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コラム

アニメ様の七転八倒 小黒祐一郎
  第4回 「美しき夢」を見る人

 数年前、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』がDVD化され、その時、公開時に自分達がこの作品に熱中した事を思い出した。僕らにとって、『ビューティフル・ドリーマー』は特別な作品だった。
 『ビューティフル・ドリーマー』の公開は1984年。押井守の出世作であり、その才能が遺憾なく発揮された作品である。サービス満点だし、アイデアも豊富。お馴染みの理屈っぽい部分も、笑いにつながっている。当時の僕は19歳で、大学生だった。劇場でも観たが、ビデオレンタル店が普及し始めた頃であり、友達の家に集まって、皆でビデオで観た事の方が印象的だ。DVDを観るまですっかり忘れていたけれど、この作品は劇場公開と同時にビデオソフトがリリースされたらしい。
 話の大筋だけでなく、個々の描写やセリフも面白かったので、何度もビデオを観て楽しんだ。セリフで言うと「トランキライザア」とか「大笑い海水浴場!」とかね。当時はレンタル代もバカ高かった。1泊2日で1000円くらいしたんじゃなかったかな。だから、この作品以外でも、皆でレンタル代を出し合ってビデオを借りて、誰かの家に集まって観る、なんて事を何度かやった。
 最後のカットで、友引高校の校舎が何階建てになっているのかを確認するのも、ビデオを観る目的だった。今さら説明するまでもないだろうが、『ビューティフル・ドリーマー』は、主人公の諸星あたる達が、学園祭前日の1日を何度も繰り返す、という物語だ。やがて、その世界が誰かの夢の世界だと分かり、あたるはそこから脱出しようとする。
 物語の中盤で、同じ1日が続く秘密が友引高校にあるはずだと考えた面堂達は、それを調べるために深夜の校舎に突入する。このシーンは山下将仁の作画で相当にイカしているのだが、それはさておき、元々3階建てだった校舎が、4階建てになっている事が分かる。そして、映画のラストカットで校舎の全景が再び映る。あたるは現実に戻っている事になっているので、中盤の説明が正しければ、校舎は3階建てになっているはずなのだが、ここで校舎は2階建てになっている。あたるが現実に戻っていないとすると、物語の結末が変わってくる。劇場公開時には、僕らはその事に気がつかなかった。後で、そのラストカットの噂を聞き、是非とも校舎の階数を確認したかったのだ。
 ラストシーンの校舎の階数は、美術の描き間違いだという説と、演出意図であるという説があるようだ。押井監督が、それについて明言した事があるのかどうかは知らない。僕は、演出意図でそうしたのだろうと思っていた。
 そんな事について友達と話したり、物語を解釈したりするのは楽しかった。風鈴のある部屋でしのぶを見ている男は誰かとか、タクシーの中で夢邪鬼が語った時間の話についてとか。あるいは「責任とってね」のセリフの意味とか。勿論、映画全体のロジカルな構成も新鮮だったし、自分達がいる世界が本当に現実かどうかという問いかけも刺激的だった。
 『ビューティフル・ドリーマー』は『宇宙戦艦ヤマト』に始まるアニメブームの末期。あるいはブーム終焉の直後の作品だ。アニメブーム期の人気作は、その多くが「夢とロマン」の作品だった。勿論、僕らは「夢とロマン」に心ときめかし、感動したわけだが、『ビューティフル・ドリーマー』はそれらとは明らかに違った。解釈したり、思索したりする事ができる作品だったのだ。思索なんて大袈裟な言葉だけど、当時の気分は、そんな感じだった。平たく言えば、それまでにはない、賢くて面白い作品だったのだ。そんなアニメに出逢ったのは初めてだった。

