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■東映長編研究 第11回
白川大作インタビュー(3)
『西遊記』と各スタッフの活躍
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── さっき、清水崑さんの画を取りに行ったって事をうかがいましたけど、白川さんご自身は『猿飛』との関わりはそれだけだったんですか。
白川 それだけですね。他はほとんどなかったです。
── それで、すぐに『西遊記』の準備にかかった。
白川 ……ような気がしますね。
── 実際には、対抗馬として、別の企画があって、討議して『西遊記』になったり、という事はなかった?
白川 それはあまりなかったんですよ。いつの間にか『西遊記』に決まっていたんです。多分、渾大坊さんが企画会議に提案して、あっさり、それでいいだろうという事になったんじゃないかしら。
―― 例えば、飯島さんが別の企画を出す、というのはなかったんですか?
白川 飯島は、後の『わんぱく王子』につながる企画、「虹の架け橋」を出していましたよ。僕は『西遊記』の企画を出して、飯島は「古事記がやりたい」と言った。だから、順序として「中国、日本、中国、日本」みたいになっていったわけ。
── 「次は中国の番だ」という事だと、その段階では古事記はあんまり通りそうもないですよね(笑)。白川さんは企画助手として『西遊記』に入られたわけですが、最終的に演出としてクレジットされていますよね。そのいきさつは?
白川 それはね、手塚さんがそんな経緯で準備段階で抜けちゃったわけですよ。で、演出は藪下さんだった。それで、僕は企画助手から演出助手になったわけです。
── 手塚さんが演出で連名になっていますが、演出としての仕事は、ストーリーボードとコンテの仕事だけなんですね。キャラクターの原案を描いているけれど、演出はしてない――いわゆる処理的な事はしていない。
白川 そう。ですから、藪下さんが現場の演出をされたわけですね。で、僕は演出助手をやってたんですけど、実を言うと、藪下さんが途中で病気になって入院されたんですよ。だから、『西遊記』の制作後半は現場に藪下さんがいなくなっちゃった。それで結局、後半から仕上げの部分まで、僕が現場の仕事をやる事になったんです。もちろん、毎日のように病院に行って、藪下さんの指示を仰ぎながらでしたけどね。
── そうだったんですか。
白川 本来から言うと、あのクレジットタイトルは、演出が「手塚治虫・藪下泰司」、あるいは「藪下泰司・手塚治虫」で、後の方に演出助手として僕の名前が出るのが普通なんだけど、結局、仕上げたのは僕になっちゃったわけです。そのために、3人連名にせざるを得なくなったのかなあ。
── ちょっと小さく出てるんですよね。
白川 そうそう。それがまた、おかしいところで(苦笑)。僕は入社2年目か3年目でしょ。当時の映画界では、3年目で監督なんていうのはあり得ないわけですよ。で、小さくなっちゃったんですよ。
── 具体的に原画のチェックなんかをなさったんですか。
白川 ええ、全部やってます。
── これは実際の作画の作業は、絵コンテが完成してからとりかかったんですか。それとも、絵コンテが上がったところから作画にとりかかってたんでしょうか。
白川 全部完成してからだったと思います。
── 作画は一斉に頭からじゃなくて、やりやすいとこからかかってるんですね?
白川 うん、それぞれのシークエンスの中でね。森さんは、最初の悟空が生まれて、バッタに驚いて、燐々に会って、というところから取りかかっているし。
── ああ、あそこが森さんなんですか。
白川 古さん(古沢日出夫)は、確か猪八戒が出てくるあたりから始めてるし、というような感じになるわけですよね。
── 印象的だった各スタッフの活躍ってありますか。
白川 みなさん、それぞれ自分のところを得意技でやっていったわけだよ。例えば杉井ギサブローはさっき言ったように、牛魔王のところでの饗宴の部分を、彼のやりたいような感じでやっていった。あそこは彼は嬉々としてやってたし、金閣銀閣との戦いは、大塚さんが大好きだった中国の京劇の所作を採り入れて一所懸命やってたしさ。さそりの部分は月岡君がやってたし、火焔山のところで闘牛のアクションを取り入れるのは手塚さんのアイデアだったけど、大塚さんと月岡君が相当熱入れて描いてたしね。みんなそれぞれ、楽しんでやってましたよね。
── 月岡さんは当時、まだ役職は動画だと思うんですけど、かなり目立った仕事ぶりだった?
