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■東映長編研究 第14回
白川大作インタビュー(7)
『魔法使いサリー』と博報堂時代
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── 話は前後しますが、改めて『魔法使いサリー』の企画についてもうかがえますか。
白川 僕が企画課長になった頃に、渡邊亮徳さんが東映本社のテレビ部長になったんですよ(編注:のちに東映副社長)。亮徳さんは、非常に気さくな人だったし、本社のTVの企画と、動画の企画という事で、非常に緊密な関係にあった。それで、僕は亮徳さんに、手塚さんや石森章太郎を紹介したんです。それが後の『仮面ライダー』につながっていくわけだけど。
── なるほど。
白川 で、ある朝、亮徳さんから電話があって、「おい、『りぼん』の今月号を見たか」と言うんです。「いや、まだ見てない」と言ったら、「すぐ見ろ」と。見ると『魔法使いサニー』の予告があったんですね。「これ、どうだ?」と言うから、僕は「これ、いける」と応えた。で、亮徳さんにアニメ化権をとってこいと言われて、すぐに横山光輝さんとこへ行ったわけ。
その時点で、これからTVアニメがカラー化されるというのは分かっていた。それから手塚さんが『リボンの騎士』をやるとか、一方でドラマの「奥さまは魔女」がヒットしているとか、そういう状況の中で「これはいける」と思ったんです。それでTV化権をとって、それを日本教育テレビ(編注:略称がNETテレビ。現在のテレビ朝日である)に持って行って、プレゼンテーションをした。そうしたら「少女マンガなんて当たるのか」と言われたんです。そこでまた僕が屁理屈をこねたんだ。要するに、ベイビーとかチルドレンという言葉があって、これは男の子も女の子も入ってる。その上の年齢としてボーイズとガールズがいる。今あるTVアニメは、ほとんどボーイズにウエイトがかかってる。でも、ボーイズと同じ数だけガールズもいる。ボーイズのアニメーションが当たるのと同じように、ガールズのアニメーションも当たるはずだ、と。そんなプレゼンテーションをして、企画が決まったわけです。それが、東映動画の初めてのカラーTVアニメーションですよ。
── 『サリー』は、最初からカラー番組として企画してたんですか。
白川 最初からカラーでした。
── でも、最初はモノクロで始まっていますよね。
白川 いや、そんなはずはない。最初からカラーだったでしょう。
── カラーになるのは18話からですよ。
白川 ……じゃあ、途中からか。おかしいなあ。自分で勝手に記憶を作ってるのかね。『魔法使いサリー』は最初からカラー放送されていた記憶があるんだ。関さん(編注:関政次郎。当時の東映動画専務)と、どこかホテルのロビーで放送を観た記憶があるんだよ。まだ東映にはカラーTVがなかったのかな。それを観て「ちゃんと色が出てる」と安心した記憶がある。それがホテルオークラだったのか、帝国ホテルだったのかは、記憶が定かじゃないんだけど。
── カラーになった最初を確認したんじゃないんですか?
白川 僕は、それが1話だと思い込んでたんだよ。『リボンの騎士』の放送が始まったのはいつだっけ?
── 『リボンの騎士』は『サリー』より後です。
白川 後?
