてるように、画に関するいろんな仕事をしていた中のひとつが、アニメだったと。
永沢 頼まれればその、学研の学習雑誌の画でも新聞雑誌の仕事でも何でも描くっていう状態だったんです。アニメとの比率は半々ぐらいでした。
── その時期に『おそ松くん』や『殺生石』や『ピュー太』やCMの仕事があった、と。
永沢 そうです。だから、画に関する事でやれる事はほぼ全部やったと思うんですよね。アニメだけじゃなくて、雑誌の仕事もしたし、それからあ普通のTV番組の演出もやってるんですよ。
── そうなんですか。
永沢 毎日放送で「ドキュメントーク」という番組があって、その構成、演出を1年半ぐらいやりました。そういうのをやりながら、探ってるわけですけど、どうにも定まらなくて……それで、アメリカへ行っちゃったんですよ。
── その後はアニメの活動は全くないんですか。
永沢 ええ。後から考えたら、もっと早く外国へ行った方がよかったと思うんです。アメリカに行ったのが40代の初めですからね。それから新しい仕事っていうのは凄い大変だったんですけど、外国だからできたのかも知れないですね。日本にいると、人間関係が続きますからね。自分の仕事と、生き方を変えるっていうのは難しいです。
── アニメーション時代の作品は振り返る事はないですよね。
永沢 今でも、TVでアニメをやっていると、スイッチを切っちゃいますね。
── (笑)。
永沢 見たくないし、関心もないですね。
── それは東映長編時代のものでも、そうなんですか。
永沢 まあ、懐かしいぐらいはあるけれど、それよりも今の(自分の仕事の)方が興味ありますからね。遠い過去のような感じで。今日お話ししても、ホントに役に立つかどうか。大体過ぎた事は忘れるタチですから(笑)。
── いやいやいや。ずいぶん覚えてらっしゃいます。興味深い話が沢山ありました。
永沢 むしろ、(アニメをやった事が自分にとって)逆のエネルギーになってるっていうかな。今では、アニメをやったためによかった事というのも、感じてるんですけどね。やっぱり自分を変えていく時期にはね。本にも書いたけど、8年東映でやってたっていうのは、絶対に長すぎたと思いますね。
── あの、僕らのアニメの歴史観で言うと、東映動画の初期というのは、そういうアニメ畑ではない方が、大勢入られて日本のアニメーションに新風を吹き込んだと捉えているところがあるんです。永沢さんはその筆頭ではないか、と。そういう意味では非常に、残したものは大きかったんじゃないかと思うんです。
永沢 そうですか。
── 逆に、アニメで育って、好きで入って来る人が沢山いる、今はもうそういう時代ですよね。で、先ほどの話で、ちょっと新鮮だったのは、画が描ければ何でもいいっていう動機で当時入ったっていう人の話は色々と聞くんですけど、東映という大会社のネームバリューというのが意外と大きかったっていう事は、新鮮でした。
永沢 そうですよ。だから、虫プロとか、他にも竜の子とか色々あったけれど、東映が他と違うのは、そういう雑多な人がいて、美大で油絵だけやっていたとか、普通の大学にいたとか、マンガだけ描いていたとか、そういういろんなジャンルの人がいたっていう事。それからもうひとつ大きいのは、さっき言ったように、当時の時代の風潮もあったんですけど、労働組合運動という形で、とにかくみんな、よく本を読んだし、ディスカッションしたし、組合ニュースやら何やらで絵描きが一所懸命文章を作って書いて、道でビラを配ったり、人前で喋ったり、そういう頭を働かせる事を、特にやったんですよね。それが知的財産になったっていうかな。
── なるほど。
永沢 やっぱり絵描きだけ集まるとね、面白いだけに終わっちゃうんですよ。絵描きバカって言いますけどね、そういう世界に僕はいたんで。で、漫画やってる人でも相当良い仕事やっててもね、油絵とか日本画とか――「本画」って言いますけどね――そういうのにコンプレックスを持ってるんです。そういう、もうひとつプライドがないようなところがあるんですよ。で、そういう雑多な人が入ったり、組合運動や政治運動をやったために、お互いに啓発されるところがあったんですね。宮崎(駿)君なんかでも入ってきて、すぐに仕事よりとにかく組合をやらされるでしょ。で、そっちの方が、実は面白かったんですね。
── それはご自身も面白かったんですね。
永沢 面白いというか、もう、興味の中心はそちらの方にいっていた。当時は、ずっと残業代もなかったし、失業手当の制度もないし、何もなかったんですからね。それでも絵描きっていうのはお人好しだから、せいぜい黙って辞めていくだけで、文句を言わなかったんですよ。自立意識がなくて。仕事を始めた時には、東映っていう大きい会社が作った会社に入れば、親も安心するでしょ。そういう画が描ける場所ができたという、ホッとした場所の空気っていうのが強かったんですね。
── モラトリアムの延長みたいなところもあったんですね。
永沢 そうですね。だけど労働組合作ったり、それが一度潰されたりなんかすると、やっぱり、自分の主張をするのがね、ただごとではないという事が、絵描きにも肌身に染みて分かってくるわけです。調べたら首切りリストに自分が入ってたり、コネで入ってきた人は紹介者から「組合辞めろ」と圧力がかかったり、いろんな事件があったんですね。何があっても逃げ場がないですから、そこで何とかしようっていう事が起こるんです。そういう点では、後から考えるとよかったと思いますよね。
── 他の選択肢がないですもんね。
永沢 そうですよ。結局、初期の頃は東映で虫プロ以外、他のプロダクションへ行った人はほとんどいないんじゃないですか。やっぱり「会社」なんですよね。生活がかかってくると。
そういう事で言うと、東映がアニメーション始めたっていうのは、いろんな問題投げかけたっていう事ですかね。東映がやらなかったら、どこもやらなかったでしょう。他の会社がやっていたとしても、今とは全然違う事になったでしょうしね。会社があったために、またその会社がかなりひどかったために、逆に個人個人がものを考えるようになったという事ですね。
●後日談
取材終了後、永沢さんがお持ちになっていた「アニメジャーナル」をお借りする事ができた。これに当時の東映動画スタッフが自分のデビュー作を語るという記事があり、そこで『かっぱのぱあ太郎』で初めて動画を描いたエピソードを永沢さん自身が書いている。猿と狸がケンカをして倒れるカットで、楠部大吉郎さんと2人で1カットを描いたようだ。実際の動画デビューは『夢見童子』ではなく、その前の『かっぱのぱあ太郎』だったのだ。それについて改めてお聞きすると、ご本人も記憶違いであると認めていらした。
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