白川 もう、そりゃもう全然目立ってましたよね。彼はやっぱり特別な才能。後の宮崎駿みたいな。で、両方とも大塚さんの班にいたんですよね。
── ちょっと細かいんですけど。『西遊記』ではクレジットでは森さん、熊川(正雄)さん、大塚さん、大工原さん、古沢さんの5人が「原画」として出るんです。年功序列で、実際は原画描いてても、動画としてクレジットに出たりする事があったと思うんですよ。ただ、原画、第二原画という職制があったとすると、本当の原画マンはこの5人だったんでしょうか。
白川 最初の仕分けはそうだと思うんです。だけど結局、第二原画として、奥山玲子さんや喜多(真佐武)さん、紺野(修司)さん、坂本雄作さんがいたり、亡くなった寺(勝井)千賀雄さんがいたわけで。原画家が自分の班の中で、それこそオン・ザ・ジョブ・トレーニングをするわけじゃないですか。それで「彼はできる」と思ったら、そこのところはもう任せちゃうとかね。そういう事はありましたよね。それはもちろん演出と相談してだけど。「こういうとこは月岡君に全部任せていいか」とか、そういう事を訊かれる事はありましたよ。でも、任されたからといって、その班のチーフではないわけだから(クレジットでは)動画の方へ分類されちゃう。結局そういう中で、例えば楠部(大吉郎)さんにしても永沢(詢)さんにしても、頭角を現して原画になっていったんですよ、月岡君なんて、そこでもう「大頭角」なわけだから。後に東映がTVアニメーションを始めようという時に、『狼少年ケン』をほとんど1人で作っちゃうみたいな状況になっちゃうわけ。
── 「天才登場」、みたいな感じだったんですね。
白川 うん。それから宮さんですよ。まあ、後になるけど『太陽の王子ホルスの大冒険』の準備をしている時に、大塚さんが宮さんが描いたレイアウトを見せて、「これ、どう思う? 凄いでしょ」って。
── やはり、その頃から抜きんでたものがあったんですね。
白川 そりゃあ、もう(笑)。その時、僕はまだ宮崎駿という新人は正直あまり知らなかったんです。でも、大塚さんは身近にいるから、その才能にはすぐ気づいていた。大塚さんが、宮さんが描いたレイアウトを持ってきて、「凄いでしょ。これから僕のシーン、全部彼にレイアウトさせるけど、いいよね」と言ってきましたね。
── なるほど。
白川 やっぱり凄いと思うのは、そのように森さんにしても大塚さんにしても、新人であれ2年目であれ、巧いと思う人がいたら任せてた事ですよね。で、そういう人は上に上がっていく。そういう意味から言うと、東映の現場は、普通のサラリーマン社会とは違ってた。古いから威張れるというんじゃなくてね。ただ、そうは言いながらね、日本人社会だしさ、仲間内でやっているわけだから、あんまりぎくしゃくするような事はできなかったけれど。やっぱり巧い人は、誰が見ても巧かったからね。
── 原画の担当を誰にやらせるかの判断は、演出家に権限があったんですか。例えば「これは大塚さん向き」と演出家が判断するのか、それとも、大塚さんの方から「ここがやりたい」と言ってくるのか。
白川 それはでも、結構、あうんの呼吸だったような気もするけどね。
── あ、そうですか(笑)。
白川 少なくとも『西遊記』の場合、そこの仕分けに関しては、当初は演出は藪下さんでしたから、最終的に藪下さんが決めていました。
── 大工原さん、森さん、大塚さんに関しては、ご本人も言ってるし、他の人も語る事が多くて、どんなところが得意だったのかだいたい分かるんですが。古沢さんは、どういうシークエンスが向いてる人と思われてたんですか。