── 後です。ただし、パイロットフィルムは『サリー』より前なんです。『リボンの騎士』のパイロットって昭和41年(1966)の11月に完成してるんです。白川さんくらい手塚さんの情報に明るければ、『リボンの騎士』が動いてる事は御存知だったはずです。
白川 もう知ってた。
── ただ、『リボンの騎士』は、パイロットがモタモタしちゃったので、少女アニメ第1号の栄冠に輝く事ができずに(笑)、『サリー』に先を越されちゃったんです(編注:『魔法使いサリー』の放映開始が昭和41年12月。『リボンの騎士』の放映開始が昭和42年4月)。
白川 僕は、最初の少女アニメが『リボンの騎士』かなと、思ってたんだよね。
── 本当はそうなるはずだったんです。実際には『リボンの騎士』よりも4ヶ月早く『サリー』が始まったんです。だけど、『サリー』がカラーになったのと、『リボンの騎士』の放映開始は、同時ですよ。
白川 ああ、そういう事なのか。へえー。記憶というのはいい加減なもんだ。
── 『サニー』が『サリー』に変わった件にも、白川さんは関わっているんですよね。
白川 ええ、これは他の取材でも話したけれどね。準備を進めている間に、日産からサニーという車が発売されて、商標登録の問題が起きたんです。それで『サニー』の名称を使用させてもらうように、日産に行ったんだけど、そうしたら「ソニーに行ってくれ」と言われた。実は、ソニーは自社製品と混同されないように、似た名前の商標を全部押さえていて、日産もソニーの許可を受けてサニーを売っていたんです。だけど、ソニーは日産に許可はしても、こちらには許可してくれなかった。それは我々が『サニー』を始めれば、その名前が付いたお菓子やオモチャが発売される。ソニーがそういったものを作っていると勘違いされるのは困るという事だった。
── 自動車はいいけど、お菓子はダメだったんですね。
白川 そういう事です。それで『サニー』に近い名前を皆で考えて、『サリー』にした。今となっては誰が『サリー』と言い出したのかははっきりしないけれど、勝田(稔男)さんだったかも知れない。
── 白川さんが企画課長だった時期の作品に『ゲゲゲの鬼太郎』もありますね。
白川 『鬼太郎』の前に別の企画があったんです。その頃、渡邊亮徳さんとつるんで、僕は色んなところへ行ってたんですよ。色々な人と付き合って、その中に初代の週刊少年マガジン編集長の内田勝さんとか、副編集長だった宮原(照夫)さんもいた。ある時、内田さんに声をかけられて「白川さん、ちょっと相談がある」と言われた。「実は、今度うちで、凄いのを連載するんだよ。白川さんのとこでやらない?」と言われたわけです。
── 連載開始時に声をかけられたんですか。
白川 向こうだって、TVにのったら人気が出るって事は分かってるからさ。それが『巨人の星』なんだよ。「梶原一騎という作家がやるんだ。『巨人の星』。いいタイトルでしょ」というわけです。それで「よし! じゃ、それをちょっと俺に預けろ」と言って企画書を書いたらさ、ボロクソに叩かれて。
── それは東映で、ですか?
白川 そう。当時の東映は、東映フライヤーズという球団を持っていて、フライヤーズが優勝した時には、大川博社長が背番号100のユニホームを着て銀座をパレードするくらいの騒ぎだったんですよ。ところが僕の先輩が、東映の社内報の編集をやってたんだけど、社内報に「東映の中の巨人ファン」っていうページを作って……。
── ははは(笑)。
白川 社内の熱狂的な巨人ファンを紹介したり、「もし東映と巨人が戦ったら、どっちを応援するか」なんてアンケートをとって載せたりした。そうしたら大川社長が激怒したわけよ。それで、その編集長がたちまち更迭されたの(笑)。
── ええー。そんな事で、ですか?
白川 うん。要するに「ふざけてる」と。「東映は挙国一致して、東映フライヤーズを応援しなきゃいけない」って(笑)。そういう風な話があったわけ。だから、僕が『巨人の星』の企画書を書いてさ、持っていったら、みんなが「もう冗談じゃない! こんな事をしたら、この辺のみんながクビになる」という話になって(笑)。結局、『巨人の星』の話はこちらから断ったんです。ま、内田さんとは、そんな関係だった。それである時に、内田さんが「白川さん、ちょっとこれ聴いてよ」と言って、レコードを持ってきたわけです。
── それが、あのキングで作ったやつですね。