 僕らが『ビューティフル・ドリーマー』に熱中した理由は、それだけではない。映画中盤で描かれる夢の世界でのサバイバル生活が、たまらなく心地よかったのだ。授業もなければ宿題もなく、親しい友人と、食事を提供してくれるその両親以外の人間は存在しない世界。しかし、食料はスーパーマーケットにたんまりとあり、水道やガスは供給される。水浸しになった学校で泳ぎ、道路の真ん中でローラースケートをし、夜は天井が抜けた映画館で怪獣映画を楽しむ。寝るのも食べるのも仲間と一緒。憧れの女の子達も傍にいる。それは無限に続く夏休み。モラトリアムの快楽そのものだ。
 「無限に繰り返される学園祭の前日」と「モラトリアムなサバイバル生活」。この映画は、そのふたつの理想を描いているわけだが、僕は後者に惹かれた。それは、当時大学生だった僕らの理想でもあったのだろう。僕自身は、同世代のファンほど『うる星やつら』というタイトルに熱中していたわけではなかったが、『ビューティフル・ドリーマー』では、メガネ達にシンパシーを感じた。もっと言えば、映画の中でサバイバル生活をしているのが、自分達であるかのように思えたのだ。
 一応、説明しておくと、メガネというのは『うる星』の名脇役。押井守と千葉繁が生んだ傑作キャラクターだ。メガネとその仲間達はラムに憧れているが、その恋人である、あたるの位置に立つ事はできない。彼らは、そんな自分達に歯がゆい思いをしたり、ラムに対する想いに酔ったりする。アニメ『うる星』ファンの多くが、メガネ達に感情移入した。
 『ビューティフル・ドリーマー』の、あたる達がハリアーに乗って友引町から脱出しようとしたシーンがある。ちなみに、ここの作画は板野一郎だ。メガネの仲間のパーマが「♪さらばあ、友引びきぃ。旅立つ、船はァ〜」と『宇宙戦艦ヤマト』の替え歌を唄う。細かいところだが、僕にはインパクトのある描写だった。それは生真面目な『ヤマト』を茶化しているという事でもあるのだが、メガネ達が僕らと同じ『ヤマト』を観る側にいるという意味にとる事もできる。彼らは、地球を救うために宇宙へ旅立つ古代進ではなく、その『ヤマト』を観る立場の普通の若者なのだ。そんな描写があったために、さらにいっそう、サバイバル生活をやっているメガネ達が自分達に近い存在に思えたのかもしれない。まあ、元々『うる星』の登場人物は牛丼を食べたり、学校をサボったりする、視聴者との距離の近い存在だったわけだが。

 『ビューティフル・ドリーマー』は、TVシリーズ『うる星やつら』を肯定する作品でもあった。夢邪鬼はラムが望む夢を実現した。それが、あたる達が取り込まれた夢の世界である。ラムが望んだ夢とは、あたるやその家族や仲間達と、いつまでも楽しく暮らす事だった。映画冒頭で、ラムが語る夢について聞いたしのぶが「今と同じじゃない」と言ったのと同様に、僕はそれは毎週放映される『うる星』じゃないかと思った。ここで、映画の最後で校舎が2階建てだった事が、重要な意味を持つ。あたるは夢から脱出したが、そこもまた夢だった。映画は完結し、物語は冒頭に戻る。いつまでもラムの夢である『うる星やつら』は終わらない。それは『うる星』世界の肯定であり、結果的に、ファンへのメッセージにもなっている。『ビューティフル・ドリーマー』は、『うる星』というタイトルを終わらない円環の中に封じ込めたのだ。
 多分、『うる星』ファンにとって『ビューティフル・ドリーマー』という作品の意味はそこにある。楽しい日々の繰り返しに価値がある。それが素晴らしい。『ビューティフル・ドリーマー』は、アニメ『うる星やつら』とは何か? という事について決着をつけてしまった。その一方で、あたるのラムに対する気持ちも描ききっている。あれ以上の事は、作品中では言えないだろう。その意味でも、『ビューティフル・ドリーマー』は、アニメ『うる星やつら』の決定版だ。

 以下は、DVDで久し振りに観返して思った事だ。
 70年代末のアニメブームで、青年といわれる年齢になってもアニメを観てもいいという事になった。そして、僕らは大学生になっても、アニメを見続けていた。そういった僕らのモラトリアム気分と、夢の中でのサバイバル生活はマッチしていた。『ビューティフル・ドリーマー』は、モラトリアムが無限に続くという夢を描いていた。『うる星』がいつまでも続くという幻想も重ねている。その甘美なイメージのために、僕らは『ビューティフル・ドリーマー』に熱中したのかもしれない。タイトルになっているビューティフル・ドリームが、『うる星』の事であり、そこに始まった享楽的なアニメーションを指すのなら、美しき夢を見る人とは、ラムの事であるのと同時に、僕ら自身だったのだ。
 『ビューティフル・ドリーマー』は、押井監督の才能が遺憾なく発揮された作品である。だが、恐らく監督が狙った以上の魔力を持ってしまった映画だ。だから、特別な映画なのだ。あの時に『ビューティフル・ドリーマー』に熱中した人達の夢は、今も続いているのだろうか。僕はどうだろうか。今もモラトリアムの中にいるのかもしれない。どんなに美しい夢も、20年も続けば多少は色あせているはずだが。

(05.02.09)
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