白川 それも、結構いい加減だったかも知れない(笑)。「古沢さんは身体がでかくて大きいから、猪八戒やってよ」みたいな話だったかもしれないしさ。
── (笑)。それから、熊川さんはこの中でも最長老のような存在ですよね。戦前からやられている方だから、必ずしもこの時代のアニメに向いていなかったのではないかと思うんですが、どのようなシークエンスを担当されてたんですか。
白川 特にこういうところ、というのはなかったと思う。作画の割り振りに関しては、やっぱり大工さんが一番手は早いから、大量にシークエンスを持つんです。また、持ってもらわないと、作品が完成しない。一方、森さんは、非常にコツコツと作業するから、手が遅いわけですよ。だから、やっぱり森さんは森さんの得意であるところをやってもらう。あの人は何でもできたんだけど、当時の大量生産工程では、大きな部分では持ってもらいにくかった。
で、大塚さんは手も早いし、色んな事ができる。森さんは、女性だったらヒルダみたいな凛とした女とかは巧いけど、色っぽい女性みたいなのはあんまり向かない。そういうのは大工さんに行っちゃう。
── あ、そうなんですか(笑)。色っぽい女性は、森さんよりも、大工原さんの方が得意とされていたわけですね。
白川 僕がそんな事を言うと、後で、文句を言われるかも知れないけどね。もうひとつは、画っていうのはその人自身の癖が出るんだよ。だから、そういうのを基準に振り分けていくというところはありましたよね。で、今の熊川さんの話になると、特にこんなシークエンスを頼むという事はなかった。やっぱり大工さんが沢山描いて、森さんには得意なところをやってもらって、大塚さんや古さんに割り振って、次に熊さんに割り振るような感じだった。
僕はディズニーが好きで、ディズニーの(条件を十分そろえて制作する)やり方を理想としたい部分もあったわけだから、東映動画の制作のやり方については、非常に辛いところはあった。たとえば、森さんがチーフになって全編を仕切るようなものは、あの頃では作れなかった。今の人達が『どうぶつ宝島』等を観て「あれはいい!」「あれが森さんの仕事だ」と言うかもしれないけれど、それは段々とアニメーターも増え、制作的な余裕が出ててきたところで作ったものだから。そういう部分はありましたよね。
── つまり、当時ちょっと戦力不足な感じがあったという事ですか。
白川 戦力不足と言うよりも、その戦力でしか戦えなかったという事ですね。
── 後の『わんぱく王子』で、作画監督がトータルで画をチェックするシステムが敷かれたと言われてますけど、そういう事は『西遊記』の頃にはできなかったわけですね。
白川 できなかった。それと『わんぱく王子』でそれができたのは、そういうやり方が上手く合う話だった。つまり、そのシークエンスの主役みたいなものがあったじゃないですか。大蛇退治のところは大塚さんがやるとかさ、ツクヨミのところは奥山さんのキャラクターで行こうとかさ。スサノオのキャラクターは森さんが全部統一するとか、そういうのが非常に上手く行きましたね。
── 本当に全部チェックするっていうのは、先程の森さんの仕事ぶりからしても……。
白川 できないんですよ。例えば『西遊記』の時に、森さんが、大工原さん達が描いたものをチェックできるかと言ったら、絶対にできなかったでしょうね。僕は森さんと組んで仕事する事は、あまりなかったんです。それは残念ですね。
── 『白蛇伝』『猿飛』では編集に宮本信太郎さんが入られてて、『西遊記』では宮本さんと井草寛二郎さんが連名になってるんですけど。『西遊記』では、実際は井草さんがやったんですか?