白川 そうです。キングレコードが「少年マガジン」に連載されていた漫画の主題歌集を作ったんですよ(編注:「少年マガジン マンガ大行進」)。「まず聴いてくれ」と言って、内田さんが聴かせてくれたのが、例の熊倉一雄の歌だった。当時はまだ『墓場の鬼太郎』というタイトルだったと思う。
── そうですね。
白川 それで「これはいい!」と思ったわけ。それで早速持って帰って、亮徳さんに聴いてもらったら、「これ、いいよ。この主題歌はいい」という事になった。それで『墓場の鬼太郎』の企画書を作ったわけですよ。だけど、日本教育テレビに「こんなもん、やれるか」と言われて。
── 一応、NETに持っていったんですね。
白川 うん。そうしたら、亮徳さんが「そうだ、フジテレビに持っていこう」と言い出した。当時、フジテレビには武田信敬さんという編成の副部長がいたんです(編注:のちに日本テレワーク社長)。で、そのレコード持っていって聴かせたら、周りにいた人達がゲラゲラと笑ってさ、「これはいい!」という話になったわけ。「これは面白いかもしれんぞ」と言って、編成がフジテレビの会議にかけたら、営業が全員反対だった。
── あ、そうなんですか。
白川 「『墓場の鬼太郎』なんてタイトルの番組で、どこがスポンサーになるんだ」という話になって。それで武田信敬さんから連絡がきて、「墓場の鬼太郎』じゃあどうにもならない。タイトルなんとかならんか」と言われたんですよ。それで、水木(しげる)さんに相談しら、水木さんから『ゲゲゲの鬼太郎』というタイトルが返ってきた。「うん、それならいけそうだ」と思って、『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルを持ってったんです。よくフジテレビも乗ってくれたと思うんだけどね。営業は反対したんだけど、編成が押し切ったわけですよ。それで、できあがったんだけど、いざ放映が始まったら、歌は大評判になったけれど、視聴率はそんなには上がらなかった。放映もそんなには長くは続かなかったです。
── でも、『鬼太郎』は1年以上やってるじゃないですか。
白川 そんなにやった?
── ええ(笑)。65本やってます。
白川 じゃあ、思ったより長かったんだ。とにかく、人との付き合いの中で、何が転がってくるかなんて分かんないわけです。僕が「少年マガジン」を読んで、「『鬼太郎』がいい!」と思ったんじゃなくて、音楽をキングレコードが作って、それを聴いたところから、アニメ化の企画が始まったわけですから。
── 『ゲゲゲの鬼太郎』は、東映動画がNET以外でやった最初のTVシリーズですよね。東映本社が開局したTV局としてNETがあったから、他社では作ってはいけないといった暗黙の了解があったんですか。
白川 いや、そんな事はないですよ。そんな事はないけど、ほら、もうそれぞれのプロダクションごとの縄張りみたいなものができているわけじゃないですか。
── なるほど。縄張りの中でやれるなら、そこでやる、と。
白川 それから僕の企画の仕事としては、ビデオクラフトとの作品があった。
── 『キングコング』と『親指トム』ですね。
白川 この作品を原(徹)くんが制作担当をした。それが後に彼が独立して、トップクラフトで合作を作るのに繋がっていく。それから、この作品が後になって、僕が博報堂に入るきっかけになったんですよ。『キングコング』と『親指トム』が完成した後で、博報堂の企画部長の蔦原(万亀雄)という人が東映動画を訪ねてきた。それが、スポンサードとTV局への持ち込みを博報堂にやらせてくれないかという話だったんです。で、名刺交換をしたら、蔦原さんはフジテレビの編成にいたうちの弟と、仕事上での行き来があった事が分かった。しかも、僕の同郷で同じ中学の先輩だったんです。それがきっかけになって、翌年、昭和43年(1968)の正月明けに、蔦原さんに「博報堂へ来ないか」と声をかけられたんです。博報堂は企画部を強化しようとしていて、アニメに詳しい僕に声をかけたんです。それで博報堂に行く事になった。
── その時点で、もう東映動画を辞めたかったんですか?。
白川 いやあ、まあ、かなり飽きてましたね(苦笑)。
── そうなんですか。それ以前に、演出家をずっと続けたいという思いはなかったんですか。
白川 うーん、やってみて、やっぱり才能ないって思ったわけです。
── それは何をやられた時に思われたんですか?