白川 そうです。東映という会社のシステムとして、やはり偉い人の名前を出そうという事になるんですよ。ただ、実際には井草さんがやった仕事を、宮本さんに見てもらったかもしれませんが。
── この頃の美術では、鳥居塚(誠一)さんとか、時代劇の方の大物を呼んできたりしていますよね。『西遊記』の場合に、考証で作家の邱永漢が入られていますが、美術的な考証もやったんですか。
白川 やりません。東映の企画本部長の坪井與(あとう)さんという人がいて、邱さんは坪井さんの友人だったんですよ。それで「中国のものをやるんだったら、邱さんに考証を頼んだらどうだ」と言われたんです。それで、邱さんにお願いしただけであって、実は、邱さんはほとんど何もやってませんでした。
── そうなんですか。
白川 ところが、その後、台湾の大使館から電話がありましてね。僕が出たんですよ。「『西遊記』の事、分かる人いないか。ちょっと伺いたいんだけど、邱永漢は『西遊記』にどういう風に関わってるんだ」と言うから、僕もちょっと答えに窮したんだけどね。どういう事かといったらね、邱永漢は台湾で独立運動をやってたんですよ。だから、もし邱永漢が関わっているなら、この映画は台湾に輸入させられない、と。そういう電話があった事があるんですよ。だけど、邱さんは、ほとんどかんでいません。これは事実だから、そう言っても、邱さんは怒らないと思う。邱さんは動画スタジオには一遍きたぐらいですよ。
―― もうひとつ『西遊記』の美術で、矢野(雅章)さんや沼井(肇)さんのお名前がありますが、これは具体的には?
白川 美術の矢野さんは、美術課の課長だったんです。
── 東映動画の社員ではあったんですか?
白川 本社の宣伝部から東映動画に出向して、それで美術課の課長になったんです。確か、芸大の油絵を出たとか言ってました。クレジットに載るのは、制作・大川博とか、企画・高橋秀行と同じです。ですから、彼が実際に背景を描いた事はなかったと思います。芸大出だから、技術的な指導はしてたかも知れないけれど。で、沼井さんは、矢野さんが『西遊記』の時に連れてきた大学の同級生だか、後輩だかなんですよ。
── ところで、この時期の長編では、画面の構図をとっていたのは、美術の方だったんですか。それともアニメーターの方だったんですか。
白川 最初に、絵コンテを演出がやりますよね。で、アニメーターのチーフがそれぞれ手分けして、絵コンテの清書をしますよね。それが基本になるわけですよ。それを元にして、美術の沼井さんが原図を描いていたけれど、ほとんどの場合は、原画ないし第二原画がレイアウトをし直してた。そのレイアウトがまた背景に行くわけですよ。だから、美術デザイナーが先にレイアウトを完全に決めて、そのレイアウトに合わせて動画を描くという事はなかったですね。
── 反対に、例えば『わんぱく王子』などで小山礼司さんの活躍というのがよく言われるのは、小山さんはそういうものに対して、ちょっと例外的な関わりをしている人だっていう事にもなるんですか。
白川 『わんぱく王子』の事は、パク(高畑勲)さんか矢吹(公郎)くんに聞いてもらったほうがいいと思うけど、でも、やり方としては今言ったのと同じような形だったと思うんですよ。ただ小山さんは、彼自身の能力と美意識でシークエンスのグランドデザインや色彩設計などをきっちり作り上げましたよね。そういう意味では、彼は『わんぱく王子』のまさしく「美術」ですよ。明らかに。
── なるほど。
白川 『西遊記』の頃はさっき言ったように、決まった戦力で戦ってた。それは美術に関してもそうなんです。今だったら、プロデューサーが「この企画にはこういう美術が合う」といったように選ぶ事もできるけど、あの頃は、ほとんどそれはできなかったんです。だからと言って言い訳する気はないけども、やっぱり正直言ってかなりしんどかったというか、思うような仕事がしにくかった事は事実ですね。
●白川大作インタビュー(4)へ続く
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