白川 やっぱり、『西遊記』をやった時に。
── (笑)ええっ、そんな最初の頃に? 例えば、他に「これは凄い才能だ、敵わない」と思うような演出家が現れたとか、そういった事があったんですか。
白川 演出の力は、俺よりはるかに芹さん(芹川有吾)の方が上だと思ったね。矢吹君が『アンデルセン』を作った時も、「とても敵わない」とまでは思わなかったけど、感心した。だけど、別に芹さんや矢吹君に敵わないと思って、演出を辞めたわけじゃない。演出が嫌だから企画へ行ったというよりも、やっぱり声がかかってくると、そっちの方が面白そうだなあと思っちゃう、そういう癖(ヘキ)はあるな。
── ああ、なるほど。
白川 演出をやっていれば、1作品に集中してそれを完成させる面白さがあるわけだけど。「あれもやりたいこれもやりたい」というような事はできない。僕は気が多いから、演出よりは企画の方が向いてるなと思ったんだよね。平沢さんに企画課長をやらないかと言われた時もそう思ったし、博報堂から声がかかった時にも、博報堂へ行けば、アニメだけでなくいろんなものにタッチができるなと思った。事実、向こうへ行って、色んな事をやったからね。
── 白川さんが博報堂で手がけられたアニメは『コアラボーイ コッキィ』ですか。
白川 それと『巨神ゴーグ』。
── 特撮だと「メガロマン」がありますね。
白川 ありましたね。あなた、よく覚えているね。博報堂はアニメにはあまり向いていないんですよ。自分がやった仕事で「これは!」と言える仕事は、ブロ野球のジュニア・オールスターゲームなんだ。それまでもジュニア・オールスターってあったんだけど、TV中継を含めて、現在あるようなかたちに持って行ったんですよ。
── 『風の谷のナウシカ』の企画の成立にも、白川さんは絡んでいるんですよね。
白川 それは関わった。徳間書店から博報堂に、協力してくれという話が来たんです。その時に僕は、博報堂の企画部長をやっていたんだけど、徳間担当の営業に「こんな企画が来たんだけど、当たりますかね」と訊かれたんだ。うちの倅が「アニメージュ」を愛読していたから、『風の谷のナウシカ』のことは知っていた。「俺が保証する。絶対当たるから、乗れ!」と言って、それで博報堂が乗る事になったんです。それから、パクさんがブロデューサーになったんだけど、制作現場がとして考えていた東京ムービーから余裕がないと断られて、頭を抱えていたんです。そのとき「ちょっと待て、原徹のところに行ったら、空いているかもしれない」と閃いたわけ。その前に『コアラボーイ コッキィ』を原くんのところに頼んでいたから、彼のところをよく知っていたわけですよ。それで、トップクラフトに電話して、その日のうちにパクさんと徳間の鈴木(敏夫)氏と3人でトップクラフトに行ったんです。
── なるほど。
白川 だからね、人と人との縁というのは、いろんな形で繋がっていくんです。まあ、僕は人にお説教したり、偉そうな事を言えるような人間じゃないけど、ただひとつの大事な処世訓を言うとしたら、「人との付き合いを大事にしろ」という事だね。世の中は、本当に何が起こるか分かんない。例えば、僕とパクさんが仲が悪かったとしたら、トップクラフトと引き合わせる事もなかったろうし。あるいは僕が、仕事の上で原くんを邪険にしていたら、話を持っていっても原徹は乗らなかっただろうし。
── (笑)。
白川 やっぱり、人間関係って、良くしておいて損はないね。そのおかげでいろんな事が起きるから。起こらなくたって元々でしょ。
── そうですね。
白川 僕の人生を振り返ると、人から声かけられて、ホイホイとそっちに乗っかるみたいな感じだった。だから、そういう意味では、あなた方みたいなアニメファンというか、真面目な研究者というか、クレイジーな人というか(笑)、そんな人達から見ると、やっぱりけしからん人間であって。
── いえいえ(笑)。
白川 つまりさ、アニメをやりたくて東映へ入ったわけじゃないわけよね。
── だけど、その時期には、そういう人が大勢いますから。
白川 たまたま、宣伝部へ行こうと思ったけど入れてくれなかったから動画行っちゃったとかね。「企画課長をやってくれ」と言われれば、それで演出は辞める。博報堂から声がかかるとそっちへ行ってしまう。それで、今は何をやってるかっていったら、あちこちのカルチャーセンターで絵を教えているわけだよ。だけど、自分から「やらせろ」と言って始めた事は1回もないわけです。たまたま、そういう話がきたから乗ってきただけなんです。それまでの色んな関係から、そういった話が起こってくるわけさ。面白いものだよね。
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